読書。
『故郷/阿Q正伝』 魯迅 藤井省三 訳
を読んだ。
20世紀初頭、清王朝から中華民国、中華人民共和国へと激しく移り変わっていく時代に、文芸による革命を信条に創作をつづけた魯迅の新訳作品集。魯迅は若い頃、日本へ留学して東京や仙台で7年余り暮らし、漱石や芥川の影響を受けた人です。
最初の短編「孔乙己(コンイーツー)」から心をぎゅっとつかまれました。「孔乙己」は馬鹿にされ舐められきってしまった、貧しい男です。科挙に受かるほどではないのだけど学はあるほう。彼に焦点を当てる意味とはいったい、と考えながら読んでいました。彼がひとときの楽しみのために通う酒屋、そして日々の暮らしのなかで、彼の周囲にいるあまり学のない庶民との対比、そして苦しい境遇に食い殺されて盗みを働きそれをあかるみにだされ、揶揄われ蔑まれる「孔乙己」。
読者は何を問いかけられているのか。こういった暮らしの苦しさや悲劇、愚かさを文学にすることで、この表現が、孔乙己と彼的な人物を馬鹿にしてしまうに違いないおのれの気持ちを、見直せるチャンスとして機能するのだろうと思えました。社会の倫理的欠陥をあぶりだして問いかけている、と。ですが、それだけを考えていくと、文学的目論見として少々あざとい感じがしてしまうのです。もっとこの短編の細部に注目して、とくにその愚かさの心理のメカニズムを読み手自身の内部からえぐりだすようにして考えてみたり、どうして孔乙己という男が社会的弱者にならねばならなかったのか、と社会学的に社会構造や世間の空気などを考えてみたりと、そういった読みを試みることにまた違った意義がありそうに思えるのです。つまり、短い小説ながら、引き出せる知見に満ちているに違いない匂いがするのでした。
次に、短編「故郷」。これは、故郷の実家を引き払うために帰郷する主人公の話です。その最後に書かれている彼の希望の感覚を知ると、希望を持つことに対しても油断をしていないし、希望と夢といったものとは違う捉え方をしているし、そこが中国人なのかもしれないという気づきがありました。去年、華僑の本を読んでうっすら残る現実主義のイメージとも重なるのです。生き延びるため、サバイブのための、長い歴史に磨かれた本性、あるいは民族性を見た気がします。
「故郷」も「孔乙己」や「阿Q正伝」のように、底辺で生活する社会的弱者が描かれています。引用をします。
__________
「とてもやっていけません。六男も畑仕事が手伝えるようになりましたが、それでも食うに事欠くありさまで……物騒な世の中で……どこへ行っても金を出せというし、決まりっていうものがなくなりました……それに不作で。育てた作物を、担いで売りに行けば何度も税金を取られるんで、赤字だし、売りに行かなきゃ、腐るだけだし……」
(中略)
閏土(ルントウ)が出て行くと、母と僕とは彼の暮らしぶりに溜息をついた――子だくさん、飢饉、重税、兵隊、盗賊、役人、地主、そのすべてが彼を苦しめ木偶人(でくのぼう)にしてしまったのだ。母が僕に言った――不要品はなるべく閏土にあげよう、彼自身に好きなように運ばせたらいい。(p64-65)
__________
→主人公は幼い頃にいっしょに遊びながら憧れた、同世代の子どもだった閏土。彼は使用人の子どもだったのですが、帰郷した主人公が彼との再会で、子どもの時分にはまぶしく輝いていたまるで英雄のような男の子が、そのまま英雄として大人になっておらず、煤けて輝きが失せたような人物になったことに、哀しみをや寂しいものを感じました。そののち、上記の引用のような気持ちになるのです。
この「故郷」を締めくくる最後の一文が名文です。引用します。
__________
僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
__________
→魯迅は文芸で世の中を変えようと考えた人です。言葉を学び文学を味わうことによって大衆の知的レベルを上げ、その結果、世の中の悪しき倫理的欠陥が解消されていくと考えている。一人だけが勉強をするなど、ばらばらに、単発で行っていては道ができない、とこの引用から読み取ることはできると思います。多くの人が同じベクトルで(それは文学を読み、言葉を学ぶこと)進んでいけば、道すなわち希望が現れる、と魯迅は言っているように読めました。
代表作として挙げられる「阿Q正伝」の主人公・阿Qは憎めない悪漢で、やはり底辺でなんとか生きていて、学はなく、なんとか悪知恵のたぐいをしぼって生き延びている。この小説にはもうエンタメ要素があって、可笑しさを感じながら悲しみや憤りを感じられるような、読み手の感情の振幅に大きく影響する小説だと思いました。
また、魯迅のエッセイが『朝花夕拾』という作品集から多数選ばれているのですが、これがいいんです。「お長と『山海経』」がとくに。ユーモアが利いていて、そして微笑ましく、結びもぐっときました。村上春樹さんが好きな人に合いそうな感覚でした。カポーティの『クリスマスの思い出』が好きな人にもおすすめできます。
といったところです。解説によると、大江健三郎さんや村上春樹さんも魯迅を読みこんでいるそうです。この光文社の新訳は読みやすくて、近代小説が書かれた時代と現代との隔たりからイメージされるような堅苦しさはほぼないです。たとえばさきほども触れたエッセイに関していえば、魯迅の血の通った感情が文章に封じ込められていて、みずみずしさすら感じながら読めてしまいました。近頃思うのですが、時代の古い作品だからって、敬遠することはないですね。同じ人間が書いたものとしてそこに共感は必ずでてきますし。清少納言だって、ドストエフスキーだって、やっぱり同じ人間なので「姉さん!」「兄さん!」と思って読めちゃうものです。そして魯迅も、「兄さん!」感覚で読めること請け合いなのでした。
『故郷/阿Q正伝』 魯迅 藤井省三 訳
を読んだ。
20世紀初頭、清王朝から中華民国、中華人民共和国へと激しく移り変わっていく時代に、文芸による革命を信条に創作をつづけた魯迅の新訳作品集。魯迅は若い頃、日本へ留学して東京や仙台で7年余り暮らし、漱石や芥川の影響を受けた人です。
最初の短編「孔乙己(コンイーツー)」から心をぎゅっとつかまれました。「孔乙己」は馬鹿にされ舐められきってしまった、貧しい男です。科挙に受かるほどではないのだけど学はあるほう。彼に焦点を当てる意味とはいったい、と考えながら読んでいました。彼がひとときの楽しみのために通う酒屋、そして日々の暮らしのなかで、彼の周囲にいるあまり学のない庶民との対比、そして苦しい境遇に食い殺されて盗みを働きそれをあかるみにだされ、揶揄われ蔑まれる「孔乙己」。
読者は何を問いかけられているのか。こういった暮らしの苦しさや悲劇、愚かさを文学にすることで、この表現が、孔乙己と彼的な人物を馬鹿にしてしまうに違いないおのれの気持ちを、見直せるチャンスとして機能するのだろうと思えました。社会の倫理的欠陥をあぶりだして問いかけている、と。ですが、それだけを考えていくと、文学的目論見として少々あざとい感じがしてしまうのです。もっとこの短編の細部に注目して、とくにその愚かさの心理のメカニズムを読み手自身の内部からえぐりだすようにして考えてみたり、どうして孔乙己という男が社会的弱者にならねばならなかったのか、と社会学的に社会構造や世間の空気などを考えてみたりと、そういった読みを試みることにまた違った意義がありそうに思えるのです。つまり、短い小説ながら、引き出せる知見に満ちているに違いない匂いがするのでした。
次に、短編「故郷」。これは、故郷の実家を引き払うために帰郷する主人公の話です。その最後に書かれている彼の希望の感覚を知ると、希望を持つことに対しても油断をしていないし、希望と夢といったものとは違う捉え方をしているし、そこが中国人なのかもしれないという気づきがありました。去年、華僑の本を読んでうっすら残る現実主義のイメージとも重なるのです。生き延びるため、サバイブのための、長い歴史に磨かれた本性、あるいは民族性を見た気がします。
「故郷」も「孔乙己」や「阿Q正伝」のように、底辺で生活する社会的弱者が描かれています。引用をします。
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「とてもやっていけません。六男も畑仕事が手伝えるようになりましたが、それでも食うに事欠くありさまで……物騒な世の中で……どこへ行っても金を出せというし、決まりっていうものがなくなりました……それに不作で。育てた作物を、担いで売りに行けば何度も税金を取られるんで、赤字だし、売りに行かなきゃ、腐るだけだし……」
(中略)
閏土(ルントウ)が出て行くと、母と僕とは彼の暮らしぶりに溜息をついた――子だくさん、飢饉、重税、兵隊、盗賊、役人、地主、そのすべてが彼を苦しめ木偶人(でくのぼう)にしてしまったのだ。母が僕に言った――不要品はなるべく閏土にあげよう、彼自身に好きなように運ばせたらいい。(p64-65)
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→主人公は幼い頃にいっしょに遊びながら憧れた、同世代の子どもだった閏土。彼は使用人の子どもだったのですが、帰郷した主人公が彼との再会で、子どもの時分にはまぶしく輝いていたまるで英雄のような男の子が、そのまま英雄として大人になっておらず、煤けて輝きが失せたような人物になったことに、哀しみをや寂しいものを感じました。そののち、上記の引用のような気持ちになるのです。
この「故郷」を締めくくる最後の一文が名文です。引用します。
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僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
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→魯迅は文芸で世の中を変えようと考えた人です。言葉を学び文学を味わうことによって大衆の知的レベルを上げ、その結果、世の中の悪しき倫理的欠陥が解消されていくと考えている。一人だけが勉強をするなど、ばらばらに、単発で行っていては道ができない、とこの引用から読み取ることはできると思います。多くの人が同じベクトルで(それは文学を読み、言葉を学ぶこと)進んでいけば、道すなわち希望が現れる、と魯迅は言っているように読めました。
代表作として挙げられる「阿Q正伝」の主人公・阿Qは憎めない悪漢で、やはり底辺でなんとか生きていて、学はなく、なんとか悪知恵のたぐいをしぼって生き延びている。この小説にはもうエンタメ要素があって、可笑しさを感じながら悲しみや憤りを感じられるような、読み手の感情の振幅に大きく影響する小説だと思いました。
また、魯迅のエッセイが『朝花夕拾』という作品集から多数選ばれているのですが、これがいいんです。「お長と『山海経』」がとくに。ユーモアが利いていて、そして微笑ましく、結びもぐっときました。村上春樹さんが好きな人に合いそうな感覚でした。カポーティの『クリスマスの思い出』が好きな人にもおすすめできます。
といったところです。解説によると、大江健三郎さんや村上春樹さんも魯迅を読みこんでいるそうです。この光文社の新訳は読みやすくて、近代小説が書かれた時代と現代との隔たりからイメージされるような堅苦しさはほぼないです。たとえばさきほども触れたエッセイに関していえば、魯迅の血の通った感情が文章に封じ込められていて、みずみずしさすら感じながら読めてしまいました。近頃思うのですが、時代の古い作品だからって、敬遠することはないですね。同じ人間が書いたものとしてそこに共感は必ずでてきますし。清少納言だって、ドストエフスキーだって、やっぱり同じ人間なので「姉さん!」「兄さん!」と思って読めちゃうものです。そして魯迅も、「兄さん!」感覚で読めること請け合いなのでした。