晴天だったが寒風が吹き荒れていた:
18日には室内から見れば暖かそうな天候だったので、体調維持の為に散歩でもしてみるかと出てみれば冷たい風が吹きまくっていて、到底耐えられそうにもなかったので5分ほどで退却。折角安定してきた気象病が再発しそうで恐ろしかったのだ。室内から見える街路樹の葉が落ちてしまっているので、風が吹いているかどうかの判断を誤った次第だ。
そこで、室内に戻っても他にやることがないのでテレビをつけてみれば、偶然にぶつかったのが平昌オリンピックのスキーの種目で、男子の「スロープスタイル」とやらいう曲芸というか障害物競争というか、張本勲ならば「良くもあんなことをするものだ。自分なら絶対にやろうとは思わない」と言いそうな競技の決勝戦だった。実は、これと同じ競技場でのスノーボードの競技も既に一寸見てあったので、何とかコークだの1440だのという技の名称も初耳ではなかった。
彼らは人間業とは思えないことを試みるのだが、軽々とこなす者もいれば無残な失敗もあるという具合。こういう競技種目があるとは全く知らなかったが、それは恐らくこれまでに冬季オリンピックというものに関心がなく見ていなかったのか、あるいは今回は何故か各テレビ局が挙って多くの種目を中継するので、見る機会が与えられたかの何れかと思っている。
だが、不思議に思えてならないことは「あの連中は一体何時何処であのような競技の練習をするのだろうか」という点だった。あの競技の練習をする為には、あれと同じような設定がされた練習場が常設されていなければなるまい。とすれば、彼らは雪を求めて1年中何処かを回っているのか、夏場のジャンプ練習場のような雪がない設備を設けておくのかなどと考えていた。スノーボードには我が国の選手がいたが、スキーでの決勝戦にはいなかった。
この手の中継放送を聞いて何時も不思議に感じることがある。それはアナウンサーも解説者も「高く飛んだ」か「素晴らしい高さに達する跳躍だった」と言うべき場面で必ず「高さがあります」と言うことだ。これは一体どういう日本語かと奇異な感に囚われる。
記憶は確かではないが、ヴァレーボールかバスケットボールの中継で高く飛んだ場合に、何時の間にかこういう表現を使った者がいたような気がする。その表現が全テレビ局に普及して「高さがある」という、良く考えれば意味不明なというか具体性に乏しい表現が定着したようだ。私の好むところではない。
私はこういう表現を使うことで、表現力が低下しており、具体的にどういう行動か演技だったかがサッパリ伝わってこないと思っている。これと似たような表現に多くのスポーツ選手たちが「非常に良かった」、「自分としてはこれ以上ない結果を出せた」、「素晴らしい結果だった」と言いたくて、全て「最高です」と怒鳴るのが大流行である。これも彼らの語彙の不足か表現力を奪い去る表現だと思って嫌悪している。何故、自分の言葉で詳細に語ろうとしないのか。
もう一つ気になるアナウンサー語がある。それは彼らが屡々「初めてのオリンピックでこの結果云々」という具合に「初めて」を強調したがることだ。誰だっていきなりオリンピックに2回目の出場が出来る訳がないだろう。それに、あそこまで「初めて」を強調されると「オリンピックという大会には2回以上出ていなければ立派な成績は出せない」とでも言いたいのだろうかと疑ってしまう。
「彼(または彼女)は今回が初出場です。健闘を期待します」程度のことを言えば十分ではないのだろうか。かの羽生君は初めてのオリンピックでいきなり優勝したではなかったか。高橋尚子さんが2回目の出場だったという記憶もないが、優勝していたではないか。あの時にそう言っていたか?中には8回も出ても今回は残念な結果に終わった者だっていたではないか。好成績は出場回数の問題ではあるまいと思うが。
また批判的なことを言ってしまったが、各局が競って中継放送してくれたお陰で、冬季オリンピックにはこれほど多くの見たことも聞いたこともないような競技があったと知ることが出来たのは有り難いことだったと思っている。だが、感謝するほども事でもあるまいと思っている。兎に角何処のチャンネルに行ってもオリンピックばかりで食傷気味であるから。要するに「早く終わってくれると良いな」という思いだ。不謹慎かな?
18日には室内から見れば暖かそうな天候だったので、体調維持の為に散歩でもしてみるかと出てみれば冷たい風が吹きまくっていて、到底耐えられそうにもなかったので5分ほどで退却。折角安定してきた気象病が再発しそうで恐ろしかったのだ。室内から見える街路樹の葉が落ちてしまっているので、風が吹いているかどうかの判断を誤った次第だ。
そこで、室内に戻っても他にやることがないのでテレビをつけてみれば、偶然にぶつかったのが平昌オリンピックのスキーの種目で、男子の「スロープスタイル」とやらいう曲芸というか障害物競争というか、張本勲ならば「良くもあんなことをするものだ。自分なら絶対にやろうとは思わない」と言いそうな競技の決勝戦だった。実は、これと同じ競技場でのスノーボードの競技も既に一寸見てあったので、何とかコークだの1440だのという技の名称も初耳ではなかった。
彼らは人間業とは思えないことを試みるのだが、軽々とこなす者もいれば無残な失敗もあるという具合。こういう競技種目があるとは全く知らなかったが、それは恐らくこれまでに冬季オリンピックというものに関心がなく見ていなかったのか、あるいは今回は何故か各テレビ局が挙って多くの種目を中継するので、見る機会が与えられたかの何れかと思っている。
だが、不思議に思えてならないことは「あの連中は一体何時何処であのような競技の練習をするのだろうか」という点だった。あの競技の練習をする為には、あれと同じような設定がされた練習場が常設されていなければなるまい。とすれば、彼らは雪を求めて1年中何処かを回っているのか、夏場のジャンプ練習場のような雪がない設備を設けておくのかなどと考えていた。スノーボードには我が国の選手がいたが、スキーでの決勝戦にはいなかった。
この手の中継放送を聞いて何時も不思議に感じることがある。それはアナウンサーも解説者も「高く飛んだ」か「素晴らしい高さに達する跳躍だった」と言うべき場面で必ず「高さがあります」と言うことだ。これは一体どういう日本語かと奇異な感に囚われる。
記憶は確かではないが、ヴァレーボールかバスケットボールの中継で高く飛んだ場合に、何時の間にかこういう表現を使った者がいたような気がする。その表現が全テレビ局に普及して「高さがある」という、良く考えれば意味不明なというか具体性に乏しい表現が定着したようだ。私の好むところではない。
私はこういう表現を使うことで、表現力が低下しており、具体的にどういう行動か演技だったかがサッパリ伝わってこないと思っている。これと似たような表現に多くのスポーツ選手たちが「非常に良かった」、「自分としてはこれ以上ない結果を出せた」、「素晴らしい結果だった」と言いたくて、全て「最高です」と怒鳴るのが大流行である。これも彼らの語彙の不足か表現力を奪い去る表現だと思って嫌悪している。何故、自分の言葉で詳細に語ろうとしないのか。
もう一つ気になるアナウンサー語がある。それは彼らが屡々「初めてのオリンピックでこの結果云々」という具合に「初めて」を強調したがることだ。誰だっていきなりオリンピックに2回目の出場が出来る訳がないだろう。それに、あそこまで「初めて」を強調されると「オリンピックという大会には2回以上出ていなければ立派な成績は出せない」とでも言いたいのだろうかと疑ってしまう。
「彼(または彼女)は今回が初出場です。健闘を期待します」程度のことを言えば十分ではないのだろうか。かの羽生君は初めてのオリンピックでいきなり優勝したではなかったか。高橋尚子さんが2回目の出場だったという記憶もないが、優勝していたではないか。あの時にそう言っていたか?中には8回も出ても今回は残念な結果に終わった者だっていたではないか。好成績は出場回数の問題ではあるまいと思うが。
また批判的なことを言ってしまったが、各局が競って中継放送してくれたお陰で、冬季オリンピックにはこれほど多くの見たことも聞いたこともないような競技があったと知ることが出来たのは有り難いことだったと思っている。だが、感謝するほども事でもあるまいと思っている。兎に角何処のチャンネルに行ってもオリンピックばかりで食傷気味であるから。要するに「早く終わってくれると良いな」という思いだ。不謹慎かな?