読書。
『梅棹忠夫 語る』 聞き手 小山修三
を読んだ。
糸井重里さんが『ほぼ日』で、
この梅棹忠夫さんの著作の一つ、
『情報の文明学』を崇めるくらいに(?)評価していたと思います。
ほぼ日の生みの親の一つは、この梅棹さんの著作でした、というように。
それを聞いて以来、僕も梅棹さんに興味を持ち、『情報の文明学』を読んでみたりしたのです。
それで、まだ全然、吸収し足りない。
梅棹忠夫という人に少しも触れていない気がしていました。
本書『梅棹忠夫 語る』を書店で目にしたときに、どうも軽すぎそうな本だなと、
買うか否かを逡巡したのを覚えています。
それでも「えいや」と思い切って購入し、しばらくしたった今回読んだのでした。
--日本人は批判に弱い、批判は非難とは違う--
--現象論ではなく、若い人は本質論をやれ--
など、90歳を間近にした梅棹さんの口から、今あげた言葉の前後をまじえると
やはり老いたためか柔らかくなったと感じる言葉が飛び出します。
しかし、そんな柔らかな言葉は本質を突いていたりします。
言うことの、言葉の中身だけを考えるのも良いのですが、
その言葉を発する人の、人となりを知ることもすごく大事だと僕は考えています。
ましてや、巨人と評されるような人はどういう人で、どういう思考をして、
どういう経験をして、どう生きてきたか。
そう言うのを知ることは、生きていくうえでの参考にもなりますし、
人間理解に役立つこともありますし、
場合によっては、他人へのアドバイスの源泉となったりもするでしょう。
つまり、見識が深まります。
「わたしには理解できないわ、あの人」という機会が減ります、
いろいろな人を知っておくことは。
そうして、なかなか現実に出会いが少なく、立派な人と接することがないという人にとって、
こういう本という媒体が役に立つんですよね。
僕は常々、読書は対話だ、と思っています。
若いうちに、いろいろな考えに触れておきなさい、最低でも30人…だったかな、
僕の母校の教授がそんなことを言っていましたが、
それは正しいような気がします。
まぁね、頭が柔らかけりゃ、少し年を取ってからでも、いろいろな人の考え方に触れて
「そういうのがあるんだな」と踏まえることが出来たりもするでしょうね。
話は逸れ加減ですが、
そんな文化人である梅棹さんに大きく共感したことが本書にありました。
偉人と言っても良い梅棹さんでさえ、自分は世界のほんの一部にすぎないと思っていたこと。
自分がいなくても世界は回るという身の程をしっかり持ってらっしゃったようです。
そういうの、僕は大事だと思っているんですよ、なかなか説明はできないですが。
すらすら読める本です。
箸休め的な読書をしたい方に向いているかもです。