新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

度しがたい国・韓国

2017-12-28 08:16:20 | コラム
日韓はマネージ不能となる:

28日に産経は1、2面を使って日韓関係を取り上げている。掲題はその2面にある河野外相の談話から抜粋したものだ。私はその通りだと思う。我が外務省も過去の外務大臣もこれまでにこのような言わば我が国の思考体系では中々思い切って言い出してこなかったことを、アメリカの大学に留学経験者である河野外相がアッサリと発言したのだと捉えている。

私はずっと以前から何も外務省に限られたことではないが、我が国の政治家も高級官僚も産業界も、我が国と諸外国との間に歴として存在する「文化と思考体系の違い」を十分に弁えておらず、国内向け専用の「以心伝心」や「論争と対立を避ける姿勢」が外国にも通じると思っているのか、相手国に対して真っ向から自国の主張をぶつけて論争に持ち込むことをしてこなかったと見ている。

それだけではなく「論争と対立を怖れる思考体系」から、韓国のよう国内事情に基づいているだけで到底海外の国(例えば日本)を相手にして通用する訳がない、屁理屈ではなかった不当な言い分を臆面もなく主張するのに対して、為すべき当然の反論すら「言わずとも解るだろう」とでも思うのか、避けて通ってきたと思っている。相手国は「反論がなければ主張が通った」とごく当たり前のように受け止めるのだ。

この度の文在寅大統領の選挙キャンペーン中からの公約だった「不可逆的合意の見直し」などは論評の限りではない暴論なのだが、文体制下の康外相は「国内で元慰安婦たちの意向を十分に聞いていなかった」などという戯言、でなければ内部事情であり自分たちの落ち度を理由にして、合意を考え直すようなことを言い出している。

私は日本の会社時代に、「こういう自社の内部における不手際を理由にして取引との契約や取り決めを撤回しようとする購買係や仕入れ係がいる会社は信用ならない」との経験を何度もしてきた。好ましくない取引先ほど「内部事情」を臆面もなく取り上げて「この話はなかったことにして欲しい」と言ってくるのだった。韓国は将にそれに当てはまるのだ。

幸いにして、我らが河野外相は康外相に「両国外務省が最後は握手した。これを正当なプロセスでないというのであれば今後、韓国とは何も決められない」と一蹴したし、安倍総理との面会でも康外相は「韓国が合意を破棄したり見直しをしないように強く迫られ、青くなった」と阿比留編集委員が指摘していた。

これらの総理と外相の主張は如何にも思い切った発言のように捉えている間は、我が国は未だに海外との交渉事に関しては揺籃期にあると思っているべきだ。私は何もアメリカがこういう外交交渉面で先進国だなととは思っていない。それは、彼らの思考体系では「これを言うことで失うものはない」と思えば真っ向から押してくるものなのだ。必ずしも「我が国の弱点を心得て、そこをついてくる」のではない。

私に言わせて貰えば、単なる論争と対立を怖れない「文化と思考体系の違い」の表れに過ぎないのだ。韓国は時にそういうある程度文化の違いを承知しているかと思わせる行動に出ることもある。それは、彼らの財閥というか支配階層にある連中の子弟が数多くアメリカの有名私立大学とそのビジネススクールに留学経験があるので、アメリカ式思考体系を弁えているからだと解釈している。

私はこれから先にも今回の安倍総理と河野外相が採られていたような強硬(と言っても我が国思考体系から見れば、という程度だが)を当然且つ自然に維持されて外交交渉に臨まれたいと、切に要望して終わる。韓国との不可逆合意問題では、言うべき事を主張して韓国には取り合わない姿勢で進むことが、異文化と思考体系に対する怖れない姿勢の叩き台にになると思う。


大忙しだった12月26日

2017-12-27 14:41:46 | コラム
本年最後の病院・クリニック周り:

先週末の大不調からどうやら順調に立ち直ってきたと多少自信を持っても良いと思ったので、26日は朝は9時半過ぎに出発して国際医療研究センター病院(NCGM)に向かう。到着したのが09:58だったので、循環器内科の予約時刻が10:30に対して早すぎるくらいかと思っていたのが甘かったいた。何気なく、待ち時間を知らせてくれる受付機に診察券を入れてみれば、15~18人待ちと出た。これではどんなに早くとも呼ばれるのは10時半を過ぎる頃かと失望。

だが、実際に呼ばれたのは11時半を回ってから。流石に待ち疲れていたが、この世は悪いことばかりではないもので、血液検査の結果も心電図にも問題となるところはなく安定していると、主治医循環器内科医長のH先生に告げられた。気になっていたBNPも213と先ず先ずの数値だった。先ずは一安心で先生からは「貴方はその病歴と年齢にしては十分元気がある方だから、これから先も十分に節制されたし」と言われて、また嬉しくなった。

そこから処方箋を頂いて会計を済ませ、次なる目標の掛かりつけである高田馬場4丁目のSクリニックに向かった。最早午前中の診察が終わる時刻にギリギリなので「エイヤッ」と病院前からタクシーを飛ばした。その車中で運転手さんに例によって景気のほどを尋ねてみると「年末で多少は盛り上がってきたが、往年のような忘年会後の需要が少ないだけではなく、タクシー券を使ってお客様をお送りするような会社も減ってきて、決して稼ぎ時ではなくなった。

更に、大企業になるほど派手なお金の使い方をしないような傾向が見えるのが残念だ。我々の業種までにはアベノミクスの恩恵が回ってきていないと思う。こういう状態が続けば、益々貧富の格差が拡大するのではないかと思う」とかなり落ち着いた口調で語ってくれた。こういう質問に対して「私はウハウハです」などと答える人は少ないと思うが、私のこのような街角景気診断の質問に対する答えは何時も同じだ。

私からは「近年は経営者の質が劣化の一途を辿っているので、経費の中でも目立ち且つ簡単に節約できる接待費や交通費を引き締めたがるようだ。そういうことをすれば、かえって第一戦にいる者たちに士気を阻喪するとは考えないようだ」などと語っている間に、高田馬場4丁目に到着して何とかタクシー大を投資した効果で無事に間に合った。

ここではS先生には先ずNCGMの診断の結果をご報告してから診察して頂いた。ここでも診察の結果は良かったようで「順調に回復しているようだが、本日が今年最後の診察だから、念の為に何時もの注射をして状態を安定させておこう」と注射をして頂いて終わった。それから約15分ほど足取りも軽く歩いて、調剤薬局に処方箋を出してから帰宅して遅い昼食を済ませて一休み。

何と26日には更に15:30からこのアパートの地下のF歯科での今年最後の予約があったのだ。そこで、少し早めに出掛けて調剤薬局でNCGMの薬を受け取ってから歯科医院に向かった。全てが終わって午後4時。いやはや、1日を振り返って「善くぞ自信を失っていた体でぞあれだけ動けたものだ」と感無量(は大袈裟か?)だった。換言すれば、漸く2ヶ月以上も続いたあの体調の不備から脱出できつつあると言うこと。

話は変わるが、これだけ出歩いていれば、各テレビ局がここを先途と競って報道する愚にもつかない相撲協会の「コップの中の嵐」ではない「お猪口の中の揉め事」程度のニュースを見ないで済むのは結構なことだった。結果的には週刊誌の後追いにもなっていないのではないか。テレビのニュースをを見ている時にこの相撲の話になれば、チャンネルを変えるか切ってしまうかの何れかにしている。尤も、それでは見ても良いニュースはなくなるが。

各局はあの関連を「スポーツ」の枠内で取り上げるが、あの空騒ぎの何処がスポーツなのかと不思議に思っている。以前から指摘してきたことで、NHKを始め各テレビ局は相撲関連を「興行」乃至は「相撲」という枠を設定して取り扱って貰いたいものだ。あの醜悪な内輪揉めとモンゴル出身の力士共に蹂躙されている不甲斐ない状態の如何なる部分がスポーツなのかと、協会にもマスコミにも問いかけたい。


12月26日 その2 「大谷翔平の英語」の補完

2017-12-26 13:59:16 | コラム
>実は矛盾点があったのだ:

先ほどは、言わば折角褒めているような表現をしたので敢えて指摘しなかったが、大谷は矛盾した言い方をしていただったのだ。それは冒頭に Long time no see. と「暫くでした」と言っておきながら、言わば初対面の挨拶である I’m Shohei Otani. と名乗っている点である。だが、そこまで言うのも大人げないかと思っていたのだ。それだけのこと。

なお、Long time no see. では余りにくだけすぎていると言われる向きには、他にどういう言い方があるかを幾つかご紹介しておこう。

在職中に定宿にしていたシアトルの Four Seasons Olympic Hotel のドアマンとは顔なじみとなっていた。ある時、出張の期間がかなり空いて暫く振りに入っていくと、ドアマンが Hey! It’s been quite a while since I saw you last. と来た。「やー、暫く振りじゃないか」と、言わばかなり馴れ馴れしい言い方だが、これで立派に通用すると思う。だが、ホテルの従業員がお客に向かって言うことかとも言える。何れにせよ、Hey はお止めになった方が無難だろう。

他には It’s been a long time since we saw each other last time. などという少し堅苦しい言い方もあると思う。矢張り、結論を言えば「いきなり Long time no see. から入って行かれない方が無難だと思う」なのだ。

大谷翔平の英語

2017-12-26 08:01:19 | コラム
“Long time no see.”に一寸ビックリ:

これは昨日大谷翔平が札幌ドームで行った記者会見(彼が英語で press conference と言ったのでそう言うまでだが)で冒頭に英語で挨拶した時の切り出しの文言である。全く文法も何もない英語なのである。こういう口語的と言うか日常会話的な言い方をご存じではない方には「何だ、これは」と思われたかも知れない。

だが、多くのアメリカ人たちは現実にはごく当たり前のように「暫くだったね」と言う時に使っていると認識している。だが、正直なところ、余り英語の会話に馴れていない方にお薦めはしたくない表現だ。こういう表現を彼が使ったのには一寸ビックリだったのだ。思うに、大谷にはかなり練達熟練の英語の家庭教師でもついて勉強を開始したのだろう。

彼はかなりな速度で適切なアクセントで話していたのを聞けば、もしかすると東海岸出身のアメリカ人が教師かななどと考えていた。この時期に既に英語の勉強を開始していたのだとすれば、彼のアメリカに溶け込もうとする意欲が見えている気もする。

もう一つ、昨日の挨拶で気が付いた好ましい点があった。それは「暫くでした」の後に “I’m Shohei Otani.”と言った点だ。私は英語ではこういう形が普通だと思っている。彼はアナハイムで最初に入団会見をやった時には“My name is Shohei Otani.”と言っていたのだったが、昨日は言わば「私は大谷翔平です」に変わっていたのだった。

これは、私に言わせて貰えば大変結構な変化である。私はずっと日本式の「マイ・ネーム・イズ~」を否定してきた。それは、私の疑問点は「普通に日本人同士で初対面の時に『私の名前は~です』と言うか」だからだ。例えば「山田太郎と申します」が普通ではないか。だが、数多くの同胞がアメリカ人に挨拶される時に「マイ・ネーム・イズ~」と言われるのを聞いて、「これが学校教育の英語での標準的な会話編なのだろう」と思うようになっていた。

私は一般論としては「ロング・タイム・ノー・スイ」は積極的に薦めないが、“I am Taro Yamada.”方式は迷わず推薦しようと考えている。


12月25日 その2 好い加減にしようよ、妙な選抜の仕方

2017-12-25 14:01:34 | コラム
私は羽生結弦の選出を疑問に思っている:

マスメディアは羽生が練習中に転倒して負傷して以来、全日本選手権に出場できなくともオリンピック代表には選ばれるとの予測を流し続けてきた。あれでは恰も協会の意を帯して土壌作りをしてきたかのようだ。私は我が国の各種の競技団体は長年こういう選抜方式を繰り返してきた事を大変好ましくないと思ってきた。こんな事を言えば、恐らく批判されるだろう事を覚悟で言っている。

昭和20年の中学入学以来大学を経て社会人になってからの運動部とその競技の経験者として、私は「負傷乃至は怪我をする者は何処かに至らざる点があるか、欠陥がある選手だ」と信じるようになった。陳腐な言い方としては「無事これ名馬」というのがあるではないか。何も未熟なだけではなく、精神的に緩んだとことがある者は、思わぬところで怪我をするものなのである。

私は羽生の輝かしき実績は十分に認めるし、何やら物の怪に憑かれたような技術的だけではなく精神的な高みを目指している、野村萬斎にまで教えを請うような練習の仕方にも、世界的な名手として一定以上の評価はしている。だが、その過程に於いて余りにも重大事故になってしまう負傷が多いのも気懸かりだった。それはあるいは極限までに達しようとする努力の中では止むを得なかったのかも知れないとも見做してはいるが。

だが、私はマスコミが勝手に協会の意向を忖度したのかどうかは知らないが、仮に全日本を欠場してもオリンピック代表に選ぶという考え方には到底賛成できないのだ。オリンピックには我が国から3名まで枠があるが、そのうち1名は予選(と言っても良いような全日本)に自己責任で負傷した為に出ない羽生が予め選ばれているかのようなやり方は不公平だと思う。

しかも、羽生がこれから先何処まで回復するのかは私には「推定」としか見えないし、これから先来年の平昌オリンピックまでに彼がもう一度故障しないという保証が何処にあるのかとも、協会には尋ねてみたい衝動に駆られる。オリンピックで我が国の代表の優勝させたし気持ちは悲しいほど解るし、その希望を羽生に託したい願望も解る。

だが、それでは3名の枠を目指して、負傷も故障もせずに昨日までの全日本選手権に出場していた連中の努力をどうする気かと思っている。懸命に演技して第3位に入った無良に対して「公平且つ公正無比」と協会は言い切るつもりかとも問いかけたい。私は各種の団体の「実績を考慮し、3位以内に入賞できそうな者」を選ぶ方式は採らない。

いっそアメリカ式に最終予選での一発勝負の方が余程フェアーだとすら考えている。過去の実績は過去のことだ。そうすれば無良君の努力も報われるのではないかとすら考えている。

故に、私はその競技しか知らずに、と言うか世間を知らずに育ち、その結果として協会に残った古き時代の名手たちが、現代の近代的練習方で鍛え上げられてきた若者たちを、古き時代の尺度で選んでいくのは如何にも時代遅れであり、古池の中の蛙に過ぎないと思う。何れまた、マラソンなどの種目では「日本人1位」などという屁理屈が出てくるのだろう。もう好い加減にしようぜ。