読書。
『若き友人たちへ 筑紫哲也ラスト・メッセージ』 筑紫哲也
を読んだ。
2008年に肺がんのために亡くなった、
ニュースキャスター、ジャーナリストの筑紫哲也さんによる、
2005年ころに行われたと思われる大学院生を対象にした講義を主軸として、
他の原稿などもまとめた本がこれです。
若者たちに向けて、「こんな世の中にしてしまったのは、僕たち大人たちなんだ…」
というようなことを、自らの保身抜きで、そして自らの世代の代表として、
若者から搾取する多くの小ズルイ大人たちを告発するかのように言ってくれます。
そういうところから、この本は始まります。
「そんな常識も知らないで」と言いながら、
まるで常識を教えなかったり小出しにしたりする大人って
多いと思うんです、僕の経験からしても。
それは、勝手に自分で学びなさい、ということなのかもしれない。
でも、若者が勝手に自分で学べるくらい、
この世界は開かれていない状況になってしまっているし、フェアじゃない。
また、大人が若者にいちいち教えるのが面倒だから、他の誰かが教えればいいというような、
上の世代として持っているはずの責任を逃れようとする姿勢からくるのかもしれないし、
若者に知識を与えないことで、自らの保身のため、アドバンテージを持とうとする狡猾な考えからくる
行為なのかもしれないです。
そういうのをとっぱらって、もったいぶることなく、
筑紫哲也さんは、若者たちに言葉を投げかける。
受け手が扱いやすいようなフラットさだし、現代の物事の核心をついている言葉。
そしてその言葉は、いろいろな知の道を照らす光となり、
好奇心や探究心を刺激することにもなる。
ましてや、もたらされた知識は、世界を見る目を著しくクリアにしてくれる。
つまり、若者の「やる気」のスタートラインとしては絶好のポジションを与えてくれるのです。
僕はもう、若者といえるか微妙な年でもあるし、まぁ青年ですし、
近所のスーパーなんかでも、おばちゃんに「お兄さん」と呼ばれる感じではあります。
それでも、筑紫さんがもたらしてくれた知識と知恵のかけらと常識というものが
大変ありがたかったです。
どうして、こう、みんなが知っていたらいいのにという部分は、暗部というか、
闇の中にあって、どうにか光で照らさなければ見つけられないものなのでしょう。
大声で言ってくれる人もいないものなんですよね。
今回だって、たまたま雑誌でこの本が紹介されていたのを知って、買ってみたら
すごく良かったわけで、口コミで野火のように広がる本ではないことに、
「きっと、この本に暴露される真実によって、困る人たちが多いのだろうな」ということが
わかったりします…、たぶん、ですけどね。
教訓としては、やっぱり自分から進んで求めないといけないということですね。
この本でいえば、「求めよ、されば与えられん」を地で行く本でした。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という本であるかもしれませんよ。
巻末に、筑紫さんが16歳の時に書いた、幼少時からそれまでを振り返る作文が掲載されています。
それを読んで、まぁ、誤解を持たれるかもしれませんが、僕はこういう感想を持ちました。
やっぱり、手持ちのカードが良い人だったんだな、と。
作家・東野圭吾さんの『時生』という小説にこんなセリフがあります。
「苦労が顔に出たら惨めやからね。それに悲観しててもしょうがない。
そら誰でも恵まれた家庭に生まれたいけど、
自分では親を選ばれへん。配られたカードで精一杯勝負するしかないやろ」
(東野圭吾『時生』P278 竹美のセリフ)
筑紫さんに比べれば、僕のカードは良くないようですが、それで精一杯やるのが人生ってもんですね。
ぐだぐだ言っても何にもなりませんからね。とはいえ、この小説の竹美に比べたら、
僕のは全然良いカードだとは思います。
このブログを読んでくださっている方々の中にも、
手持ちのカードが良くない人っているかもしれないですね。
100%の力を出せる環境がととのっていたなら!なんて考えて悶々とすることが
あるかもしれませんが、大体の人間は、万全の状態で事に臨むことが難しい中で、
なんとか結果を出したりするものだと思うのですよ。例外はあるとしても。
それに、この筑紫さんの本にも出てきますが、制約のある中で作られた映画が
20世紀のもっとも評価の高い映画だったっていいますからね、
人間だって、もしかすると、そういう制約に縛られながら必死に生きることで
素晴らしい何かを得られる場合もあるかもしれないです。
悲観はしないことですね。
えーと、この本ですが、高校生以上は必読というポジションに置こうと思います。
この本で書かれている「考えない日本人」に、どうやら僕は片足を突っ込んでいるようなので、
なんとか、その泥沼から片足を引っこ抜いて、筑紫さんの最後っ屁を胸一杯に吸い込んだ者として、
またこのブログなんかで、わーわー言っていきたいです(なんだそれ)。
『若き友人たちへ 筑紫哲也ラスト・メッセージ』 筑紫哲也
を読んだ。
2008年に肺がんのために亡くなった、
ニュースキャスター、ジャーナリストの筑紫哲也さんによる、
2005年ころに行われたと思われる大学院生を対象にした講義を主軸として、
他の原稿などもまとめた本がこれです。
若者たちに向けて、「こんな世の中にしてしまったのは、僕たち大人たちなんだ…」
というようなことを、自らの保身抜きで、そして自らの世代の代表として、
若者から搾取する多くの小ズルイ大人たちを告発するかのように言ってくれます。
そういうところから、この本は始まります。
「そんな常識も知らないで」と言いながら、
まるで常識を教えなかったり小出しにしたりする大人って
多いと思うんです、僕の経験からしても。
それは、勝手に自分で学びなさい、ということなのかもしれない。
でも、若者が勝手に自分で学べるくらい、
この世界は開かれていない状況になってしまっているし、フェアじゃない。
また、大人が若者にいちいち教えるのが面倒だから、他の誰かが教えればいいというような、
上の世代として持っているはずの責任を逃れようとする姿勢からくるのかもしれないし、
若者に知識を与えないことで、自らの保身のため、アドバンテージを持とうとする狡猾な考えからくる
行為なのかもしれないです。
そういうのをとっぱらって、もったいぶることなく、
筑紫哲也さんは、若者たちに言葉を投げかける。
受け手が扱いやすいようなフラットさだし、現代の物事の核心をついている言葉。
そしてその言葉は、いろいろな知の道を照らす光となり、
好奇心や探究心を刺激することにもなる。
ましてや、もたらされた知識は、世界を見る目を著しくクリアにしてくれる。
つまり、若者の「やる気」のスタートラインとしては絶好のポジションを与えてくれるのです。
僕はもう、若者といえるか微妙な年でもあるし、まぁ青年ですし、
近所のスーパーなんかでも、おばちゃんに「お兄さん」と呼ばれる感じではあります。
それでも、筑紫さんがもたらしてくれた知識と知恵のかけらと常識というものが
大変ありがたかったです。
どうして、こう、みんなが知っていたらいいのにという部分は、暗部というか、
闇の中にあって、どうにか光で照らさなければ見つけられないものなのでしょう。
大声で言ってくれる人もいないものなんですよね。
今回だって、たまたま雑誌でこの本が紹介されていたのを知って、買ってみたら
すごく良かったわけで、口コミで野火のように広がる本ではないことに、
「きっと、この本に暴露される真実によって、困る人たちが多いのだろうな」ということが
わかったりします…、たぶん、ですけどね。
教訓としては、やっぱり自分から進んで求めないといけないということですね。
この本でいえば、「求めよ、されば与えられん」を地で行く本でした。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という本であるかもしれませんよ。
巻末に、筑紫さんが16歳の時に書いた、幼少時からそれまでを振り返る作文が掲載されています。
それを読んで、まぁ、誤解を持たれるかもしれませんが、僕はこういう感想を持ちました。
やっぱり、手持ちのカードが良い人だったんだな、と。
作家・東野圭吾さんの『時生』という小説にこんなセリフがあります。
「苦労が顔に出たら惨めやからね。それに悲観しててもしょうがない。
そら誰でも恵まれた家庭に生まれたいけど、
自分では親を選ばれへん。配られたカードで精一杯勝負するしかないやろ」
(東野圭吾『時生』P278 竹美のセリフ)
筑紫さんに比べれば、僕のカードは良くないようですが、それで精一杯やるのが人生ってもんですね。
ぐだぐだ言っても何にもなりませんからね。とはいえ、この小説の竹美に比べたら、
僕のは全然良いカードだとは思います。
このブログを読んでくださっている方々の中にも、
手持ちのカードが良くない人っているかもしれないですね。
100%の力を出せる環境がととのっていたなら!なんて考えて悶々とすることが
あるかもしれませんが、大体の人間は、万全の状態で事に臨むことが難しい中で、
なんとか結果を出したりするものだと思うのですよ。例外はあるとしても。
それに、この筑紫さんの本にも出てきますが、制約のある中で作られた映画が
20世紀のもっとも評価の高い映画だったっていいますからね、
人間だって、もしかすると、そういう制約に縛られながら必死に生きることで
素晴らしい何かを得られる場合もあるかもしれないです。
悲観はしないことですね。
えーと、この本ですが、高校生以上は必読というポジションに置こうと思います。
この本で書かれている「考えない日本人」に、どうやら僕は片足を突っ込んでいるようなので、
なんとか、その泥沼から片足を引っこ抜いて、筑紫さんの最後っ屁を胸一杯に吸い込んだ者として、
またこのブログなんかで、わーわー言っていきたいです(なんだそれ)。