新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

通訳をすることの恐ろしさ

2014-05-27 13:18:14 | コラム
中国では処刑された通訳がいるとか:

畏メル友・佐藤氏が金正日と胡錦濤の会談の通訳を務めた高官が機密漏洩の廉で処刑されたと教えて下さった。あの国ならありそうなことだが、この辺りに通訳をすることの恐ろしさがあると思う。恐ろしさで悪ければ、危険性でも良いだろう。言うまでもないことで、会談の内容を好むと好まざるとに拘わらず全部聞いているのだから。

これまでに何度か通訳論を展開したが一度も触れたことがなかったことがある。それは通訳とは言わば陰のような存在で、そこにいたという記録に残らないかも知れないような役柄だと思っている。さもなくば、単なる機械のように見なす怖い方もおられた。しかも、通訳者はその社内の序列や身分では到底聞いてはならないか、知ることが出来るはずがないような高度の秘密会談の内容を知ることになってしまうのだ。

私は通訳に対する誤解がもしあるとすれば、通訳以外の方は「通訳が話しの全部を細部まで記憶している」と考えておられることだろう。それはないだろうと思う。また、私は絶対にしなかったことだが、女性の通訳では屡々速記(なのだろうか)でメモを取っていると見える。あれは不味いのではないか。私は自分の記憶力を信じて一切メモを取ることはしなかった。その理由は簡単で、メモを取るに神経が行ってしまうので、会話の内容を記憶出来ないか把握出来なくなるからだ。

しかし、個人的な経験から言えば「機密の漏洩」を疑うのは見当違いだと確信している。一々誰が何を言ったかなどを覚えていられる余裕がある会談には秘密などない、単なる儀礼的訪問courtesy call)だろう。しかし、本当の最高責任者間の会談ならばメモを取りたくなる気持ちは解る。この世にはメモを取らないのを見て「果たして正確な通訳をしているのか」と疑う人が必ずいるのだから。

通訳とは何れにせよ、余り恵まれないというか浮かばれない作業だと思わせられることがある。しかし、またもや経験上言えることで、本来ならば私如きがお目にかかる機会などあり得ないような偉い方の前で、恐れ多くもその方が仰ることを他の言語に変える作業をさせて頂くのだ。その結果、その方に覚えて頂いていて、声をおかけ頂いて「何故お前如きがあのお方から親しく声をかけて頂けるのか」と訝られたこともあった。

これを換言すれば、多くの会社の役付役員以上の方と顔見知りになってしまうので、何となく「ひょっとして俺は通訳が出来る一寸した人物なのだ」と思いたくなってしまうのである。しかし、このような錯覚というかカン違いは数秒で消えるが、顔が売れていることは秘かな楽しみではある。しかし、それも良く考えれば飽くまでも随行員としてのことだったと気付くと、やるせなくなるのだった。

本筋から外れた。記憶力に頼っていたとは言ったが、数分ないしは数秒前に聞いたことを覚えていては、ただ今聞いていることが頭に入らなくなるのだ。それだけではない、重要な言わば一社の機密に属するようなことを聞いている時は、発音やアクセントなどにまで気が回らず、ひたすら「正確に、訳し漏れがないよう」に、最大の集中力を注ぐので、話の内容を記憶しようとするが如き余裕が出てきた記憶はない。

時々は話し手の論旨の矛盾などに気が付くことがあるが、通訳が「それは如何なる意味でしょうか」や「もう一度仰って下さい」等と言って良いとは考えていない。そのまま訳すのだが、その辺りには「これで良いのだろうか」と怖くなることはある。しかし、もしもその気になれば、会談終了後に何が討論されたかを思い出すことは可能だろうと思うこともあるが、その記憶を呼び起こして誰かに語ることがどれほど悪いかくらいは承知していたつもりだ。

私は重要な会談の通訳をする場合には「頭の中を空にして発言されたことだけが頭の中に入って、それを自動的に他の言語に変えて出力することだけを考えていた。即ち、出力した時点で頭の中は空に戻っているのだ。処刑された中国の高官の頭の中はどうなっていたのだろうか。機密を漏らせるほどの凄い記憶力があったのだろうか。

以上はほとんどが通訳も出来る当事者ではない立場で通訳した時のことを語っているつもりだ。重要な日米企業間の商談の当事者が、会談の内容を忘れてしまってどうなるか。実は既に述べたように、上司とは事前に十分な打ち合わせが出来ているので、全て記憶出来て当たり前だ。

通訳は怖い仕事

2014-05-26 16:54:12 | コラム
通訳論:

これは容易に結論に到達しない議論かも知れない。

昨25日に仏文学者のK博士と懇談の機会を得た。博学多識の彼との語り合いでの話題は広範囲に及んだ。中でも最も印象的だったのが安倍総理と彼の通訳についてだった。お互いに安倍総理の外交政策というか訪問外交に異議はないが、相手が変わる度に通訳が変わっているのが気になるとの点には疑問を感じざるを得なかった。

総理が通訳に依存されていることに異存はない。迂闊に外国の要人というか高官と話し合う際に馴れないその国の言葉で話すことは危険であるのは当然だ。アメリカ等の英語圏の人たちとの重要ないしはトップ会談を英語でするのは無茶であろう。だが、K博士が採り上げた疑問点は「その通訳が総理の秘書役であるとか近くにいて総理の人となりから言葉の癖まで知り尽くしているのではない、職業として通訳である場合があると聞いたので不安になった」ということだった。

そうであれば大いに問題だろうと私も思う。経験上も言えるのだが、この広い世の中には「通訳は全知全能で森羅万象至らざるなしというくらいにあらゆる言葉を知っている」と考えておられる方が多いようなのである。そんな方がいれば、会ってみたいものだ。私は1988年に約2週間、当時のことで1日が8万円という通訳の女性2人と、W社のある事業部の幹部30人と日本中の大手メーカー(紙パだけではないという意味)の工場を訪問したことがあった。

彼女たちの英語力は一級品で文句のつけようがなかった。しかし、自動車、紙パルプ、カメラ、コピー機等々の業界の専門語を熟知している人がこの世に何人おれるだろう。彼女たちは訪問する工場に行くまでの車中やバスの中で想定問答集をアメリカ側と十二分に打ち合わせたし、専門語は予習してきてあって、そのリストをアメリカ側に提示して確認していた。そのhomeworkの量は凄まじいものがあって「なるほど8万円か」と納得させられた。

私自身は「通訳も出来る当事者」と自称していたが、その背景には通訳は給与のうちには入っていないということがあって、完全に近く出来て当たり前と見なされていた。それに生涯最高の上司だった副社長の通訳は10年以上も務めてきたので彼の性格、言葉遣い、癖はもとより当日の機嫌まで読めるようになっていた。しかも、"courtesy call"(儀礼的訪問)でない限りはお客様に会う前に当日の議題くらいは朝食会で十分に練り上げていたものだった。彼の通訳は自己陶酔の世界に入ってやっていた。

しかし、偉そうに言う私では紙パルプと関連の業界である印刷と紙加工以外の産業界の専門語の知識など、自慢ではないが皆無であった。悲しいほど解らなかった。そういう辛い経験もさせられた。さらに、極言すれば「その日に初めてお目にかかったような方の通訳を承るのは無謀である」と思っている。どういう人か解らないからである。責任が持てないだろう。それでも社交辞令的な話し合いならば引き受けたことはあった。

ここまで述べてくれば、安倍総理の通訳をしておられる方が気懸かりな理由はお解り頂けると思う。一国の総理の通訳はその日限りの請負仕事ではないと思うから言うのである。大変に重大は業務だろう。しかし、良いことに、これまで総理が会談された結果で何らかの問題が起きたとは聞いていない。だから良いじゃないかという問題ではない。

総理の周辺に我が国の学校教育の英語で育って、TOEICの点が高かったという人を配置して「もう通訳に問題がない」などと考えられては問題だということ。学校教育の英語の問題点はこれまで読者諸賢がウンザリされただろうと思うほど指摘してきた。では、如何なる能力がある人を据えれば良いのかって。それは私如きの問題ではない。文科省とその官僚の方にでも問い合わせてみたら如何か。

あーあ、カタカナ表記

2014-05-25 17:31:40 | コラム
パルマー(Palmer)が主力選手だそうで:

昨24日にバスケットボールのBjリーグのファイナルの中継をBSフジで偶々見ていた。そのゲームに出ていた京都の中心選手がアメリカ人で「パルマー」だとアナウンサーが言っていた。そこでピンと来たのは、恐らく"Palmer"だろうということ。しかし、中々この選手の背中が映らないので確認できなかったが、矢張り"Palmer"だった。まさに「あーあ、またか!」だった。

この綴りをどう読めばパルマーになるのかと情けない思いだった。「パーマー」に決まっているだろう。何故こんなインチキな読み方をするのかとフジを責めたかった。嘗てW社の他の事業部に"Balmer"というマネージャーがいた。彼は断じて「バルマー」ではなく「バーマー」と名乗っていた。

嘗て、アメリカの超有名プロなゴルファーに"Arnold Palmer"という人がいた。彼は断じて「アルノルド・パルマーではなかったはずだ。彼とともに何年前のことだったか、南アの"Gary Player"も来日した。彼は「ゲーリー・プレーヤー」と表記された。そこで私は皮肉った。「ゲーリーとは俺のことかとクーパーが」と言って。"Gary"は何度も言ってきたが、「ゲァリー」と表記する方が正確だ。

恐らく「パルマーは俺のことかアーニーが」と嘆いたことだろう。京都のパーマーはまさか自分が「パルマー」という名字に変えられていたと承知していないのではないか。

女子サッカーのアジア選手権

2014-05-25 10:31:24 | コラム
本25日に対オーストラリアの決勝戦があるそうで:

今のうちにこのサッカーについても一言述べておかねばなるまい。最初のオーストラリアと引き分けた試合以外は何とか見てきた。勝って当たり前のような相手ばかりだったが、中国には苦戦させられていたようだった.。だが、あの勝ち方を見れば「W杯は伊達に獲ったのではない」という実力がハッキリと出ていたのが解る。即ち、あのロスタイムとやらの終わりになって、CKから岩清水に「後は入れるだけ」という球を蹴る宮間の凄さはWorld classなのだ。

ところで、このゲームを見ていると、何時審判に負かされるかと不安になった。判定が偏るとまでは言わないが大試合を裁く技量がないのである。結果的には流石に宮間と澤だとあらためて感心する以外なかった。あの澤の一点目などはアメリカもやられていたが、芸術点をつければ150で、宮間の正確無比に澤に合わせたキック力も150点。良く「もう一度やってみろと言われても出来ないだろう」と言うが、私が知る限りで公式戦であの形は確か三度目で、全て得点となっていた。誠に素晴らしい技術と合わせ方だ。

今夜はオーストラリアに負けるとは考えていないが、W杯メンバーとそれ以外との力量の落差が大きすぎるのが不安材料。しかも落差組は男子同様に消極的になりがちで危険が迫るかと見た瞬間に見事なバックパスの特技を遺憾なく発揮する。それに加えて大儀見がいなくなってしまったのでは、澤と宮間が使いたいFWがいなくなっている。佐々木監督がそこを如何にして補うかだ。宮間を前に出す手もあるだろうが、それではパスの出所がなくなる。

結局は二線級の奮起如何になってくるのだ。思い起こせば川澄がW杯で途中から使われた結果あそこまで急速に成長し今や世界的水準にいる数少ないプレーヤーになっている。二線級から川澄級の大化けが出来そうな候補者が見えてこないのが辛い。

私は二線級の力不足は代表に呼ばれるまでの間に育ててきた下部組織の監督とコーチの責任だろうと思っている。以前にも指摘したが、高校と国内リーグで勝てる程度の上手さと強さを目指して教えていれば仕方がないだろう。ここ辺が問題で、勝つためにはW杯組の力に頼るしかなく、そうしていれば何時まで経っても若手が経験不足になって育たないのだ。換言すれば、が国人相手の技術も戦術眼も備わっていないのだ。

私は女子代表の方が男子代表よりも正統派のサッカーを身につけており(後ろ向きのパスが少ないという意味も含めて)、安心して期待して見ていられると信じている。ここには佐々木監督の力があると思う。かと言ってかのザケローニ監督がそれほど駄目だと決めつけてはいない。彼が気の毒な点は代表に上がってきた時点では選手たちの成長過程で身につけた問題点を矯正していてはW杯には間に合わないのだから。

我が国の英語教育の成果は

2014-05-24 17:10:31 | コラム
我々が英語の学習に注いだエネルギーの効果は:

5月24日は暫くぶりに国際法のTY先生と語り合う機会を得た。私は「高齢化とともに他所様と親しく語り合う機会が減るのは止むを得ないが、そのために頭脳の回転というか働きが遅くなる一方で、物思う力が落ちる一方だ」と思っている。本日のように無い知恵を絞って語らねばならないのは、言うなれば絶好のブレーンストーミングの機会のようなものであろうか。

先生との話題は数々あったが、最も記憶に残ったのが先生が指摘された「我が国における英語に対する劣等意識というか『学ばねば世界に遅れる』とでも表現したいような本当の意味での"English"ではない英語という代物の学習に費やす膨大なエネルギーに、どれほどの効果があるのか」という点だった。

私はこういう視点からは英語(Englishとは別物で、何となくEnglishの如きである科目を指す)を論じてこなかったので、非常に新鮮な論点だと思って承っていた。私のこれまでの表現は初代の日本プロ野球のアメリカ大リーグの選手、ホーナーが1年働いてから「もうこれ以上"something like baseballをやるのは厭だ」と言って帰ってしまったのと同じで、我が国の学校教育では「英語という名の"something like English"をこれでもかと数学のように教え込んでいるだけ」だと見なしてきた。

ところがそれだけでは飽き足らない英語の教育者たちはTOEICなるテストを恰もアメリカ製の如くにして輸入して「英語の科学」の学習効果を占うものに仕立ててしまった。「英語」をいくら懸命になって学んでも、その効果は「外国人に通じたか通じないか」を試す程度でしかなく、とても英語圏の外国人を相手に論旨を組み立てて自由自在に屈服させる次元には希に到達するだけだった。しかし、英語は重要なのだとも誰もが思い込まされている。

しかし、何処かの誰かが「国際化の時代にあっては英語ぐらい解らないではいられないし、外国人と思うように語らねばならないのだ」といったような空気を醸し出して、挙げ句の果てには小学校から英語教育をという時代になってしまった。しかし、私が何度も言ってきたように「私は有り余る英語力を抱えていても(冗談言うなと思われても結構です)、会社からリタイヤーしてしまった後では英語など全くと言って良いほど活用する機会などなく、外国人にこの広い東京で道を尋ねられたことなど20年間で僅かに3回である。

だが、屡々「外国人に道を聞かれて答えられず恥ずかしかった」等と言う人は沢山いるのは何故だろう。実は、我が国の街中では道を英語で教えて上げるのは非常に困難であり、日本語でも容易に教えて上げられない性質だ。私は「時間があるので、途中まで一緒に行って上げる」と言ったこともあったほど面倒なのだ。故に、恥と思う必要などないと認識して頂きたい。

英語とは外国人に道を教えるために学ぶものだろうか。そのために中学から大学の教養課程まで6年間も数学を学ぶように科学的に学ぶことにどれほどの意義があるのだろうか。「通じた」と言って喜ぶために学ぶのだろうか。しかも、その教え込まれた「英語」が本当の"English"とは一寸異なる英語圏の人には理解されにくい「科学としての英語」だと知ったら余りにも悲しすぎないか。

些か遠回りしてしまったが、ここにあらためて主張したい重要な点は「英語の学習を万人に強制すべきか」、「英語ないしはEnglishは本当にそれを必要とする職業か学問の道に進むものだけが、それに相応しい学び方をすれば十分ではないか」、「英語圏の文化を教えずに科学としての英語を教え込まれたために、英語を母国語とする国の人たちとの交流も取引も上手く行かなかった例が多すぎたと承知しているのか」等々である。

換言すれば、「文化(言語・風俗・思考体系・宗教等)が異なる国の言葉を教えるないしは学ぶ際に、我が国の文化との間にそれほど大きな違いというか差があるのを無視して、例えばTOEIC如きのために強制することに果たして意義があるのか。それに費やすエネルギーを他のことに振り向ける方が効果的ではないのか」なのである。

私は英語ないしはEnglishに精通することに意味がないと言っているのではなく、必要な人が必要に応じて学べば十分ではないのかと言っているのだ。それは英語を深く追求すれば、あるいは高級な趣味になるかも知れないし、教養の立派な一部のなるかも知れない。だが、良く考えなくても解ることだが、「我が国の全ての国民が他所の国の人と、その国の言葉で話し合う機会が生涯にどれほどあるのか」ということだ。

近頃は一部に信じられていた「日本語は難しくて外国人には容易に習得できない」という誤った説を覆すような、日本語を驚くほど巧みに、自由に操る外国人が激増した。しかし、私は彼等が本当に我が国との文化の違いにまで精通しているかどうかは、私は寡聞にして知らない。だが、あれほど短期間に上達する外国人が増えたという事実は「諸外国の外国語教育が余程充実しているのでは」ということと「それに引き替え我が国の英語教育は・・・」という辺りに、誠に遺憾ながら思いが至ってしまうのだ。嗚呼。