新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「英語の教え方」を考えるべき時

2015-03-23 08:34:36 | コラム
「英語の学び方」ではなく「教え方」を説こう:

昨日の私の「英語の学び方」の中から

”我が国の「科学としての英語」の教育では何時まで経っても「文化の相違」を知らせずして教えてきたために「思うように自分の考えが相手に理解して貰えない」ともどかしがったり、「無意識の非礼」を侵すような結果になってしまうと指摘し続けて来た。そして、「英語で話す時には頭の中のギアを切り替えて英語だけで考えるようにせねば、話すことなどの上達は望めない」とも主張してきた。”

さらに
”茂木健一郎氏の主張は正しいとは思うのだが、英語をある程度以上話すようになって初めて文化の相違に気が付いて深刻に悩ん漸く真の意味での上達があるのは間違いない。だが、その「相違」を認識するためには「自国の文化とは何か」と「自分は何者か」を理解するのが必須のなのだ。そこに至るための基礎は学校教育の何処かで徹底的に教え込まねばならないのだが、そこが出来ていないのが我が国外国教育の欠陥だ。この点はフランス文学のTK博士も強調されている。”

という辺りについて畏友・尾形美明氏から

<この認識ギャップを埋めるのは至難の業のように思えます。なぜなら、学校の英語教師を含めて、こうした“問題”を理解できないからです。問題の存在すら、殆どの関係者が分かっていないと思います。日常的に外国人と接触しない日本人の多くが、理解できないのは仕方がない様な気もします。>

とのご意見を賜った。有り難いことだ感謝した。

そこで、これについての私の更なる考えを尾形氏宛に下記のように返信したので、ご参考までにここに掲載する次第だ。

>引用開始
誠に適切なご指摘だと思います。私は「英語の勉強法」ではなく、「英語の教え方」を説くべき時が迫ったとすら考えるようになりました。「相互の文化と思考体系に相違があるという問題の所在を知らないか、その所在すら教えられずに英語教育に携わっているか、無邪気に「科学としての英語」を教えて来てしまった人たちの再教育が必要だと言いたいのです。

それだけではなく、近頃憂鬱にさせられていることがあります。それはテレビなどに登場する外国人の日本語が皆一定以上の水準に達していて「上手い」と唸らせられることです。彼等は皆ごく短期間学んだだけで上達しているのです。一体全体如何なる教えられ方をしてきたのかと感心しています。それに引き換え、中学校から大学まで教えられて「英語が話せなくて」とか「解らないので」と嘆く人が多いのは何故かという問題です。

尤も、1990年に紙パの専門誌に連載していたエッセーに書いたことですが(拙著「アメリカ人は英語がうまい」にも出ています)「ある高校教師が話せるようにならない教育を責められて”不当である。我々は生徒たちを5段階に分けて評価するために英語を教科としているのであり、話せるようにするなどは最初から眼中にない”と公開の討論会で述べた」という告白とも開き直りのような言い分を聞いたのです。

文科省や先生方のこのような方法論というか考えというか教え方乃至は思想を変えて行くことは至難の業だと思うのです。あーあ。
>引用終わる

という次第で、「英語の学び方論」も重要だし必要が、ここまで来れば「教え方論を採り上げていかねばならないと考えた次第だ。

兵庫県条例

2015-03-22 10:21:17 | コラム
兵庫県議会が自転車の購入者に保険の加入を義務付ける条例案を可決:

と報じられていたが、この件を昨21日に日テレで辛坊治郎が採り上げていた。彼はこの条例では販売店も保険がない自転車を売れないという制限がついていたと指摘していた。

彼の指摘では我が国にはおよそ7,700万台もの自転車があるそうで、これは10人に対して6台の自転車があることになるそうだ。さらに自転車事故による死亡者の数が年ごとに増加し、その賠償額を払いきれない例も急増しているので、兵庫県議会の決議は良いことだと褒めていた。同感である。彼は所有者の中には知らずして保険に入っている人がいるはずだとも言った。それは普通の損害保険にも特約がついている場合おあるといううことらしい。

当方も自転車の無法振りを常々危険だと痛感していたしそのような指摘もしてきた。また自転車は一定以下の幅がない歩道を走ってはならないと規定されながら、未だに無視する者が多く、悲憤慷慨しているのだ。ましてや、現在のような病み上がりで往年の敏捷性を失っていては?歩道を危険走行する無法自転車を避けきれないと不安でならないのだ。

しかも、ある調査によれば、歩道を走行する言い訳が「車道を走るのは危険だと感じるから」等と言う訳が解らないものとそれに類似する答えが合計で30%近くもあると言っていたが、これは笑って許すことが出来ない問題ではないか。手前勝手すぎる。

問題はそれどころではないと思うというか、本当に7,700万台かと言うこと。ここから見える新宿区の放置自転車保管場所には何時でも数百台が置かれていて一向に減らないし、5,000円だったかの罰金を納入して引き取っていく人の姿を見た記憶もないのだ。区内には高田馬場にも3~400坪もあろうかという広大な保管所があり、如何に放置する者たちが多いかと、5,000円を惜しんでいる者が多いのかと疑わせてくれる。

即ち、全国の放置自転車を総合計すれば一体どれくらいの数に達するかという素朴な疑問だ。しかも、この百人町界隈には明らかに「盗んできて放置したのでは」と思わせる自転車が常に何台も歩道に置き去りになっている。また、明らかに外国語で話しながら自転車に乗っている者が多いのも特徴だ。「~ながら自転車」だっていくらでもいる。危険極まりない。

こういう放置自転車は一定の期間を過ぎると業者に払い下げられ、その多くはアジアの諸国等に輸出されていると報じられていた記憶もある。何と言う無駄遣いかと嘆きたい。私はこのような自転車に対する姿勢を見る時に、我が国にもこのように遵法精神に欠け、経済観念がおかしい者が増えつつあるのかと極めて遺憾に思っている。

地方自治体も所管の官庁も、自転車に対する管理・監督を早急に強化して貰いたいものだ。だが、道幅が狭く、且つ道路が入り組んでいる我が国の交通事情では、自転車が軽自動車並みに増えるのには仕方がない面もあるかも知れない。だが、そういう屁理屈を並べて法を無視する意識こそが問題であると敢えて指摘して終わる。

英語の学び方

2015-03-21 14:30:12 | コラム
我が国の英語教育の問題点:

President誌の2015.4.13号は表紙に「英語の学び方」を特集するとうたってある。実は、そこを飛ばして147頁にある茂木健一郎氏の連載コラム「英語は高収入を目的に学んではならない」の最後の一節にある「私自身、日本人の中ではかなり英語ができるほうだと思うが、英語圏の文化に興味を持ったことが英語上達のきっかけなったように思います」に大いなる興味を感じた。

偽らざる感想から入れば「今頃こんな事を言われてもね-」となる。“日本語と英語との間に余りにも厳然と存在する思考体系の違いと、我が国と英語圏の諸国(端的に言えば我が国のとアメリカの間でも良いが)との文化の相違を認識せずして、英語を話す事と言うか会話などをしない方が良い”のである。私はこの言語と風俗と習慣との違いがあることを長年力説してきた。

即ち、我が国の「科学としての英語」の教育では何時まで経っても「文化の相違」を知らせずして教えてきたために「思うように自分の考えが相手に理解して貰えない」ともどかしがったり、「無意識の非礼」を侵すような結果になってしまうと指摘し続けて来た。そして、「英語で話す時には頭の中のギアを切り替えて英語だけで考えるようにせねば、話すことなどの上達は望めない」とも主張してきた。だが、残念ながらこの説の賛同者は極少数だった。

茂木氏の主張は正しいのだが、英語をある程度以上話すようになって初めて文化の相違に気が付いて深刻に悩ん漸く真の意味での上達があるのは間違いない。だが、その「相違」を認識するためには「自国の文化とは何か」と「自分は何者か」を理解するのが必須のなのだ。そこに至るための基礎は学校教育の何処かで徹底的に教え込まねばならないのだが、そこが出来ていないのが我が国外国教育の欠陥だ。この点はフランス文学のTK博士も強調されている。

だが、我が国の教育では「この単語のアクセント一は」等という試験問題を繰り返して出しているようでは、その境地に至る子供も児童も生徒も学生も滅多に出てくる訳がないのだ。実は、かく申す私もW社に転じて10年後辺りになって、初めて「文化の違い論」を本気で唱えるようになり、漸くアメリカ人と真の意味での「意思の疎通」が可能になってきたのだ。

言わば「鶏が先か卵が先か」的な議論かも知れないが、相違を知るのは大変重要なことなのだ。私の場合は「英語で思うように言えるようになること」が先だったが、それだけではアメリカの会社では通用しないという厚い壁にぶつかって、漸く「文化の相違論」に至ったのだ。即ち、英語を媒介にしない限り「相違」の認識と問題解決に至るのは極めて難しいと思うのだが。

また、President誌の「英語の学び方」の32頁に東大大学院・酒井邦盛教授が「たとえば日本人が英語をうまく話せないのは脳が日本語にチューニングされているからです」と指摘されている。誠にご尤もだ。これは当方にギアの切り替え論と同じ議論だと思っている。故に?これも重要な点であると敢えて指摘する。

私の「英語の勉強法」では、1945年に日系米人のGHQの秘書の方に英語で話すことを教えられた際に、最初に言われたことが「英語だけで考えなさい。聞こえた英語を日本語にして考えては駄目。また英語で何か言おうと思う時に、先に日本語の文章を思い浮かべてそれを訳すようなことをするのも駄目」と厳しく教え込まれたという辺りから始めてある。

上記のような重要な点はこれまでに何度も繰り返して書き、機会を与えられれば語り且つ講義してきた。しかし、このような学習法は学校での「科学としての英語」で直ちに試験で好成績を残す結果にも結びつかないようだし、TOEICでの高得点を産み出さないと判断されたようで、賛同者も極少数だったし、今後とも支持者が増えると期待してはいない。だからこそ、TOEIC対策や入試対策の参考書が売れるのだと思っているが、如何。

なお、私がいう文化とは「ある集団ないしはグループの言語・風俗・習慣と思考体系を指す」のであり、英語にすれば"culture"であって、"civilization"ではない、念のため。

NHK籾井会長対民主党階猛代議士

2015-03-20 09:04:17 | コラム
品位に欠ける言い争い:

頂門の一針の主宰者・渡部亮次郎氏はテレビをご覧になっていないと承っています。その方が幸せかも知れません、こんな醜態を見ないで済むのですから。だが、昨今、各局が競って採り上げる元はと言えば小沢一郎の子分であった民主党の階猛がNHKの籾井会長を締め上げる、嘗ての左翼学生の集団の吊し上げを想起させるような質問の連発には「ウンザリ」という以外の表現が思い浮かびませんでした。

この有様を見ても、民主党は左翼というか古き悪しき労働組合の延長線上にあるかのような他社(他者?)の如何なる些細な弱点をも見つけ出しては、その点をここを先途と責め立てるだけの全く政治的には無意味なことに貴重な時間を浪費させて我が事成れるとする集団であったことを、今この21世紀にあっても立証しているという時代錯誤振りに呆れました。

この一件は籾井会長か秘書かハイヤー会社に請求先を明確にして発注していればこのような事態にならなかったと思うのだ。また階猛はしきりに会長を非難するが、苟もNHKの会長が伝票処理がどうなっているかにまで気を配るものかくらいは、銀行勤務をした彼が解らないはずはないだろう。それでも、籾井氏追い落としのためとあれば、言い募るイヤらしさが際立っていた。下品である。

また、私が知る限りの大手商社の出身者は皆所謂「如才のない」且つ「礼節正しき」ビジネスマンだったのですが、今回階の標的にされた籾井会長は、言うなれば「如才があり過ぎる」かの感が深いのです。あのハイヤー代の一件を以て、NHKの予算の審議に応じないと言いたげな民主党は「矢張り民主党は民主党で、何年経っても進歩もも変化も出来ないな」と痛感した次第です。

余談ですが、Wikipediaによれば階猛は東大出身で日本長期信用銀行に勤務した経験があるとか。あのような銀行員がいた銀行は如何なる組織だったのかと思わずにはいられませんでした。

3月19日の出来事

2015-03-20 09:01:10 | コラム
3月19日の気になったニュース:

先ずは自分のことから。18日にはリハビリテーションに行ってきて難なく課題をこなし、気分爽快で帰宅した。19日の午前中にはこれならば回復も遠い先のことではないかと思わせてくれたほど快調だった。だが、一寸慢心したのか昼食をやや食べ過ぎた感があり(と言っても健常者ならばその倍くらいは軽く平らげた程度だが)、夕方かにはやや胃腸の調子が落ちてしまった。それでも朝夕の血圧は正常値で、心臓の状態は落ち着いていたと信じている。

チュニジアのテロ:
Tunisia(敢えて発音通りにカタカナ表記すると「チュニージア」でアクセントが「ニー」に来るが)でのテロ行為が最大の驚きだった。しかも邦人から3人もの犠牲者が出たとは何ともいたましい。心からお悔やみ申し上げる次第だ。

この種の事件が起きると報道では判で捺したかのように「一般のイスラム教徒は”イスラム教とは”が疑われることを迷惑に思っている。イスラム教は決してそういうテロをするような教えではない」と聞かせている。そうであろうし、またそうであって然るべきだとは思う。しかし、現実は如何ともしがたいところにまで来てはいないのかと思ってしまう。

また、テレビ局が多用する所謂専門家たちは「これから先はイスラム教圏内では常に安全だと思う場所に身を置くよう万全の注意を」などと曰うが、何処か安全かなどが単なる観光の旅人に直ぐに解るなら苦労はないのではないのか。私はそれでもこれまでに、アメリカが主体であったが世界で21ヶ国(入国のスタンプを捺されれば1国と数えてだが)を歩いてきた。

だが、何処に行っても安全だ等と思ったことなどなかった。そこで安心もせず油断せず、常に四方八方を注意していたものだった。それが当たり前で、我が国のような安全さが何処に行って転がっている国などあり得ないのであると思っているのが当然だ。その我が国だって場所によってはひったくりだってコンビニ強盗だってあるではないか。

私は安全などというものは自分の責任で確保するべき事だと心得ておくべきものだと固く信じている。我が国の治安の安全基準は諸外国にはあり得ないと思っているべきだと言っておきたい。確かにパック旅行中にフィレンツェでは例の少年たちが新聞用紙で隠してくる泥棒に出会ったが、その時少しも慌てず?日本語で大声で一喝して退散させた。バルセロナでは自由行動開始の3分後に”ウエストポーチ”をつけたご婦人が後ろから抱え込まれて全部中身を抜き取られた。

余談だが、当方浅学非才にしてチュニジアと言われても、1942年にトランペットのDizzy GillespieがピアノのFrank Paparelliと共作したジャズの名曲”A Night in Tunisia”くらいしか知識がなかった。「アラブの春」と言われた動きは報道で承知していたが、チュニジアと聞いて頭の中には「チュニジアの夜」が先ず浮かんできた。そこかあれほどの観光名所として自らの無学を恥じたニュースだった。

ハリルホジッチ新監督が:
話は一寸変わるが、このフランス語を話している(のだろう)新監督が日本代表のメンバーを発表した。来日する前に我らが代表のヴィデオくらいは協会から提供されていただろうし、その後に何試合かを見ていたのだろう。何れにせよ、あの短期間で新機軸を打ち出す選手を選ぶのは物理的にも難しかっただろうとは思う。だが、2億を円超える年俸を提供されたと報じられている以上、私は言い訳は通用しないと言いたいのだが。

結局、彼が選べたのは前任者とそのまた前任者の好みというか評価とさして変わっていなかった。これは仕方がないだろうとは思う。と言うのは、今の我が国のサッカーの水準からすれば、あの顔触れしか選びようがないほど日本的なサッカーしか出来ない者が育っているのだから。落胆させてくれた者も選ばれていた。それはGKの川島。あれは何度も指摘したが実績からしても顔付きがお怖いだけのヘボである。新監督の英断で落として欲しかった。

遠藤を落としたのは、女子の佐々木監督がアルガルペカップの代表から澤穂希を外したのと同じような「中」英断だろうとは理解する。彼の上手さは誰にでも解っているのだが、そうかと言って何時までも彼に依存していれば世代交替にもならないし、後継が育っていないという歴然たる事実がある。今のJリーグのような小さく纏めてリーグで勝とうというサッカーをやっていれば、遠藤を抜く者が育つ訳がないのだ。

だが、W杯予選の場合だけでも遠藤を使わないと苦しいのではないかな。新監督は敢えてその危険性を採ったようだから、「英断」も中くらいと評価した。他には一体何処で何をやっているのかと思っていた、足があれだけ速い永井を選んだ着眼点を面白いと思った。これなどは監督の好み次第で選手が活かされるか伸びずに終わるかの好例になる気がする。

何れにせよ、協会が批判を浴びながら選んできた監督が最悪でもW杯で16強以上に残れるようになるまで育ててくれることを切に祈るだけだ。予選リーグ突破だけならば過去に実績があるので、彼を選んだ意味がないと断じたい。新監督がフェアープレーがけがサッカーではないという辺りまで、国際基準を叩き込むというか教え込むかが心配なのだが。