私は既に諦めの境地に達した:
先日意見交換の機会があった国文学者のKS氏は「もう、日本語だと思うようにしている」と言われた。私は以前から「日本語として戸籍を得てしまった言葉が余りにも多いので、使うことを阻止しようとは思わない。だが、間違ってもカタカナ語がEnglishとして通用するとは思わないように」と言ってきた。ということは、私は「諦めの境地」にあると言っているのと同じだ。
そこで、目下開催されている平昌オリンピック関連の報道を聞いていると、兎に角カタカナ語の花盛りというか常に乱舞しているので、敢えて、あらためて、カタカナ語の批判というか評論を展開してみようと思うに至った。
高梨沙羅さんが苦節4年(と表現して良いと思うが)遂に第3位に入賞して銅メダルとやらを獲得した。偉いと思う。だが、キャスターや解説者はその「メンタルを鍛えてあった」という。ここから先は揚げ足取りと思われると辛いのだが、mentalは形容詞であって名詞ではないし「精神力」という意味はない。
私はこれまでに「精神力」を英語では何と言うかを考えたこともなかったのだが、mental strengthとでも言うかと思ってプログレッシブ和英を見れば、 emotional strengthと出てきた。ジーニアス英和にはmentalとは「精神の、心的な(→physical, bodily)」と出てくる。
次に「多く出てくるな」という印象がある言葉に「フィジカルを鍛える」というのがある。このフィジカル、即ちphysicalというのも形容詞であり、「身体的な強度」という意味はない。それを言いたければ、strengthを付けないと「強い」という意味にならないと思うが、マスコミと運動の世界では「フィジカル」だけで十分に通用してしまっているのが現状だ。
「プレッシャー」も多用されている。これはジーニアス英和に②として出ている“[・・・からの/・・・への/・・・せよという](精神的な)圧迫、重圧;強制(力)[from/on/to do] ◆stressの原因になる外的事情を表す〉”が最も近いと思っている。なるほど、これだけの含蓄があることを一つだけのカタカナ語で表せるのだから、カタカナ語が重宝される訳だと思った。
次は以前から批判してきた「自己ベスト」を採り上げよう。これはどう考えてもおかしいのだが、完全に住民登録を終えてしまったのだから仕方がない。現代人は余程漢字文化がお嫌いだと見えて「自己最高記録」を回避して「ベスト」という形容詞の最上級の形を名詞の如くに使ってしまっているのだ。理屈を言えば、bestが名詞として使われる例はあるが、最高記録という意味では使われていない。思うに best recordの頭のところだけを採ったのだろう、恰もインフルエンザを「インフル」と称しているように。
選手たちもコーチも監督も当たり前のように「もっとレベルアップしなければ、世界の舞台では・・・」というような表現を使う。この表現も今や完全に日本語の範疇に入っていると思う。これは既に別途採り上げておいたので、覚えておられる方もあるかと思うが、和英辞書にもto improve the level などと出ている。要するに、カタカナ語では upとdownは恣意的に動詞として使われているのだ。
これくらい採り上げておけば十分だと思う。敢えてお断りしておくが、私には最早揚げ足をとろうとか、非難しようという大それた意識はない。ただ単に「もしも、これらのカタカナ語をEnglishにしようとすれば、こういう言葉で表せるのではないか」と言いたいだけである。批判したいことは「何故、我が国の英語教育ではこのようなおかしなカタカナ語化をしてしまうようなEnglishの教え方しか出来ないのか」という点である。
私は「未だそんなことを言っているのか」という批判があれば、温和しく承る気である。即ち、私は飽くまでも我が国の英語教育の至らなさを嘆いているのであって、カタカナ語を使うのをお止めなさいとは言っていないのだから。
先日意見交換の機会があった国文学者のKS氏は「もう、日本語だと思うようにしている」と言われた。私は以前から「日本語として戸籍を得てしまった言葉が余りにも多いので、使うことを阻止しようとは思わない。だが、間違ってもカタカナ語がEnglishとして通用するとは思わないように」と言ってきた。ということは、私は「諦めの境地」にあると言っているのと同じだ。
そこで、目下開催されている平昌オリンピック関連の報道を聞いていると、兎に角カタカナ語の花盛りというか常に乱舞しているので、敢えて、あらためて、カタカナ語の批判というか評論を展開してみようと思うに至った。
高梨沙羅さんが苦節4年(と表現して良いと思うが)遂に第3位に入賞して銅メダルとやらを獲得した。偉いと思う。だが、キャスターや解説者はその「メンタルを鍛えてあった」という。ここから先は揚げ足取りと思われると辛いのだが、mentalは形容詞であって名詞ではないし「精神力」という意味はない。
私はこれまでに「精神力」を英語では何と言うかを考えたこともなかったのだが、mental strengthとでも言うかと思ってプログレッシブ和英を見れば、 emotional strengthと出てきた。ジーニアス英和にはmentalとは「精神の、心的な(→physical, bodily)」と出てくる。
次に「多く出てくるな」という印象がある言葉に「フィジカルを鍛える」というのがある。このフィジカル、即ちphysicalというのも形容詞であり、「身体的な強度」という意味はない。それを言いたければ、strengthを付けないと「強い」という意味にならないと思うが、マスコミと運動の世界では「フィジカル」だけで十分に通用してしまっているのが現状だ。
「プレッシャー」も多用されている。これはジーニアス英和に②として出ている“[・・・からの/・・・への/・・・せよという](精神的な)圧迫、重圧;強制(力)[from/on/to do] ◆stressの原因になる外的事情を表す〉”が最も近いと思っている。なるほど、これだけの含蓄があることを一つだけのカタカナ語で表せるのだから、カタカナ語が重宝される訳だと思った。
次は以前から批判してきた「自己ベスト」を採り上げよう。これはどう考えてもおかしいのだが、完全に住民登録を終えてしまったのだから仕方がない。現代人は余程漢字文化がお嫌いだと見えて「自己最高記録」を回避して「ベスト」という形容詞の最上級の形を名詞の如くに使ってしまっているのだ。理屈を言えば、bestが名詞として使われる例はあるが、最高記録という意味では使われていない。思うに best recordの頭のところだけを採ったのだろう、恰もインフルエンザを「インフル」と称しているように。
選手たちもコーチも監督も当たり前のように「もっとレベルアップしなければ、世界の舞台では・・・」というような表現を使う。この表現も今や完全に日本語の範疇に入っていると思う。これは既に別途採り上げておいたので、覚えておられる方もあるかと思うが、和英辞書にもto improve the level などと出ている。要するに、カタカナ語では upとdownは恣意的に動詞として使われているのだ。
これくらい採り上げておけば十分だと思う。敢えてお断りしておくが、私には最早揚げ足をとろうとか、非難しようという大それた意識はない。ただ単に「もしも、これらのカタカナ語をEnglishにしようとすれば、こういう言葉で表せるのではないか」と言いたいだけである。批判したいことは「何故、我が国の英語教育ではこのようなおかしなカタカナ語化をしてしまうようなEnglishの教え方しか出来ないのか」という点である。
私は「未だそんなことを言っているのか」という批判があれば、温和しく承る気である。即ち、私は飽くまでも我が国の英語教育の至らなさを嘆いているのであって、カタカナ語を使うのをお止めなさいとは言っていないのだから。