外国人と見て侮ってはならない:
渡部亮次郎氏主宰のメルマガ「頂門の一針」第3200号に上西俊雄氏が
<岡崎久彦氏からら近年の駐日大使にかつてのやうな知日家がゐないと聞いたことがあり、先日は田久保忠衞氏が安倍總理の靖國參拜に對する批判のことから米國の知日派の底が淺くなったと言ふことを聽いた。>
と述べておられた。これを拝読して色々なことを考えてしまった。
知日派とは:
先ずはアメリカの知日派だが、私が体験した限りでは「非常に詳しい」か「ほとんど何も知らない」の極端な二局分離で中間派はごく少数だった。それほどアメリカ人は外国に関して関心が低く、極論を言えば自分が住んでいる州(州を意味する"state"には国という意味があるが)にしか関心も知識もない人たちが多い。故に、我が国についての知識がない者が多いのも驚くことではないだろう。
言いたくはないが、我が国でもワシントン州とワシントンDCの区別が付かない人はいたし、NYヤンキースは知っていてもNYに本拠を置くフットボールのティーム名を知っている人など例外的だろう。だからアメリカ人は日本のことを知らないと決め付ける訳には行くまいと思う。
W社は当方の在職中でも日本が最大の輸出相手国で、1兆円超の売上高の10%強が日本向けだった。それほどの会社でも日本担当部門の責任者と担当者以外には日本を深く広く理解している者はCEOを除けば、そう数多くはいなかったと思う。しかも、東京事務所に我々がいた以上、日本語を駆使して交渉をする本社のマネージャーは少なかったが、日本と日本人相手に如何に営業すべきかの力を備えた知日派と言える者は数多くいた。
当方は仕事の性質上アメリカとカナダの大使館の一等書記官の方々とも交流の機会があったが、彼等が知日派の部類に入るのは勿論その日本語力には驚かされた。それはカナダ大使館などの場合は、日本に着任後1年間は近郊の都市にある日本語学校で徹底的に言葉と文化等を学んでから実務に入ってくるのだと聞かされた。アメリカ大使館でも同様なことをしているようで、一等書記官の日本語力にも敬服させられた。
だが、彼等は普段は絶対と言って良いほど日本語では語らないものだった。余談だが、1995年だったか、全く偶然に光栄にも言葉を交わす機会を得た英国大使ご夫妻の日本語力には畏敬の年さえ覚えた。
言いたかったことは、実務担当の段階にいる人たちは我が国の文化にもある程度以上精通しているし、言葉も必要にして十分な力を備えているという点だ。だが、確実だと思うことは、彼等が大使などという次元までに達することがあるだろうかではないか。アメリカの社会構造では大使になる方はそういう階層からは出てこないという意味でもある。ケネディー大使も同様ではなかったか。
外国人の日本語力:
私は何度も「日本語は難しすぎて外国人、就中、アメリカ人には習得しきれない」と聞かされてきた。また「フランス人は英語が出来ない者が多い」とも言われていると思う。両方とも誤解であり誤認識だと思う。誰でも必要に迫られて学べば外国語は習得出来るものであり、アメリカ人にはその必要性がなかっただけで、と言うか日本に来れば日本人で英語が解る者を雇えば良かっただけと言えると思っている。
テレビ東京に「Youは何しに日本へ」という番組がある。これは成田や関空に行って到着した外国人を選んで(後で日本語が上手い人を選んで編集したのだろう)いきなり「何をしに来たか」と問い掛けるのである。勿論通訳も付いて行っているが、多くの場合色々な国の外国人が(譬え我が国に既に何年か滞在していたにもせよ)全く何の問題もなく日本語での問い掛けに対応してしまうのだ。これには私でさえ些か驚かされている。
前回の放映分ではイスラム教徒の少女が我が国のA代表のサッカー選手の名前を10人近く並べてファンであると日本語で語ったのにも驚かされた。決して外国人と見て侮ってはならないと痛感させられた。同時に「もしも我が国の人が外国に出かけて行って、空港でいきなり英語で"May I ask purpose of your visiting our country?"と尋ねられ、淀みなく英語で答えられるか」とも考えさせられてしまった。
韓国人の英語力が高いことは何度か述べてきた。あの番組を通じて得た知識は「諸外国には意外にも日本語を日本に行っても不自由しないほど教える態勢が整っているのではないか」という事である。私は「オレゴン州立大学で2年日本語を勉強してきたアメリカの青年が明治大学に留学して、何の問題もなく日本語の講義に対応出来ている」とも語ってきた。
この反対に「我が国の英語教育を2年だけ受けてアメリカの大学に留学して何の問題も生じないか」と問われて「問題ないだろう」と言えると思うか。何のことはない。結論は「我が国も外国語教育、特に英語には疑問点が多々あり」なのである。外国の文化を学ぶ重要な手段がその国の言語である以上、改革は必要であると言って終わる。
渡部亮次郎氏主宰のメルマガ「頂門の一針」第3200号に上西俊雄氏が
<岡崎久彦氏からら近年の駐日大使にかつてのやうな知日家がゐないと聞いたことがあり、先日は田久保忠衞氏が安倍總理の靖國參拜に對する批判のことから米國の知日派の底が淺くなったと言ふことを聽いた。>
と述べておられた。これを拝読して色々なことを考えてしまった。
知日派とは:
先ずはアメリカの知日派だが、私が体験した限りでは「非常に詳しい」か「ほとんど何も知らない」の極端な二局分離で中間派はごく少数だった。それほどアメリカ人は外国に関して関心が低く、極論を言えば自分が住んでいる州(州を意味する"state"には国という意味があるが)にしか関心も知識もない人たちが多い。故に、我が国についての知識がない者が多いのも驚くことではないだろう。
言いたくはないが、我が国でもワシントン州とワシントンDCの区別が付かない人はいたし、NYヤンキースは知っていてもNYに本拠を置くフットボールのティーム名を知っている人など例外的だろう。だからアメリカ人は日本のことを知らないと決め付ける訳には行くまいと思う。
W社は当方の在職中でも日本が最大の輸出相手国で、1兆円超の売上高の10%強が日本向けだった。それほどの会社でも日本担当部門の責任者と担当者以外には日本を深く広く理解している者はCEOを除けば、そう数多くはいなかったと思う。しかも、東京事務所に我々がいた以上、日本語を駆使して交渉をする本社のマネージャーは少なかったが、日本と日本人相手に如何に営業すべきかの力を備えた知日派と言える者は数多くいた。
当方は仕事の性質上アメリカとカナダの大使館の一等書記官の方々とも交流の機会があったが、彼等が知日派の部類に入るのは勿論その日本語力には驚かされた。それはカナダ大使館などの場合は、日本に着任後1年間は近郊の都市にある日本語学校で徹底的に言葉と文化等を学んでから実務に入ってくるのだと聞かされた。アメリカ大使館でも同様なことをしているようで、一等書記官の日本語力にも敬服させられた。
だが、彼等は普段は絶対と言って良いほど日本語では語らないものだった。余談だが、1995年だったか、全く偶然に光栄にも言葉を交わす機会を得た英国大使ご夫妻の日本語力には畏敬の年さえ覚えた。
言いたかったことは、実務担当の段階にいる人たちは我が国の文化にもある程度以上精通しているし、言葉も必要にして十分な力を備えているという点だ。だが、確実だと思うことは、彼等が大使などという次元までに達することがあるだろうかではないか。アメリカの社会構造では大使になる方はそういう階層からは出てこないという意味でもある。ケネディー大使も同様ではなかったか。
外国人の日本語力:
私は何度も「日本語は難しすぎて外国人、就中、アメリカ人には習得しきれない」と聞かされてきた。また「フランス人は英語が出来ない者が多い」とも言われていると思う。両方とも誤解であり誤認識だと思う。誰でも必要に迫られて学べば外国語は習得出来るものであり、アメリカ人にはその必要性がなかっただけで、と言うか日本に来れば日本人で英語が解る者を雇えば良かっただけと言えると思っている。
テレビ東京に「Youは何しに日本へ」という番組がある。これは成田や関空に行って到着した外国人を選んで(後で日本語が上手い人を選んで編集したのだろう)いきなり「何をしに来たか」と問い掛けるのである。勿論通訳も付いて行っているが、多くの場合色々な国の外国人が(譬え我が国に既に何年か滞在していたにもせよ)全く何の問題もなく日本語での問い掛けに対応してしまうのだ。これには私でさえ些か驚かされている。
前回の放映分ではイスラム教徒の少女が我が国のA代表のサッカー選手の名前を10人近く並べてファンであると日本語で語ったのにも驚かされた。決して外国人と見て侮ってはならないと痛感させられた。同時に「もしも我が国の人が外国に出かけて行って、空港でいきなり英語で"May I ask purpose of your visiting our country?"と尋ねられ、淀みなく英語で答えられるか」とも考えさせられてしまった。
韓国人の英語力が高いことは何度か述べてきた。あの番組を通じて得た知識は「諸外国には意外にも日本語を日本に行っても不自由しないほど教える態勢が整っているのではないか」という事である。私は「オレゴン州立大学で2年日本語を勉強してきたアメリカの青年が明治大学に留学して、何の問題もなく日本語の講義に対応出来ている」とも語ってきた。
この反対に「我が国の英語教育を2年だけ受けてアメリカの大学に留学して何の問題も生じないか」と問われて「問題ないだろう」と言えると思うか。何のことはない。結論は「我が国も外国語教育、特に英語には疑問点が多々あり」なのである。外国の文化を学ぶ重要な手段がその国の言語である以上、改革は必要であると言って終わる。