読書。
『「当事者」の時代』 佐々木俊尚
を読んだ。
その有り方が両極端からの投射になってしまっている、
今の日本のマスメディア、ひいてはすべての言論に対して、
その構造を、一方は暴露的に、もう一方は歴史を分析することで
論理的に解析し、わかりやすい文章でつづった、465ページにもわたる著者の力作です。
こういう、深い問題意識を持って、未踏の大地に挑むように踏み行って、
成果を持ち帰るような感じの仕事は、男気がなければできない仕事だよなぁと
思いましたね。
冒頭でてくる、警察と記者たちの関係については、
この本を読むまでどういうものなのか知らなかったです。
「夜回り共同体」と本書では言われる、独特な慣習がそこにはあり、
しち面倒くさいやりとりを記者と警察はしているようです。
この章で出てきた、ハイコンテキストとローコンテキストの
コミュニケーションという区別仕方には、
なるほどなぁと、盲を開かされたような気がしました。
というか、本書全体を読んで、もっと大きく、盲を開いたような気がしました。
コンテキストというのは、「文脈」や「背景」といえばわかりやすいですね。
夫婦の会話で、「あれ取って」「はい、これね」などとやりとりをするのは、
文脈や背景を濃密に共有しているからこそのもので、
そういうのをハイコンテキストといい、日本では優勢なありかたであったりします。
一方、ローコンテキストというのは、主語、述語、目的語、補語などいちいちちゃんと
表現して、文脈や背景に依存しなくても、コミュニケーションできるような
表現のあり方を言い、これは欧米的だと言われていました。
それで、「夜回り共同体」というのはハイコンテキストだということです。
もうひとつ、本書の重要な概念に、「マイノリティ憑依」というのがあります。
当事者でもないのに、当事者のように不平や不満、要望などを代弁するようなこと、
そういうのを、「マイノリティ憑依」による言論と、
僕なりの簡単なまとめ方ですが、そういいます。
これは、これで、架空のマイノリティを作り出してしまい、さらに、
その架空のマイノリティをエンターテインメントにしてしまうという、
報道の本質のようなものからずれた言論を形成してしまうという問題があるようです。
それら、「夜回り共同体」というインサイドと、
「マイノリティ憑依」というアウトサイドからしか照射しなくて、中身が空っぽなのが、
70年代以降の日本の言論だと著者は看破するのです。
そこらへんの説明は、本書では十分に紙幅を使って説明してくれているので、
是非読んでみたら面白いと思います。
読み物としても、平易な文章で書かれている上に、論旨も明快ですし、
カギとなる様々なトピックも興味深いものばかりで、夢中になって読めます。
本書を最後まで読み進めているうちに思い出したことがありました。
お互いに長澤まさみちゃんが好きということで知り合えた福島の方がいるのですが、
その方が電車だったか新幹線だったかでご一緒した人に震災体験を語った時に、
自分の当事者としての話がうまくできずに、一般的な、
他人の体験を話すような感じになってしまって、それを悔いてらっしゃったんですよね。
これは、本書で批判されている「マイノリティ憑依」について、
福島のその方も嫌悪して感じていたということになります。
言論について鋭く、さらに自分や他人の誠意をわかる人なんだろうなぁと思いました。
『「当事者」の時代』 佐々木俊尚
を読んだ。
その有り方が両極端からの投射になってしまっている、
今の日本のマスメディア、ひいてはすべての言論に対して、
その構造を、一方は暴露的に、もう一方は歴史を分析することで
論理的に解析し、わかりやすい文章でつづった、465ページにもわたる著者の力作です。
こういう、深い問題意識を持って、未踏の大地に挑むように踏み行って、
成果を持ち帰るような感じの仕事は、男気がなければできない仕事だよなぁと
思いましたね。
冒頭でてくる、警察と記者たちの関係については、
この本を読むまでどういうものなのか知らなかったです。
「夜回り共同体」と本書では言われる、独特な慣習がそこにはあり、
しち面倒くさいやりとりを記者と警察はしているようです。
この章で出てきた、ハイコンテキストとローコンテキストの
コミュニケーションという区別仕方には、
なるほどなぁと、盲を開かされたような気がしました。
というか、本書全体を読んで、もっと大きく、盲を開いたような気がしました。
コンテキストというのは、「文脈」や「背景」といえばわかりやすいですね。
夫婦の会話で、「あれ取って」「はい、これね」などとやりとりをするのは、
文脈や背景を濃密に共有しているからこそのもので、
そういうのをハイコンテキストといい、日本では優勢なありかたであったりします。
一方、ローコンテキストというのは、主語、述語、目的語、補語などいちいちちゃんと
表現して、文脈や背景に依存しなくても、コミュニケーションできるような
表現のあり方を言い、これは欧米的だと言われていました。
それで、「夜回り共同体」というのはハイコンテキストだということです。
もうひとつ、本書の重要な概念に、「マイノリティ憑依」というのがあります。
当事者でもないのに、当事者のように不平や不満、要望などを代弁するようなこと、
そういうのを、「マイノリティ憑依」による言論と、
僕なりの簡単なまとめ方ですが、そういいます。
これは、これで、架空のマイノリティを作り出してしまい、さらに、
その架空のマイノリティをエンターテインメントにしてしまうという、
報道の本質のようなものからずれた言論を形成してしまうという問題があるようです。
それら、「夜回り共同体」というインサイドと、
「マイノリティ憑依」というアウトサイドからしか照射しなくて、中身が空っぽなのが、
70年代以降の日本の言論だと著者は看破するのです。
そこらへんの説明は、本書では十分に紙幅を使って説明してくれているので、
是非読んでみたら面白いと思います。
読み物としても、平易な文章で書かれている上に、論旨も明快ですし、
カギとなる様々なトピックも興味深いものばかりで、夢中になって読めます。
本書を最後まで読み進めているうちに思い出したことがありました。
お互いに長澤まさみちゃんが好きということで知り合えた福島の方がいるのですが、
その方が電車だったか新幹線だったかでご一緒した人に震災体験を語った時に、
自分の当事者としての話がうまくできずに、一般的な、
他人の体験を話すような感じになってしまって、それを悔いてらっしゃったんですよね。
これは、本書で批判されている「マイノリティ憑依」について、
福島のその方も嫌悪して感じていたということになります。
言論について鋭く、さらに自分や他人の誠意をわかる人なんだろうなぁと思いました。
「夜回り共同体」というインサイドと、「マイノリティ憑依」というアウトサイドからしか照射しなくて、中身が空っぽなのが、70年代以降の日本の言論だと著者は看破しています。力作。男気。