東日本大震災から2年がたちました。
「未曾有の災害」という言葉が、少しも大仰ではない、
とても悲惨なできごとでした。
まだまだ終息への道の途中。
でも、また巡ってこの日になり、黙祷を捧げました。
福島第一原子力発電所の事故によって、
僕は反原発の立場にいるようになりました。
反原発なんていう言葉を使うと、
えてして過激な感じがしますけれど、
僕個人の感覚で言うとそうではないのです。
反原発にも、自分が健康被害にあったり
死の危険にさらされたりするのがイヤだという
保守的、個人的、利己的なものと、
みんなが被害にあうのは避けたい
という利他的なものがあると思います。
僕は、みんなのためになると思っての、
原発からの脱却を理想としているのです。
目を三角にして、「反原発!」と
叫んでいるわけではありません。
でも、それにしたって、
原発を否定することは「現実的ではない」と言われると、
本当に現実的ではないかもしれません。
反原発といっても、
代替エネルギーは何にすればいいのかわかりません。
風力・地熱・波力・太陽光…。
他力本願で、研究者の方々の研究の進み具合に
頼るしかなかったりします。
そして、作ってしまった原発の処理の仕方もわかりません。
でも、わからないからといって、
使い続けて良いというものでもないでしょうが、
では、それまで、原子力はモラトリアムの中で
使っていくことになるのかと考えもしました。
しかし、本当をいうと、それも避けたいのです。
事故は恐ろしいですし、どんどん産みだされる核廃棄物という、
処理方法の無い、生物を死に至らしめるどころか、
何かの間違いがあれば、
この地球が死の星に変貌してしまうような負の物質の存在が、
明るいものだと描けたはずの未来への希望すら、
灰色、あるいは暗闇のイメージに塗り替えてしまう。
文明の進歩、経済の進歩による生活スタイルの
高エネルギー消費化というものは、
本当に不可逆的なもの、つまり、
後戻りはけっしてできないものなのでしょうか。
自分の生活を考えても、かなり難しいことは間違いありません。
このあたりは、温室効果ガス削減の
いろいろな方策の実行とも重なるところがあります。
気候変動の原因が温室効果ガスの増加によるもので、
気候変動が続きエスカレートしていくと、
生物の多様性が失われてしまうし、
人間の住みにくい星になってしまう、そう言われると、
なんとかしなきゃと思います。
同じように、原子力発電というエネルギー捻出方法にも、
核廃棄物や事故によってこの星が
人間の住みにくいところに変わりはてる可能性が
十分にあるのではないでしょうか。
それに、フィンランドには、
実際にある、またはそうする計画、だそうですが、
核廃棄物を地下に埋めることで処理したとし、
10万年またはそれ以上の立ち入り禁止区域を設けるのだそうです。
人間のエゴによって、そんな土地が作られてしまうという、
この寒々しい現実。
地球は人間のものと考える人類中心思想、いわば自己中心主義が
そこにはあります。
それは、キリスト教の欧米の考え方が影響しているようにも見受けられます。
神は自分に似せて人間を作った、という特別な存在である人間という考え方。
キリスト教を否定するわけではないのですが、
日本人には深く仏教の考え方が根ざしているとみてまず間違いなく、
そこにこそ人間中心性を絶対視しない感覚が付随しているんじゃないかと思うのです。
チベット仏教の本なんかを読むと端的にわかりますが、人間は来世そして前世、
人間である保証はありません。カラスかもしれないし、キリギリスかもしれないし、
白くまかもしれない。だから、チベット仏教国のブータンなんかでは、無闇に
ハエも殺さないそうです。逆に、死んだ人間の肉体にも執着せず、
魂が輪廻することを信じているので、お墓にもこだわらないそうです。
話が少しそれましたが、そういう気質が備わっているならば、利他的な意味で、
原発には賛同しない姿勢になりがちでしょう。
まぁ、そこまで宗教的にならずとも、日本人には、虫の声をめでる性向があります。
欧米人に聞かせると雑音としか聞いていない反応が脳にでるそうですが、
日本人の脳には、意味ありとして反応が出るそうです。
そんな、小さな虫にも心を感じてきた歴史を持つ種族なのですから、
きっと、ここ数十年でアメリカナイズが激しく進行してきたものだとしても、
日本人としてのベースには、そういった多様な生命体を
認める気持ちが備わっていると思うのです。
したがって、この世界は人間だけのものではないことはわかるでしょう。
原発という人間中心思想の権化のようなものをこれ以上利用することは
きっと、フラットな日本人の心からすると呵責を感じるものではないかと、
少々決めつけすぎ加減ではありますが、考えます。
また、今の時代の多様な生物のためを思うこともありますが、
自らも含めた、生物たちの子孫、未来のことを思いやって、
原発を見てみることも大切ではないでしょうか。
重ねて言うことになりましたが、今日は大震災から2年目です。
原発の事故からも2年目になります。
そんなときですから、
ニュートラルな気持ちで、
自分の心に問うてみてください。
自分のためだけになるような答えが出ますか。
それとも、我々みんなのためになるような答えが出ますか。
前を向いて歩いて行ける。
難題にでくわすことも、くじけることもあるだろうけれど、
前をむいていられるということが肝心ではないですか。
現実を直視できなくても、
直視したい気持ちがあるだけで十分かもしれない。
そういう気持ちに合うのは、
やっぱり原発の無い世界じゃないだろうか。
「未曾有の災害」という言葉が、少しも大仰ではない、
とても悲惨なできごとでした。
まだまだ終息への道の途中。
でも、また巡ってこの日になり、黙祷を捧げました。
福島第一原子力発電所の事故によって、
僕は反原発の立場にいるようになりました。
反原発なんていう言葉を使うと、
えてして過激な感じがしますけれど、
僕個人の感覚で言うとそうではないのです。
反原発にも、自分が健康被害にあったり
死の危険にさらされたりするのがイヤだという
保守的、個人的、利己的なものと、
みんなが被害にあうのは避けたい
という利他的なものがあると思います。
僕は、みんなのためになると思っての、
原発からの脱却を理想としているのです。
目を三角にして、「反原発!」と
叫んでいるわけではありません。
でも、それにしたって、
原発を否定することは「現実的ではない」と言われると、
本当に現実的ではないかもしれません。
反原発といっても、
代替エネルギーは何にすればいいのかわかりません。
風力・地熱・波力・太陽光…。
他力本願で、研究者の方々の研究の進み具合に
頼るしかなかったりします。
そして、作ってしまった原発の処理の仕方もわかりません。
でも、わからないからといって、
使い続けて良いというものでもないでしょうが、
では、それまで、原子力はモラトリアムの中で
使っていくことになるのかと考えもしました。
しかし、本当をいうと、それも避けたいのです。
事故は恐ろしいですし、どんどん産みだされる核廃棄物という、
処理方法の無い、生物を死に至らしめるどころか、
何かの間違いがあれば、
この地球が死の星に変貌してしまうような負の物質の存在が、
明るいものだと描けたはずの未来への希望すら、
灰色、あるいは暗闇のイメージに塗り替えてしまう。
文明の進歩、経済の進歩による生活スタイルの
高エネルギー消費化というものは、
本当に不可逆的なもの、つまり、
後戻りはけっしてできないものなのでしょうか。
自分の生活を考えても、かなり難しいことは間違いありません。
このあたりは、温室効果ガス削減の
いろいろな方策の実行とも重なるところがあります。
気候変動の原因が温室効果ガスの増加によるもので、
気候変動が続きエスカレートしていくと、
生物の多様性が失われてしまうし、
人間の住みにくい星になってしまう、そう言われると、
なんとかしなきゃと思います。
同じように、原子力発電というエネルギー捻出方法にも、
核廃棄物や事故によってこの星が
人間の住みにくいところに変わりはてる可能性が
十分にあるのではないでしょうか。
それに、フィンランドには、
実際にある、またはそうする計画、だそうですが、
核廃棄物を地下に埋めることで処理したとし、
10万年またはそれ以上の立ち入り禁止区域を設けるのだそうです。
人間のエゴによって、そんな土地が作られてしまうという、
この寒々しい現実。
地球は人間のものと考える人類中心思想、いわば自己中心主義が
そこにはあります。
それは、キリスト教の欧米の考え方が影響しているようにも見受けられます。
神は自分に似せて人間を作った、という特別な存在である人間という考え方。
キリスト教を否定するわけではないのですが、
日本人には深く仏教の考え方が根ざしているとみてまず間違いなく、
そこにこそ人間中心性を絶対視しない感覚が付随しているんじゃないかと思うのです。
チベット仏教の本なんかを読むと端的にわかりますが、人間は来世そして前世、
人間である保証はありません。カラスかもしれないし、キリギリスかもしれないし、
白くまかもしれない。だから、チベット仏教国のブータンなんかでは、無闇に
ハエも殺さないそうです。逆に、死んだ人間の肉体にも執着せず、
魂が輪廻することを信じているので、お墓にもこだわらないそうです。
話が少しそれましたが、そういう気質が備わっているならば、利他的な意味で、
原発には賛同しない姿勢になりがちでしょう。
まぁ、そこまで宗教的にならずとも、日本人には、虫の声をめでる性向があります。
欧米人に聞かせると雑音としか聞いていない反応が脳にでるそうですが、
日本人の脳には、意味ありとして反応が出るそうです。
そんな、小さな虫にも心を感じてきた歴史を持つ種族なのですから、
きっと、ここ数十年でアメリカナイズが激しく進行してきたものだとしても、
日本人としてのベースには、そういった多様な生命体を
認める気持ちが備わっていると思うのです。
したがって、この世界は人間だけのものではないことはわかるでしょう。
原発という人間中心思想の権化のようなものをこれ以上利用することは
きっと、フラットな日本人の心からすると呵責を感じるものではないかと、
少々決めつけすぎ加減ではありますが、考えます。
また、今の時代の多様な生物のためを思うこともありますが、
自らも含めた、生物たちの子孫、未来のことを思いやって、
原発を見てみることも大切ではないでしょうか。
重ねて言うことになりましたが、今日は大震災から2年目です。
原発の事故からも2年目になります。
そんなときですから、
ニュートラルな気持ちで、
自分の心に問うてみてください。
自分のためだけになるような答えが出ますか。
それとも、我々みんなのためになるような答えが出ますか。
前を向いて歩いて行ける。
難題にでくわすことも、くじけることもあるだろうけれど、
前をむいていられるということが肝心ではないですか。
現実を直視できなくても、
直視したい気持ちがあるだけで十分かもしれない。
そういう気持ちに合うのは、
やっぱり原発の無い世界じゃないだろうか。