「英語の学び方」ではなく「教え方」を説こう:
昨日の私の「英語の学び方」の中から
”我が国の「科学としての英語」の教育では何時まで経っても「文化の相違」を知らせずして教えてきたために「思うように自分の考えが相手に理解して貰えない」ともどかしがったり、「無意識の非礼」を侵すような結果になってしまうと指摘し続けて来た。そして、「英語で話す時には頭の中のギアを切り替えて英語だけで考えるようにせねば、話すことなどの上達は望めない」とも主張してきた。”
さらに
”茂木健一郎氏の主張は正しいとは思うのだが、英語をある程度以上話すようになって初めて文化の相違に気が付いて深刻に悩ん漸く真の意味での上達があるのは間違いない。だが、その「相違」を認識するためには「自国の文化とは何か」と「自分は何者か」を理解するのが必須のなのだ。そこに至るための基礎は学校教育の何処かで徹底的に教え込まねばならないのだが、そこが出来ていないのが我が国外国教育の欠陥だ。この点はフランス文学のTK博士も強調されている。”
という辺りについて畏友・尾形美明氏から
<この認識ギャップを埋めるのは至難の業のように思えます。なぜなら、学校の英語教師を含めて、こうした“問題”を理解できないからです。問題の存在すら、殆どの関係者が分かっていないと思います。日常的に外国人と接触しない日本人の多くが、理解できないのは仕方がない様な気もします。>
とのご意見を賜った。有り難いことだ感謝した。
そこで、これについての私の更なる考えを尾形氏宛に下記のように返信したので、ご参考までにここに掲載する次第だ。
>引用開始
誠に適切なご指摘だと思います。私は「英語の勉強法」ではなく、「英語の教え方」を説くべき時が迫ったとすら考えるようになりました。「相互の文化と思考体系に相違があるという問題の所在を知らないか、その所在すら教えられずに英語教育に携わっているか、無邪気に「科学としての英語」を教えて来てしまった人たちの再教育が必要だと言いたいのです。
それだけではなく、近頃憂鬱にさせられていることがあります。それはテレビなどに登場する外国人の日本語が皆一定以上の水準に達していて「上手い」と唸らせられることです。彼等は皆ごく短期間学んだだけで上達しているのです。一体全体如何なる教えられ方をしてきたのかと感心しています。それに引き換え、中学校から大学まで教えられて「英語が話せなくて」とか「解らないので」と嘆く人が多いのは何故かという問題です。
尤も、1990年に紙パの専門誌に連載していたエッセーに書いたことですが(拙著「アメリカ人は英語がうまい」にも出ています)「ある高校教師が話せるようにならない教育を責められて”不当である。我々は生徒たちを5段階に分けて評価するために英語を教科としているのであり、話せるようにするなどは最初から眼中にない”と公開の討論会で述べた」という告白とも開き直りのような言い分を聞いたのです。
文科省や先生方のこのような方法論というか考えというか教え方乃至は思想を変えて行くことは至難の業だと思うのです。あーあ。
>引用終わる
という次第で、「英語の学び方論」も重要だし必要が、ここまで来れば「教え方論を採り上げていかねばならないと考えた次第だ。
」
昨日の私の「英語の学び方」の中から
”我が国の「科学としての英語」の教育では何時まで経っても「文化の相違」を知らせずして教えてきたために「思うように自分の考えが相手に理解して貰えない」ともどかしがったり、「無意識の非礼」を侵すような結果になってしまうと指摘し続けて来た。そして、「英語で話す時には頭の中のギアを切り替えて英語だけで考えるようにせねば、話すことなどの上達は望めない」とも主張してきた。”
さらに
”茂木健一郎氏の主張は正しいとは思うのだが、英語をある程度以上話すようになって初めて文化の相違に気が付いて深刻に悩ん漸く真の意味での上達があるのは間違いない。だが、その「相違」を認識するためには「自国の文化とは何か」と「自分は何者か」を理解するのが必須のなのだ。そこに至るための基礎は学校教育の何処かで徹底的に教え込まねばならないのだが、そこが出来ていないのが我が国外国教育の欠陥だ。この点はフランス文学のTK博士も強調されている。”
という辺りについて畏友・尾形美明氏から
<この認識ギャップを埋めるのは至難の業のように思えます。なぜなら、学校の英語教師を含めて、こうした“問題”を理解できないからです。問題の存在すら、殆どの関係者が分かっていないと思います。日常的に外国人と接触しない日本人の多くが、理解できないのは仕方がない様な気もします。>
とのご意見を賜った。有り難いことだ感謝した。
そこで、これについての私の更なる考えを尾形氏宛に下記のように返信したので、ご参考までにここに掲載する次第だ。
>引用開始
誠に適切なご指摘だと思います。私は「英語の勉強法」ではなく、「英語の教え方」を説くべき時が迫ったとすら考えるようになりました。「相互の文化と思考体系に相違があるという問題の所在を知らないか、その所在すら教えられずに英語教育に携わっているか、無邪気に「科学としての英語」を教えて来てしまった人たちの再教育が必要だと言いたいのです。
それだけではなく、近頃憂鬱にさせられていることがあります。それはテレビなどに登場する外国人の日本語が皆一定以上の水準に達していて「上手い」と唸らせられることです。彼等は皆ごく短期間学んだだけで上達しているのです。一体全体如何なる教えられ方をしてきたのかと感心しています。それに引き換え、中学校から大学まで教えられて「英語が話せなくて」とか「解らないので」と嘆く人が多いのは何故かという問題です。
尤も、1990年に紙パの専門誌に連載していたエッセーに書いたことですが(拙著「アメリカ人は英語がうまい」にも出ています)「ある高校教師が話せるようにならない教育を責められて”不当である。我々は生徒たちを5段階に分けて評価するために英語を教科としているのであり、話せるようにするなどは最初から眼中にない”と公開の討論会で述べた」という告白とも開き直りのような言い分を聞いたのです。
文科省や先生方のこのような方法論というか考えというか教え方乃至は思想を変えて行くことは至難の業だと思うのです。あーあ。
>引用終わる
という次第で、「英語の学び方論」も重要だし必要が、ここまで来れば「教え方論を採り上げていかねばならないと考えた次第だ。
」