読書。
『悪霊 上下』 ドストエフスキー 江川卓訳
を読んだ。
いわゆる、ドストエフスキーの五大長編と呼ばれている小説の中で、
僕が読む一番最後の作品がこの『悪霊』でした。
最初に『罪と罰』を読んで、つづいて『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と
読んでいったのでした。
けっこう、読んだ作品の間の期間が長いのですが、
読むたびに深く作品に入り込めていけているような気がしています。
『罪と罰』よりも『白痴』のほうが作品の理解度が高くなった、というような気がする。
それだけ、ドストエフスキーになれてくるのでしょうね、そのうち何年かして再読したら
もっとよく読めそうな気もします。
こんなことを書いていると、読んだことのない人は、きっと難解なのだろうと
推測してしまうと思うのですが、ドストエフスキーの場合は、
その重厚感に疲れる手合いの小説でしょうか。
たしかに、意味が取れない難しい思想を披瀝する会話文などが出ては来るのですが、
大体においては、やさしい文章が積み重なって、物語の多義性というか、多角的なスケッチの仕方というか、
伏線をたくさんこしらえ、それらが本流に合流していくという形がとられているんじゃないでしょうか。
そして、キャラクターの性格の、文章中での構築の仕方も、無駄がないように思います。
かといって、文章も構成もカツカツしていないですね。
非常にゆとりをもちながらも、そんなあれやこれやを包括してしまう才能を
ドストエフスキーは持っていて、きちんと作品を完結させます。
まぁ、カツカツしていない、きゅうきゅうとしていない、といって、何と比べてそうなのかって話になりますが、
現代の小説と比べてになるのかなぁ。それだけ、五大長編は1作品で2冊とか3冊とかで編まれていますから、
分量のせいでそう感じるのかもしれません。
また、ドストエフスキーの作品は現代の予言書とも形容されることがあるらしいです。
すなわち、いたって現代的なテーマを取り扱っていて、現代的に出来ている。
19世紀の世から彼の作品をリアルタイムに見ていた人々は、
随分新しいものだ、と捉えていたのかなぁとも思います。
しかし、その現代的である彼の小説の背景、つまり産業革命は起こっていても、
まだ近代化していない時代という、なにかそこのところが大時代的と言っても良いようなゆとりを
もたらしていて、カツカツとしていない要素をちょっと感じさせるんじゃないのかなと思うのです。
とはいえ、混沌期の不安定感はありますが。
『悪霊』について言えば、道化が何人か出てきますし、またこれがうまく書かれていて、ドストエフスキーの
性格の悪さというかユーモアを感じさせずにはいられませんでした。
そして、1300ページくらいある中で、最後の300ページくらいは目を離せない展開なのですが、
それまでの前置きとでもいえる部分には読むのに忍耐が必要でした。
それは僕の読解力や想像力が至らないだとか、本当の読書好きじゃないだとか理由は出てきます。
だけれど、普通の本好きとしては、やや読むのが面倒くさいです。
さて、その最後の300ページですが、その展開とそれまでの流れからくる計算を考えてみると、
ドストエフスキーは本当に酸いも甘いも噛み分けた、
悪党であり識者であり才人であり愚か者だなぁという感想を持ちました。
愚か者だっていうのは、小説に出てくる愚かな人物にすごく血が通っているから
これは彼の分身じゃないのかと思うせいもありますし、
登場人物を苦しめすぎだという気もするからです。
ただ、後者の、登場人物を苦しめすぎだ、という感想は的外れなのはわかっています。
そうでもしないと、表現できないことというのがあるからですよね。
それにしても、主人公のニコライ・スタヴローギンはどれだけイケメンだったんだろう。
これだけの色男で悪漢っていうのはなかなかいませんよね、創作の中の男だとしても。
逆に、ファム・ファタールなんて呼ばれる、魔性の女はわんさかいませんか。
女ってやつぁ…。そしてそれにひっかかる男ってやつぁ…。
ん。なんで、魔性の女にひっかかる男っていうのはちょっと哀れだけど愚かな感じがして、
スタヴローギンにひっかかる女はすごく哀れで可哀相なんだろう。
女ってものの一途さがそう感じさせるんですかねぇ。
この作品のテーマの一つに、無神論がありますが、
現代ではそれが当たり前になってしまいました。
とくに、日本では、ほぼ無神論だったりしないでしょうか。
19世紀のロシアでは、無神論の世界こそ退廃であり終わりであるみたいな
捉え方をしているところがありますが、
それだけ、人間という存在は神様抜きでは暴走して破滅するであろうことを
自覚しているといえるでしょう。
はたして、現代の無神論の世で、神様の代わりに秩序を繋ぎとめられる存在というのは、
なんなんでしょうね。法律、愛。ぱっと思いつくのはそういうところかな。
そういえば、人間の脳には電気で刺激すると神様を思い浮かべる部位があるそうです。
神様を信じたり、その存在を考えたり、祈ったり、そういう行為は遺伝子にすら記載され
設計されているものなんですかね。
人間の人格の安定のためには、神様が必要なのかもしれない。
『悪霊 上下』 ドストエフスキー 江川卓訳
を読んだ。
いわゆる、ドストエフスキーの五大長編と呼ばれている小説の中で、
僕が読む一番最後の作品がこの『悪霊』でした。
最初に『罪と罰』を読んで、つづいて『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と
読んでいったのでした。
けっこう、読んだ作品の間の期間が長いのですが、
読むたびに深く作品に入り込めていけているような気がしています。
『罪と罰』よりも『白痴』のほうが作品の理解度が高くなった、というような気がする。
それだけ、ドストエフスキーになれてくるのでしょうね、そのうち何年かして再読したら
もっとよく読めそうな気もします。
こんなことを書いていると、読んだことのない人は、きっと難解なのだろうと
推測してしまうと思うのですが、ドストエフスキーの場合は、
その重厚感に疲れる手合いの小説でしょうか。
たしかに、意味が取れない難しい思想を披瀝する会話文などが出ては来るのですが、
大体においては、やさしい文章が積み重なって、物語の多義性というか、多角的なスケッチの仕方というか、
伏線をたくさんこしらえ、それらが本流に合流していくという形がとられているんじゃないでしょうか。
そして、キャラクターの性格の、文章中での構築の仕方も、無駄がないように思います。
かといって、文章も構成もカツカツしていないですね。
非常にゆとりをもちながらも、そんなあれやこれやを包括してしまう才能を
ドストエフスキーは持っていて、きちんと作品を完結させます。
まぁ、カツカツしていない、きゅうきゅうとしていない、といって、何と比べてそうなのかって話になりますが、
現代の小説と比べてになるのかなぁ。それだけ、五大長編は1作品で2冊とか3冊とかで編まれていますから、
分量のせいでそう感じるのかもしれません。
また、ドストエフスキーの作品は現代の予言書とも形容されることがあるらしいです。
すなわち、いたって現代的なテーマを取り扱っていて、現代的に出来ている。
19世紀の世から彼の作品をリアルタイムに見ていた人々は、
随分新しいものだ、と捉えていたのかなぁとも思います。
しかし、その現代的である彼の小説の背景、つまり産業革命は起こっていても、
まだ近代化していない時代という、なにかそこのところが大時代的と言っても良いようなゆとりを
もたらしていて、カツカツとしていない要素をちょっと感じさせるんじゃないのかなと思うのです。
とはいえ、混沌期の不安定感はありますが。
『悪霊』について言えば、道化が何人か出てきますし、またこれがうまく書かれていて、ドストエフスキーの
性格の悪さというかユーモアを感じさせずにはいられませんでした。
そして、1300ページくらいある中で、最後の300ページくらいは目を離せない展開なのですが、
それまでの前置きとでもいえる部分には読むのに忍耐が必要でした。
それは僕の読解力や想像力が至らないだとか、本当の読書好きじゃないだとか理由は出てきます。
だけれど、普通の本好きとしては、やや読むのが面倒くさいです。
さて、その最後の300ページですが、その展開とそれまでの流れからくる計算を考えてみると、
ドストエフスキーは本当に酸いも甘いも噛み分けた、
悪党であり識者であり才人であり愚か者だなぁという感想を持ちました。
愚か者だっていうのは、小説に出てくる愚かな人物にすごく血が通っているから
これは彼の分身じゃないのかと思うせいもありますし、
登場人物を苦しめすぎだという気もするからです。
ただ、後者の、登場人物を苦しめすぎだ、という感想は的外れなのはわかっています。
そうでもしないと、表現できないことというのがあるからですよね。
それにしても、主人公のニコライ・スタヴローギンはどれだけイケメンだったんだろう。
これだけの色男で悪漢っていうのはなかなかいませんよね、創作の中の男だとしても。
逆に、ファム・ファタールなんて呼ばれる、魔性の女はわんさかいませんか。
女ってやつぁ…。そしてそれにひっかかる男ってやつぁ…。
ん。なんで、魔性の女にひっかかる男っていうのはちょっと哀れだけど愚かな感じがして、
スタヴローギンにひっかかる女はすごく哀れで可哀相なんだろう。
女ってものの一途さがそう感じさせるんですかねぇ。
この作品のテーマの一つに、無神論がありますが、
現代ではそれが当たり前になってしまいました。
とくに、日本では、ほぼ無神論だったりしないでしょうか。
19世紀のロシアでは、無神論の世界こそ退廃であり終わりであるみたいな
捉え方をしているところがありますが、
それだけ、人間という存在は神様抜きでは暴走して破滅するであろうことを
自覚しているといえるでしょう。
はたして、現代の無神論の世で、神様の代わりに秩序を繋ぎとめられる存在というのは、
なんなんでしょうね。法律、愛。ぱっと思いつくのはそういうところかな。
そういえば、人間の脳には電気で刺激すると神様を思い浮かべる部位があるそうです。
神様を信じたり、その存在を考えたり、祈ったり、そういう行為は遺伝子にすら記載され
設計されているものなんですかね。
人間の人格の安定のためには、神様が必要なのかもしれない。