4
なんで、生きてるんだろう。
最近、特によくこうなるのだが、ハナは自分の生に確かな質感のようなものを感じきれていない状態になる。
今もそんなふわんとした心地で職場に立ち郵便物を仕分けていた。
そのまま営業部の分を届けようと歩いていくと、先輩の宮越スミカが仲良しの上野ケイコとひそひそ話をしながらこちらへ向かってきているところで、かするめる程度だがそんなハナとぶつかってしまった。ハナのボブヘアが乱れる。
誰とぶつかったのかもわからないまま、咄嗟に
「すいませんでした」
とハナは体を硬く縮めるようにあたまを下げると、宮越は
「気をつけてねえ」
と怒った様子でもなく、左手を一度ひらりとさせて上野と歩いていった。しかし、去り際、上野に宮越が「あの人、影薄いから」と言って、二人で小声で短く笑ったのを聴き逃さなかった。
殺風景な事務室の壁をみつめていた目を足下に戻して、ハナは、言われちゃうな、と貼られたレッテルはほんとうに言い得ているかどうか吟味しつつ、また営業部へと歩いていった。
彼氏がいたことがない。引っ込み思案で、たまに言い寄られることがあっても、逃げ続けてきた。いまや友だちと呼べる相手は学生時代のゼミからの付き合いである森野サエひとりしかいない。サエとだけはなぜか気があい、友だちになれた。
ハナは雑多な人間関係が性に合わず、そういった広い交友関係にかかずらうと、もっている以上のエネルギーを消費するような徒労感に襲われて、活動停止に陥ってしまう。大学一年生のときには、自分にはそういうかたちの人との付き合い方は向いていない、と決めてしまって、以来、おとなしく、ハナのハナらしい等身大のハナから背伸びすることなく、できれば目立たないようにいままでやってきた。それじゃ、やっぱり影が薄いか、と癪に触りながらも認めてしまう。
そういった性質は事故にあう前も後も変わらないものだった。でも、事故によって、いっそう影が薄くなったかもしれない気はした。
影が薄くなると、濃い闇が忍び寄ってきて飲みこまれてしまうような予感がして不安になった。闇にごくんと一飲みされてしまいそうになったら、走ってそこから離れなくてはいけないのだが、そのための脚力には自信はなかった。
しかし、影が薄く見られても、生きている心地があまりしなくても、それなりに充実感のある生活はしていた。本を読むこと。ゲームをすること。散歩をすること。ひとりで映画を見ること。たまにサエとおいしいものを食べに行ったりカフェでおしゃべりをすること。それでよかった。幸せは小さくても、ちゃんと感じられている、生きていく足取りが多少ふわふわしていても。
今夜はサエと居酒屋で飲む約束をしていた。
七時に現地集合だったため一時間で残業を切り上げ、余裕を持って会社を出た。六時五〇分にお店の前に着いてみるとまだサエの姿はなかったが、のれんをくぐって中に入り、「あとでもう一人きます」と言って小上がり席に案内してもらった。LINEでもう店に着いたことをサエに報告し、梅サワーを注文する。サエは約束から一四、五分遅れてやってきた。
「ごめん、ごめん」
いつものことで、まあ、許容範囲だった。
「宇宙人に会ってね、アンドロメダへの帰り道をきかれてたの」
返答に困る言い訳をする。
「わかるわけないってね、あはは」
茶色で長く、ゆるいウェーブのかかった髪を後ろへはねのけながら、サエは人懐こい笑顔だ。
そのうちに、焼き鳥が運ばれてきて、待ってました、と二人ですぐさまほおばった。サエはビールを勢いよく飲んでいる。ハナは、昼間に先輩が自分のことを影が薄いと漏らしたことをサエに話した。
「わたし、やっぱり影が薄いタイプなのかな。誰かの視界に入っていてもそのひとから見えていないタイプ」
「いやいや、サエは影が薄いっていうより、なんていうかなあ。見てて切ない気持ちになっちゃうっていうかさ、オトコが見たらキュンとしちゃってほうっておけなくなるんじゃないかっていうような雰囲気に見えるよねえ。ちょっと独特っていえばちょっと独特か」
「なにそれ。哀れみを買うタイプってこと?」
「哀れみとは違う違う。そこは牛乳と豆乳みたいに違うね。わかりにくいかな。あなたはね、女性特有のかよわさの化身みたいなものよ。哀れでほうっておけなくなるのとは違って、守ってあげなきゃって根っこからの気持ちで思われちゃうように見えますが、いかが?」
「いままでそんな風に言われたりしたことないけど」
唇をとがらすと、
「それ以前に、薄くバリア張るからね、あなたは」
とサエは愉快そうだ。そうなのだ、深い付き合いになる前にハナは距離を置いたり逃げたりする。怖いような、うっとうしいような、とにかく自分が自分でいられなくなり混乱してしまう予感がして、避けてしまうのだ。
この性質については、直そうだとか直さないだとかと考えてそう出来るような意識にのぼっている性質ではなくて、無意識の領域に沈み込んでいて手が出せないような、なぜかそうなってしまう、という難しい種類の特性だった。自分のことなのに、ひとりでジタバタしたところでなんの解決にもならないのは強く感じていた。
オニオンスライスの乗った冷や奴が運ばれてくる。ポン酢とマヨネーズがかけられていて、ハナとサエは七味も振りかけた。
「でもさ、ハナって自分は影が薄いのはイヤだって思うひとだったんだね。あたしはさ、あなたはそういうことを全然気にしないひとなんだと思ってたのよ。逆に、みんなに気づかれないようにして生きてるんじゃないかとすら見てたところもあったのよ」
「わたしだって、関わる人には一人前の人間にみられたい。サエはどうなの?わたしをちゃんと一人前の人間として見てくれてる?」
「そりゃ、見てるよ」
「……ほんとかな?」
二杯目のライムサワーを飲みながらハナはサエにじゃれつくように軽く言葉でつつく。
「あたしはあなたを親友だと思ってる。これはほんとうによ。でも、ずっと付き合っててもどこか距離が縮まってこないような気もしてる。でも、その距離感でいい、それで気分よく付き合えて楽しいしってさ、そう思うようになってる。つまり、もはや、そういうハナらしさがあたしには気持ちよくもあるわけですよ、うん」
「……うれしい。ありがとう」
今夜のお酒はおいしくなった。サエもにこにこしながら冷や奴を崩している。
もういいか、たとえ会社の人に影が薄く見られても、ちゃんとわたしの存在をそのままで見てくれるサエがいてくれれば。そうハナの気持ちが安定してきたところで、
「でもね、ハナは最近、なんかふわふわしてる」
と眼つきがいくぶん鋭くなったサエが遠慮なく言う。
えっ、と声に出る。
「なにかに気持ちが向いていて、こころここにあらずっていうか。そういう気配をさせながら、たとえばあたしと喋ってる」
ハナは、最近、生きている実感が薄らいできていることをサエに言うべきか迷ったが、今回は言わないことにして、『フラッピング・オブ・エンジェル』のコミュニティサイトを見つけて、それが気になってはいるけど、とかわすことにした。察しのいいサエならば、それがほんとうのところを隠しているのがすぐにわかるだろう。しかし、懐の深いサエだから、追い詰めたりしないし、わかっていてもそっとしておいてくれる。
「『フラッピング・オブ・エンジェル』ってなんだったっけ?」
「もう一〇年以上前にあったオンラインRPGだよ。フリーのゲームでね、作者のサイトで遊べたの。なかなか人気があったのよ」
「全然知らない。昔からあんまりネットに時間使わないからね、あたしは。ゲームもあんまりしないし。一〇年以上前っていえば、バンドやってた頃だ。懐かしいな。それでその『フラッピング・オブ・エンジェル』のサイトがどうしたの?」
「これがねえ、荒れてるんだよ、掲示板が。せっかく懐かしくて楽しい気持ちになってたのに、台無しにされたような気分でさあ」
「荒しって無くならないもんだねえ」
サエは荒しをするヤツを思って、呆れたような顔をした。つられてハナもへなへなした疲れたような笑顔になった。
「でもね、ツイッターでたまたまその『フラエ』のサイトの常連さんをみつけて、フォローしあっちゃった。それから、仲のいいフォロワーさん同士になってるんだ、そのひとと。おはようとかおやすみとかまで言い合うくらいだよ?札幌の近くに住んでるっていうし、同じ道産子同士で話も広がるの」
「へえ、そうなんだ。それは珍しい縁だね。『フラッピング・オブ・エンジェル』ですら珍しいのに、住んでるところも近いなんて」
「だからね、『フラエ』のことを考えると元気になれないんだけど、ツイッターでのやりとりは楽しいの。最近はそんな日々かな」
「なんにしても、楽しみがあるならまあいいじゃない。それに比べてあたしときたら、例の彼とうまくいかなくてねえ……」
「誰と?宇宙人と?」
誰が宇宙人じゃ、とサエが低い声で貫録のあるツッコミをする。ハナは口元を押さえながら笑い転げている。そこから話はサエが意中の人へアプローチしている話へ移っていった。
店内の明るすぎないオレンジ色の照明は温かく、その夜遅くまで二人を包み続けた。
5
朝早くからhanaのツイートをみかけた。あんずジャムを塗った食パンにかじりつきながらクニヒロは、「おはよう!」とリプライを送った。ノートパソコンの画面を見つめている。hanaとは日ごとに親密になっていた。
彼女は札幌に住んでいて、クニヒロは札幌中心部まで車で二時間弱の地域に住んでいた。そのため、『フラッピング・オブ・エンジェル』に限らず、ローカルな話題でも絡みやすく、何度もリプライを返し合って話をすることが多くなっていった。
しかし、そんなツイッター上での好状況の進展と反比例するかのように、『フラエ』コミュニティサイトの掲示板の状況はますます悪くなっていった。
荒しも遂に大詰めを迎えたのか、その荒し方としてはレベルの低い、卑猥なネタを用いたアスキーアートによるものが増え、書き込みの頻度も高くなっていた。荒しの主は、勝負は決したのだ、と見極めているかのような攻め方をしていた。
諸君、またやって来たぞ。予想に反してお前等は総じてなかなか賢かったと見える。なにせ、この掲示板から離れていったものが多いからな!それでいい。それでいい。離れた奴らは褒めてやろう。なにが、フラッピング・オブ・エンジェル、天使の羽ばたき、だ。こんなゲーム、ユーザーにとっては本質的にフラッピング・オブ・デビルだろ。なんだよ、あのラミエルって脆弱な性格の野郎は。主人公にヴィジョンをいろいろ見せましたー、アドバイスをしましたー、って幻覚を見せてるだけじゃねえか。あいつの持ってるパワーは、相手の脳に悪さして精神的不調にさせてるだけなんじゃねーの(嘲)嫌なもんだ、あんな子供騙しのゲーム。そんなものにいつまでも浸ってんじゃねーよ。それこそ、精神的不調になってるんだろ、お前等?まあ、それも自己責任だけどな。だけど、そうやって社会の生産性を落としてくれるなよ。お前等は社会のお荷物になるんだから、いっそのこと自己責任として切り捨てられちまえ(嘲)
最新の書き込みはこんなだった。クニヒロのあたまは朝からいっぱいになった。荒しの言う通り、もともと少ない人数の集まりではあったが、『フラエ』コミュニティサイトに集まる人は激減した。アクセスカウンターは日に一〇前後しか動いていない。何故こういう嫌がらせをするのか、みんなの微笑みの出所なのに、とクニヒロは眉根を寄せる彫像のように静かに憤る。
こういう気持ちはもう何度目だろうか。撥ね退けたくても撥ね退けられない浸食。荒しは炎の王子というハンドルネームだった。よく、「燃やし尽くしてやる」という言葉を使う。まったくふざけている、とクニヒロは思った。芸風まで持ちやがって、いい気なものだ。
出勤の時間が迫ってきたため、彼はノートパソコンを閉じ、ダウンを着て外に出た。最近はこの時間帯でもプラス気温の日が続いていて、今朝もそうだった。太陽が昇る時間も早くなってきた。なかなかやってこない億劫がりの北国の春が、やっと、しかし確実に近づいてきているのを実感した。
夕方、仕事から帰ってきてストーブの点火ボタンを押し、続けざまにノートパソコンのスイッチを入れる。それから薬缶に水を注いで火にかけ、マグカップに細粒のコーヒーの素をスプーン二杯、砂糖を一杯いれて薬缶が沸騰するのを待った。
今日はミスのない仕事ぶりだった。残業も無く、清々しい気持ちで帰宅した。
『フラエ』のサイトがあたまをよぎる。こんな気持ちの晴れやかな日などには悪いことは何も起きないものなんだと思いつつも、しかし掲示板の動きが多少知りたくなるのだった。なにかよい進展があったかもしれないというかすかな希望があたまをもたげたためだ。
ストーブの点火より先にノートパソコンの起動完了のほうが早かったが、薬缶がぷんぷん言い出したため、クニヒロはガス台のほうへ立つ。ほどなくしてコーヒーの豊かな香りが部屋中に膨らんだ。
マグカップからコーヒーを啜りながら、まずメールのチェックをすると、ツイッターでお邪魔店長というひとからのリプライがあるという通知が来ていて、目が行った。それは、クニヒロとhana両者に向けてのリプライで、
「はじめまして!お邪魔店長といいます。いやあ、あなたたちのツイートが嬉しくて嬉しくて。見つけたときは、まさか!と思いました。何を隠そう、私は『フラエ』の制作者なんですよ。よかったらこれから仲良くしませんか」
という驚くべき内容だった。
急いてくる気持ちを抑えながら、お邪魔店長のプロフィールを覗く。書かれていたのは、
「居住地は札幌。雇われコンビニ店長。男性。バイトのみんなから何かにつけて、ほら、邪魔ですよ!と怒られ続けるお邪魔店長。何がどういけないのか?どうして邪魔になるのか?気づいた時には名前を変えます。昔、そこそこ人気のオンラインRPGを作ったことがあるのは内緒の話」
という文言だった。そこそこ人気のオンラインRPGを作ったことがある、と公言しているうえに、リプライに『フラエ』の制作者と書いて寄こした。間違いなさそうにも思えた。hanaはどう思っているだろう?hanaのタイムラインを見ても、反応はまだない。
クニヒロはどう返答しようか考えた。ほんとうに『フラエ』の制作者なのか、一〇〇%信じられないからだ。彼のそんな気持ちには、『フラエ』コミュニティサイトが荒されていたことが関係していた。卑怯な炎の王子、もしくは炎の王子の威を借るようなアンチ『フラエ』の輩が、『フラエ』というゲームを大事に思い、その世界観を愛するクニヒロとhanaに一杯食わすつもりじゃないのか、と勘ぐる気持ちが少々あったのだ。
そこで、クニヒロはお邪魔店長へのリプライには、このゲームの最後までを知らないと答えられない質問を書くことにした。
「お邪魔店長さん、はじめまして!ツイートをありがとうございます。制作者の方なんですか?びっくりして信じられないくらいです。
信じられないついでに質問をしていいですか?ミカは最後の試練をくぐりぬけてどうなったでしょう?」
ミカは最終的に人間の世界に生まれ直すことになった。天界の記憶を消されて人間になったのだ。
すぐには返信が来るものとは限らないし、実際それから少しの間ツイッターに繋いだままにしていたのだが動きはない。クニヒロはパソコンの前から離れて夕食を作ることにした。
故郷でもあるこの土地で、わざわざ親元から離れてひとり暮らしをはじめてから二年が経つ。パート労働をしながらでもなんとか暮らしていけるのは、家賃が安いおかげだった。冬場は灯油代がかさむが、少しばかり親からの援助もあった。彼は感謝していた。二十五歳になって自立しきれていなくても、親から厭味や文句を言われたことがない。だからといって、過保護というほどではないと彼は引いた視点で自分を見てそう思っていた。時世が時世だった。過疎地であり高齢化率が五〇%近い限界集落間際の街でもあったのだが、彼はできればこの街を離れたくはなかった。住み慣れた町に居続けたい。食品工場でのパートの仕事に就けたことはそんな彼にとっては幸運以外の何ものでもなかった。正社員への登用もあるという工場だったから、クニヒロはそういう道もあるかな、と薄曇りの月みたいにぼんやり考えてはいた。
夕食は、鮭を焼いて小松菜をお浸しにしたものと煮つけたかぼちゃに椎茸ととろろ昆布の味噌汁だった。出来あいのものを買ってきて食べることをできるだけしないのは、料理するのが好きだったからだ。いろいろとその日のことを振り返って気にしていたことも、料理している間は忘れられる。気分転換になった。好きに勝るものなし。ここでも、彼の性格の脆い部分を補うような好ましい性質があった。
小さなテーブルに料理の入った食器を並べ、テレビでニュースを見ながら食べはじめた。九州のあたりではもう桜が開花しているという。こっちはまだ雪景色なのに、と日本は南北に長い国であることを強く実感する季節だった。
雪に半年近く辺りを閉ざされる地域もあれば、年中自転車で移動できる地域もある。都会もあれば田舎もある。自分の好みに合わせて住む場所を選んで暮らせばいい。しかし、現実には、生まれおちたその土地への愛着があり、反対にその土地への憎悪があり、地縁というものがしがらみになったり排他性になったり影響を及ぼし、なかなか気候の趣味だけでは決められない。
クニヒロは自分の住む町の雪深さには辟易していた。それ以外にも、買い物に不便だったし大きな病院も無いのには苦労したのだが、
朝も夜も町全体が穏やかで静かで、安心して暮らしていられる土地だったことが、彼が住み続けるひとつの大きな要因になっていた。
都会よりも、過ぎていく時間のスピードは遅かったが、その代償として時間の流れ方が重かった。そうやって、スピードが速くて軽い時間が流れる都会の在り様と乖離せずに、田舎であるクニヒロの街と都会は釣り合いをとり、総じて等価な時間の流れになっていた。都会だから若いままだとか、田舎だから早く歳を取るだとかいったことが起きないのはそのためだった。
急かされることなく、田舎らしいゆったりした気持ちで、クニヒロは食事をすべて平らげた。米や鮭といっしょに時間をも咀嚼したかのような満ち足りた食事だった。
一息ついてから食器を洗って風呂に入った。湯上りに、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶で喉を潤す。ドライヤーをかけて、ほほの火照りの収まらぬまま椅子にもたれ、机の上のノートパソコンを再び起動した。
ツイッターにお邪魔店長からのリプライがあって、こう書かれていた。
「そうですね、信じられないかもしれません!コンビニ店長のおっさんがかつての『フラエ』制作者だなんてね。でもね、ほんとうなんですよ。ミカは人間になりました」
そして連投で、
「どうして人間になることを選んだのか?悪魔ほどではなくてもわざわざ汚れた存在になることを希望したのか?そのことについては、実際にあななたちと会ったときにお話したいです」
さらに続けて
「ってね、あなたたちと会ったときに、なんて書いたけど、会いましょうよ。あなたたちのツイートを遡って読んだのだけども、私も道民。札幌に住んでるんですよ。ね?会いましょうよ、そのうち」
と書いていた。
『フラエ』の制作者が札幌にいる、そのことでクニヒロの心臓は高鳴った。
6
やり取りをしていたjamjamさんの本名は青木クニヒロといい、突然あらわれた『フラッピング・オブ・エンジェル』の制作者お邪魔店長の本名は末松ケンゴといった。ツイッターのメッセージ機能を使って名乗り合ったのだ。もちろん、彼女も納田ハナという本名を名乗った。それは自然な成り行きだった。
ケンゴはさすが制作者らしく、『フラエ』の隅から隅までを覚えていたし、加えて裏設定の話までちらりとすることもあり、ハナは喜びの鳥肌を立てながらスマホ画面に見入る夜の時間が長くなった。十数年の時を経てこんなに『フラエ』話に夢中になる日が来るなんて、予想だにしていなかった。
ハナがケンゴにもっとも聞きたかったことは、どうしてラミエルをキャスティングしたのか。そして、ああいう隠者のようなキャラクターにしたのかだった。ケンゴが言うには、天使悪魔事典のような本をパラパラめくってなんとなしに決めただけだし、キャラクターについては現代風の男子をまずイメージしてそこからいじっていったのだということだった。ハナは拍子抜けしてしまった。
「要するに、適当に決めたってこと?笑」
と幻滅へ傾きつつある気持ちのままリプライすると、ケンゴから
「現代風の男子ったっていろいろあるからね。そこはイメージを膨らませてオリジナリティのあるラミエルをクリエイトしました。かなり気を使った部分だよ」
と適当ではないという答えが返ってきて、彼女はぎりぎりのところで夢の世界から転がり落ちずに済んだ。
そこでクニヒロが
「お邪魔店長さん、ぼくらヘビーなファンでもありますから、夢を壊さない程度に相手してくださいw」
と絡んでくれて、ハナはクニヒロにとってもケンゴのリプライには危ういまでもの素っ気なさを感じたのだなとわかった。
なんでもかんでも軽く受け答えして、そこにいっさいの努力の影を見せないという話し方は、たぶんゲームクリエイターという人種の特質で、それがケンゴにもあることを、ハナは忖度した。
そんな折、ケンゴから実際に三人で会ってみないかと持ちかけられた。
やり取りをし始めた当初から、ケンゴは「会ってみようよ」とネット世界の細いつながりを幾分強くしようとしていた。ハナにしてみれば、ネット世界の希薄なつながりこそが肩の凝らない付き合いで気楽だった。やり取りしあう相手にしても、粘着するタイプ、前しか見えないタイプのひとは避けていて、クニヒロもケンゴもそうではなかったから仲良くしていた。でも、リアルで会うとなると、ぎくしゃくしそうで不安だった。自分のつれない性格が際立って表に出て、二人を嫌な気分にさせないかどうかも怖かった。
「考えてみるけど、どうだろうなあ。わたしはあんまり人づきあいの得意な方じゃないんだよね」
とツイートすると、ケンゴは
「いやいや、一度会ってみようというだけなんだし、気張らなくたっていいんですよ。ほら、ツイッター上のやりとりみたくゆるくさ、まったりさ、顔合わせみたいにどうかな。楽しいと思うけど」
とフランクにいこうという方針を伝えてくる。クニヒロも
「ぼくは三人で会いたいな。『フラエ』話を中心にけっこう打ち解けられそうじゃない?」
とケンゴの案に賛同のようだ。
彼女はスマホの前で、うーんと唸ってしまった。とりあえず、明晩まで返事は保留してもらうことにした。
確かに、ケンゴの言う通り、その会合には楽しそうなイメージが浮かんだ。サエとのように気兼ねなく、面倒な駆け引きなどなく話ができそうに思えた。
jamjamさんにお邪魔店長さん……、ハナは彼らとのこれまでのやりとりを思い返すのと、可能性の未来としての彼らとの会合の様子をイメージするのとを交互に繰り返していった。記憶と想像がまざりあい、可能性の未来のイメージが現実感を増していった。そして、未来のイメージに浸透していった現実の記憶からのイメージがついに平衡状態になったとき、つまり、記憶とイメージのやりとりが収束したとき、彼女にとってそれはとくに悪い気のするものではなかったのがわかった。それに一度だけでいいんだし、と割り切れる会合でもあったのが、気持ちを平安にした。
スマホを閉じ、ホットミルクを飲みながらそこまで考える。返事を保留してもらっているし、一晩持ちこした後、気持ちがぶれないようならオーケーをしようと決めた。深夜零時を前に彼女はベッドの中に滑りこみ、すぐに無意識へと吸い込まれるように眠った。
次の日の夜、ハナはこころを決めて、クニヒロとケンゴに
「決心しました。三人で会いましょう」
と短いツイートをした。
彼らは喜んで、お礼のツイートを返してきた。ケンゴは矢継ぎ早に二人の都合を訊ねながら会合の暫定の日付を指定する。以降はケンゴが仕切り、メッセージ機能を使って日取りを調整して決めたのだった。四月中旬の土曜日に決まった。
そこまで決まってから、クニヒロが
「実はぼくって、人見知りで口下手なんですが、よろしくお願いします」
なんて言い出したのを読んで、ハナはその日はケンゴの独壇場になるのかな、とふふふと笑った。
『フラエ』コミュニティサイトは、炎の王子の思惑に負けて、三月の下旬に閉鎖されてしまった。掲示板にはもはや荒しの書き込み以外のものは見当たらない状態だった。完全敗北。
ハナは大事なものがひとつ奪い取られたような喪失感を感じていた。大事にしていた宝石を泥で汚されてその泥を洗い流すことが許されないような虚無感も感じていた。
ハナは、クニヒロやケンゴとは今後もつながり続けることができるけれど、その他の同志とも言える『フラエ』ファンとはもうつながり合えないことを想うと寂しくなった。茫洋としたネット世界で、依る場所を失くしてちりぢりになってしまったのだから。
それでも、サイトが閉鎖されたことによって、あの二人とつながりを保てていることが、不思議と自分は孤独ではないことを、逆にはっきりとさせた。そして、ハナとクニヒロとケンゴは、それぞれがそれぞれの存在を貴重なものとして、よりお互いのパーソナリティを際立たせて意識するようになった。つまり、お互いへの敬意が強くなったのだ。彼らとの縁が、ハナには日ごとに大事に感じられるようになっていった。
それから数週間がたち、まだ肌寒い春の中、その日がやってきた。札幌の大通地下街の喫茶店入り口前での待ち合わせ。午後三時現地集合。
緑色の薄手のダウンを着たハナは早めに街中に繰り出し、地下街の本屋に寄って女性誌や文庫本をぱらぱらと立ち読みし、待ち合わせ時間の間際まで過ごした。
彼女もそうだが、通りすぎる人々はまだ本格的な春の装いではない。この時期でもスプリングコートがまだ少し寒く感じるような今年の気候だった。暖かくなったりまた寒くなったりと、はっきりしない春だった。
待ち合わせの五分前に喫茶店前に着いてみると、そこに二人の男性が立っていた。若いほうの一人はぎこちなげに片方の足を前後に動かしながら下を向き、もう一人の黒ぶち眼鏡で背の低い小太りのほうはブルゾンのポケットに両手を入れ、眼鏡の奥から、空虚さとは無縁なはっきりした視線を通路を挟んだ向かいの洋服屋へ投げかけている。
ハナはすぐに、クニヒロとケンゴだとわかった。ハナが二人に視点を合わせたまま柔らかい表情で近づいていくと、二人もハナだと気付いたようで、嬉しそうながらもちょっと疑問をかかえたような表情で彼女のほうに視線を投げかけ続け、ついに、年輩のほうの男が、
「ハナさんですか?」
と声をかけてきた。
「すぐわかりましたよ。ケンゴさん、クニヒロさん、今日はよろしくお願いします」
とハナは柔らかく微笑えみかけた。
クニヒロはかすれた声で
「よろしくお願いします」
と返したものの、顔をあげたままにしておけない様子で、下を向いたり横を向いたりしていて、緊張しているんだなとハナは見てとった。
「じゃ、中に入ろうか」
とケンゴが目じりにしわを寄せたやさしい表情で言う。彼女は後をついていった。
奥のテーブル席につくと、ハナはケンゴと、クニヒロが車で二時間近くかけて札幌まできたことをねぎらい、最近の寒い春の天候についてなどの雑談を交わし、コーヒーが運ばれてきてから改めて名乗る程度の自己紹介をした。
ハナの目には、ケンゴは自信に満ち溢れているやり手の男に見えた。眼鏡の奥に見える眼には理知的な印象を受けたし、話しぶりも落ち着いていながらも抑揚に富み表情豊かなもので、すぐに好感を持った。ただ、自分のことを〝ぼく〟でも、〝おれ〟でも、ツイッターでのように〝私〟でもなく〝わし〟というのには違和感を感じた。
〝わし〟という歳でもないだろうと思って、ハナは
「ケンゴさんって、失礼ですがおいくつなんですか。〝わし〟って
ご自分のことを言うから気になって」
と訊くと
「四十一歳。厄年です。いやんなるね、『フラエ』のサイトが荒されるのも厄年と関係あるのかなあ。〝わし〟っていうのもね、もう十年くらいは言ってるんだよ。最初はふざけてたはずなんだけど、癖になっちゃってね」
とやっぱり見た目と同じくらいの歳かと納得したし、〝わし〟についても妙ではあったが、変な理由でも無くて安心した。
クニヒロのほうを見ると、彼は最初と同じように伏し目がちにしていて、なかなか会話に口を挟めてこない。幾分、頬が紅潮しても見えた。もしかしてコミュ障なのかな、とハナは思った。ケンゴはそんなクニヒロの緊張した様子を早くから気遣うように、ねえ、だとか、なあ、だとか話しかけて会話に誘っていた。
しばらくツイッターでのやり取りをなぞるような話が続いたが、ケンゴのほうから
「じゃ、そろそろ『フラエ』についての込み入った質問を受け付けるよ。でもわしにわかるかなあ」
と最後はおどけたことを言いつつも自信に溢れた顔をして、この会合の一番の意義ある話題へと持っていってくれた。ハナはツイッター上では答えてもらえなかった質問をいくつか覚えていて、まず
「どうして『フラエ』を作ろうと思ったんですか?」
という質問をした。
ケンゴの理性的な眼に、情熱の炎がほのかに宿ったように見えた。
なんで、生きてるんだろう。
最近、特によくこうなるのだが、ハナは自分の生に確かな質感のようなものを感じきれていない状態になる。
今もそんなふわんとした心地で職場に立ち郵便物を仕分けていた。
そのまま営業部の分を届けようと歩いていくと、先輩の宮越スミカが仲良しの上野ケイコとひそひそ話をしながらこちらへ向かってきているところで、かするめる程度だがそんなハナとぶつかってしまった。ハナのボブヘアが乱れる。
誰とぶつかったのかもわからないまま、咄嗟に
「すいませんでした」
とハナは体を硬く縮めるようにあたまを下げると、宮越は
「気をつけてねえ」
と怒った様子でもなく、左手を一度ひらりとさせて上野と歩いていった。しかし、去り際、上野に宮越が「あの人、影薄いから」と言って、二人で小声で短く笑ったのを聴き逃さなかった。
殺風景な事務室の壁をみつめていた目を足下に戻して、ハナは、言われちゃうな、と貼られたレッテルはほんとうに言い得ているかどうか吟味しつつ、また営業部へと歩いていった。
彼氏がいたことがない。引っ込み思案で、たまに言い寄られることがあっても、逃げ続けてきた。いまや友だちと呼べる相手は学生時代のゼミからの付き合いである森野サエひとりしかいない。サエとだけはなぜか気があい、友だちになれた。
ハナは雑多な人間関係が性に合わず、そういった広い交友関係にかかずらうと、もっている以上のエネルギーを消費するような徒労感に襲われて、活動停止に陥ってしまう。大学一年生のときには、自分にはそういうかたちの人との付き合い方は向いていない、と決めてしまって、以来、おとなしく、ハナのハナらしい等身大のハナから背伸びすることなく、できれば目立たないようにいままでやってきた。それじゃ、やっぱり影が薄いか、と癪に触りながらも認めてしまう。
そういった性質は事故にあう前も後も変わらないものだった。でも、事故によって、いっそう影が薄くなったかもしれない気はした。
影が薄くなると、濃い闇が忍び寄ってきて飲みこまれてしまうような予感がして不安になった。闇にごくんと一飲みされてしまいそうになったら、走ってそこから離れなくてはいけないのだが、そのための脚力には自信はなかった。
しかし、影が薄く見られても、生きている心地があまりしなくても、それなりに充実感のある生活はしていた。本を読むこと。ゲームをすること。散歩をすること。ひとりで映画を見ること。たまにサエとおいしいものを食べに行ったりカフェでおしゃべりをすること。それでよかった。幸せは小さくても、ちゃんと感じられている、生きていく足取りが多少ふわふわしていても。
今夜はサエと居酒屋で飲む約束をしていた。
七時に現地集合だったため一時間で残業を切り上げ、余裕を持って会社を出た。六時五〇分にお店の前に着いてみるとまだサエの姿はなかったが、のれんをくぐって中に入り、「あとでもう一人きます」と言って小上がり席に案内してもらった。LINEでもう店に着いたことをサエに報告し、梅サワーを注文する。サエは約束から一四、五分遅れてやってきた。
「ごめん、ごめん」
いつものことで、まあ、許容範囲だった。
「宇宙人に会ってね、アンドロメダへの帰り道をきかれてたの」
返答に困る言い訳をする。
「わかるわけないってね、あはは」
茶色で長く、ゆるいウェーブのかかった髪を後ろへはねのけながら、サエは人懐こい笑顔だ。
そのうちに、焼き鳥が運ばれてきて、待ってました、と二人ですぐさまほおばった。サエはビールを勢いよく飲んでいる。ハナは、昼間に先輩が自分のことを影が薄いと漏らしたことをサエに話した。
「わたし、やっぱり影が薄いタイプなのかな。誰かの視界に入っていてもそのひとから見えていないタイプ」
「いやいや、サエは影が薄いっていうより、なんていうかなあ。見てて切ない気持ちになっちゃうっていうかさ、オトコが見たらキュンとしちゃってほうっておけなくなるんじゃないかっていうような雰囲気に見えるよねえ。ちょっと独特っていえばちょっと独特か」
「なにそれ。哀れみを買うタイプってこと?」
「哀れみとは違う違う。そこは牛乳と豆乳みたいに違うね。わかりにくいかな。あなたはね、女性特有のかよわさの化身みたいなものよ。哀れでほうっておけなくなるのとは違って、守ってあげなきゃって根っこからの気持ちで思われちゃうように見えますが、いかが?」
「いままでそんな風に言われたりしたことないけど」
唇をとがらすと、
「それ以前に、薄くバリア張るからね、あなたは」
とサエは愉快そうだ。そうなのだ、深い付き合いになる前にハナは距離を置いたり逃げたりする。怖いような、うっとうしいような、とにかく自分が自分でいられなくなり混乱してしまう予感がして、避けてしまうのだ。
この性質については、直そうだとか直さないだとかと考えてそう出来るような意識にのぼっている性質ではなくて、無意識の領域に沈み込んでいて手が出せないような、なぜかそうなってしまう、という難しい種類の特性だった。自分のことなのに、ひとりでジタバタしたところでなんの解決にもならないのは強く感じていた。
オニオンスライスの乗った冷や奴が運ばれてくる。ポン酢とマヨネーズがかけられていて、ハナとサエは七味も振りかけた。
「でもさ、ハナって自分は影が薄いのはイヤだって思うひとだったんだね。あたしはさ、あなたはそういうことを全然気にしないひとなんだと思ってたのよ。逆に、みんなに気づかれないようにして生きてるんじゃないかとすら見てたところもあったのよ」
「わたしだって、関わる人には一人前の人間にみられたい。サエはどうなの?わたしをちゃんと一人前の人間として見てくれてる?」
「そりゃ、見てるよ」
「……ほんとかな?」
二杯目のライムサワーを飲みながらハナはサエにじゃれつくように軽く言葉でつつく。
「あたしはあなたを親友だと思ってる。これはほんとうによ。でも、ずっと付き合っててもどこか距離が縮まってこないような気もしてる。でも、その距離感でいい、それで気分よく付き合えて楽しいしってさ、そう思うようになってる。つまり、もはや、そういうハナらしさがあたしには気持ちよくもあるわけですよ、うん」
「……うれしい。ありがとう」
今夜のお酒はおいしくなった。サエもにこにこしながら冷や奴を崩している。
もういいか、たとえ会社の人に影が薄く見られても、ちゃんとわたしの存在をそのままで見てくれるサエがいてくれれば。そうハナの気持ちが安定してきたところで、
「でもね、ハナは最近、なんかふわふわしてる」
と眼つきがいくぶん鋭くなったサエが遠慮なく言う。
えっ、と声に出る。
「なにかに気持ちが向いていて、こころここにあらずっていうか。そういう気配をさせながら、たとえばあたしと喋ってる」
ハナは、最近、生きている実感が薄らいできていることをサエに言うべきか迷ったが、今回は言わないことにして、『フラッピング・オブ・エンジェル』のコミュニティサイトを見つけて、それが気になってはいるけど、とかわすことにした。察しのいいサエならば、それがほんとうのところを隠しているのがすぐにわかるだろう。しかし、懐の深いサエだから、追い詰めたりしないし、わかっていてもそっとしておいてくれる。
「『フラッピング・オブ・エンジェル』ってなんだったっけ?」
「もう一〇年以上前にあったオンラインRPGだよ。フリーのゲームでね、作者のサイトで遊べたの。なかなか人気があったのよ」
「全然知らない。昔からあんまりネットに時間使わないからね、あたしは。ゲームもあんまりしないし。一〇年以上前っていえば、バンドやってた頃だ。懐かしいな。それでその『フラッピング・オブ・エンジェル』のサイトがどうしたの?」
「これがねえ、荒れてるんだよ、掲示板が。せっかく懐かしくて楽しい気持ちになってたのに、台無しにされたような気分でさあ」
「荒しって無くならないもんだねえ」
サエは荒しをするヤツを思って、呆れたような顔をした。つられてハナもへなへなした疲れたような笑顔になった。
「でもね、ツイッターでたまたまその『フラエ』のサイトの常連さんをみつけて、フォローしあっちゃった。それから、仲のいいフォロワーさん同士になってるんだ、そのひとと。おはようとかおやすみとかまで言い合うくらいだよ?札幌の近くに住んでるっていうし、同じ道産子同士で話も広がるの」
「へえ、そうなんだ。それは珍しい縁だね。『フラッピング・オブ・エンジェル』ですら珍しいのに、住んでるところも近いなんて」
「だからね、『フラエ』のことを考えると元気になれないんだけど、ツイッターでのやりとりは楽しいの。最近はそんな日々かな」
「なんにしても、楽しみがあるならまあいいじゃない。それに比べてあたしときたら、例の彼とうまくいかなくてねえ……」
「誰と?宇宙人と?」
誰が宇宙人じゃ、とサエが低い声で貫録のあるツッコミをする。ハナは口元を押さえながら笑い転げている。そこから話はサエが意中の人へアプローチしている話へ移っていった。
店内の明るすぎないオレンジ色の照明は温かく、その夜遅くまで二人を包み続けた。
5
朝早くからhanaのツイートをみかけた。あんずジャムを塗った食パンにかじりつきながらクニヒロは、「おはよう!」とリプライを送った。ノートパソコンの画面を見つめている。hanaとは日ごとに親密になっていた。
彼女は札幌に住んでいて、クニヒロは札幌中心部まで車で二時間弱の地域に住んでいた。そのため、『フラッピング・オブ・エンジェル』に限らず、ローカルな話題でも絡みやすく、何度もリプライを返し合って話をすることが多くなっていった。
しかし、そんなツイッター上での好状況の進展と反比例するかのように、『フラエ』コミュニティサイトの掲示板の状況はますます悪くなっていった。
荒しも遂に大詰めを迎えたのか、その荒し方としてはレベルの低い、卑猥なネタを用いたアスキーアートによるものが増え、書き込みの頻度も高くなっていた。荒しの主は、勝負は決したのだ、と見極めているかのような攻め方をしていた。
諸君、またやって来たぞ。予想に反してお前等は総じてなかなか賢かったと見える。なにせ、この掲示板から離れていったものが多いからな!それでいい。それでいい。離れた奴らは褒めてやろう。なにが、フラッピング・オブ・エンジェル、天使の羽ばたき、だ。こんなゲーム、ユーザーにとっては本質的にフラッピング・オブ・デビルだろ。なんだよ、あのラミエルって脆弱な性格の野郎は。主人公にヴィジョンをいろいろ見せましたー、アドバイスをしましたー、って幻覚を見せてるだけじゃねえか。あいつの持ってるパワーは、相手の脳に悪さして精神的不調にさせてるだけなんじゃねーの(嘲)嫌なもんだ、あんな子供騙しのゲーム。そんなものにいつまでも浸ってんじゃねーよ。それこそ、精神的不調になってるんだろ、お前等?まあ、それも自己責任だけどな。だけど、そうやって社会の生産性を落としてくれるなよ。お前等は社会のお荷物になるんだから、いっそのこと自己責任として切り捨てられちまえ(嘲)
最新の書き込みはこんなだった。クニヒロのあたまは朝からいっぱいになった。荒しの言う通り、もともと少ない人数の集まりではあったが、『フラエ』コミュニティサイトに集まる人は激減した。アクセスカウンターは日に一〇前後しか動いていない。何故こういう嫌がらせをするのか、みんなの微笑みの出所なのに、とクニヒロは眉根を寄せる彫像のように静かに憤る。
こういう気持ちはもう何度目だろうか。撥ね退けたくても撥ね退けられない浸食。荒しは炎の王子というハンドルネームだった。よく、「燃やし尽くしてやる」という言葉を使う。まったくふざけている、とクニヒロは思った。芸風まで持ちやがって、いい気なものだ。
出勤の時間が迫ってきたため、彼はノートパソコンを閉じ、ダウンを着て外に出た。最近はこの時間帯でもプラス気温の日が続いていて、今朝もそうだった。太陽が昇る時間も早くなってきた。なかなかやってこない億劫がりの北国の春が、やっと、しかし確実に近づいてきているのを実感した。
夕方、仕事から帰ってきてストーブの点火ボタンを押し、続けざまにノートパソコンのスイッチを入れる。それから薬缶に水を注いで火にかけ、マグカップに細粒のコーヒーの素をスプーン二杯、砂糖を一杯いれて薬缶が沸騰するのを待った。
今日はミスのない仕事ぶりだった。残業も無く、清々しい気持ちで帰宅した。
『フラエ』のサイトがあたまをよぎる。こんな気持ちの晴れやかな日などには悪いことは何も起きないものなんだと思いつつも、しかし掲示板の動きが多少知りたくなるのだった。なにかよい進展があったかもしれないというかすかな希望があたまをもたげたためだ。
ストーブの点火より先にノートパソコンの起動完了のほうが早かったが、薬缶がぷんぷん言い出したため、クニヒロはガス台のほうへ立つ。ほどなくしてコーヒーの豊かな香りが部屋中に膨らんだ。
マグカップからコーヒーを啜りながら、まずメールのチェックをすると、ツイッターでお邪魔店長というひとからのリプライがあるという通知が来ていて、目が行った。それは、クニヒロとhana両者に向けてのリプライで、
「はじめまして!お邪魔店長といいます。いやあ、あなたたちのツイートが嬉しくて嬉しくて。見つけたときは、まさか!と思いました。何を隠そう、私は『フラエ』の制作者なんですよ。よかったらこれから仲良くしませんか」
という驚くべき内容だった。
急いてくる気持ちを抑えながら、お邪魔店長のプロフィールを覗く。書かれていたのは、
「居住地は札幌。雇われコンビニ店長。男性。バイトのみんなから何かにつけて、ほら、邪魔ですよ!と怒られ続けるお邪魔店長。何がどういけないのか?どうして邪魔になるのか?気づいた時には名前を変えます。昔、そこそこ人気のオンラインRPGを作ったことがあるのは内緒の話」
という文言だった。そこそこ人気のオンラインRPGを作ったことがある、と公言しているうえに、リプライに『フラエ』の制作者と書いて寄こした。間違いなさそうにも思えた。hanaはどう思っているだろう?hanaのタイムラインを見ても、反応はまだない。
クニヒロはどう返答しようか考えた。ほんとうに『フラエ』の制作者なのか、一〇〇%信じられないからだ。彼のそんな気持ちには、『フラエ』コミュニティサイトが荒されていたことが関係していた。卑怯な炎の王子、もしくは炎の王子の威を借るようなアンチ『フラエ』の輩が、『フラエ』というゲームを大事に思い、その世界観を愛するクニヒロとhanaに一杯食わすつもりじゃないのか、と勘ぐる気持ちが少々あったのだ。
そこで、クニヒロはお邪魔店長へのリプライには、このゲームの最後までを知らないと答えられない質問を書くことにした。
「お邪魔店長さん、はじめまして!ツイートをありがとうございます。制作者の方なんですか?びっくりして信じられないくらいです。
信じられないついでに質問をしていいですか?ミカは最後の試練をくぐりぬけてどうなったでしょう?」
ミカは最終的に人間の世界に生まれ直すことになった。天界の記憶を消されて人間になったのだ。
すぐには返信が来るものとは限らないし、実際それから少しの間ツイッターに繋いだままにしていたのだが動きはない。クニヒロはパソコンの前から離れて夕食を作ることにした。
故郷でもあるこの土地で、わざわざ親元から離れてひとり暮らしをはじめてから二年が経つ。パート労働をしながらでもなんとか暮らしていけるのは、家賃が安いおかげだった。冬場は灯油代がかさむが、少しばかり親からの援助もあった。彼は感謝していた。二十五歳になって自立しきれていなくても、親から厭味や文句を言われたことがない。だからといって、過保護というほどではないと彼は引いた視点で自分を見てそう思っていた。時世が時世だった。過疎地であり高齢化率が五〇%近い限界集落間際の街でもあったのだが、彼はできればこの街を離れたくはなかった。住み慣れた町に居続けたい。食品工場でのパートの仕事に就けたことはそんな彼にとっては幸運以外の何ものでもなかった。正社員への登用もあるという工場だったから、クニヒロはそういう道もあるかな、と薄曇りの月みたいにぼんやり考えてはいた。
夕食は、鮭を焼いて小松菜をお浸しにしたものと煮つけたかぼちゃに椎茸ととろろ昆布の味噌汁だった。出来あいのものを買ってきて食べることをできるだけしないのは、料理するのが好きだったからだ。いろいろとその日のことを振り返って気にしていたことも、料理している間は忘れられる。気分転換になった。好きに勝るものなし。ここでも、彼の性格の脆い部分を補うような好ましい性質があった。
小さなテーブルに料理の入った食器を並べ、テレビでニュースを見ながら食べはじめた。九州のあたりではもう桜が開花しているという。こっちはまだ雪景色なのに、と日本は南北に長い国であることを強く実感する季節だった。
雪に半年近く辺りを閉ざされる地域もあれば、年中自転車で移動できる地域もある。都会もあれば田舎もある。自分の好みに合わせて住む場所を選んで暮らせばいい。しかし、現実には、生まれおちたその土地への愛着があり、反対にその土地への憎悪があり、地縁というものがしがらみになったり排他性になったり影響を及ぼし、なかなか気候の趣味だけでは決められない。
クニヒロは自分の住む町の雪深さには辟易していた。それ以外にも、買い物に不便だったし大きな病院も無いのには苦労したのだが、
朝も夜も町全体が穏やかで静かで、安心して暮らしていられる土地だったことが、彼が住み続けるひとつの大きな要因になっていた。
都会よりも、過ぎていく時間のスピードは遅かったが、その代償として時間の流れ方が重かった。そうやって、スピードが速くて軽い時間が流れる都会の在り様と乖離せずに、田舎であるクニヒロの街と都会は釣り合いをとり、総じて等価な時間の流れになっていた。都会だから若いままだとか、田舎だから早く歳を取るだとかいったことが起きないのはそのためだった。
急かされることなく、田舎らしいゆったりした気持ちで、クニヒロは食事をすべて平らげた。米や鮭といっしょに時間をも咀嚼したかのような満ち足りた食事だった。
一息ついてから食器を洗って風呂に入った。湯上りに、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶で喉を潤す。ドライヤーをかけて、ほほの火照りの収まらぬまま椅子にもたれ、机の上のノートパソコンを再び起動した。
ツイッターにお邪魔店長からのリプライがあって、こう書かれていた。
「そうですね、信じられないかもしれません!コンビニ店長のおっさんがかつての『フラエ』制作者だなんてね。でもね、ほんとうなんですよ。ミカは人間になりました」
そして連投で、
「どうして人間になることを選んだのか?悪魔ほどではなくてもわざわざ汚れた存在になることを希望したのか?そのことについては、実際にあななたちと会ったときにお話したいです」
さらに続けて
「ってね、あなたたちと会ったときに、なんて書いたけど、会いましょうよ。あなたたちのツイートを遡って読んだのだけども、私も道民。札幌に住んでるんですよ。ね?会いましょうよ、そのうち」
と書いていた。
『フラエ』の制作者が札幌にいる、そのことでクニヒロの心臓は高鳴った。
6
やり取りをしていたjamjamさんの本名は青木クニヒロといい、突然あらわれた『フラッピング・オブ・エンジェル』の制作者お邪魔店長の本名は末松ケンゴといった。ツイッターのメッセージ機能を使って名乗り合ったのだ。もちろん、彼女も納田ハナという本名を名乗った。それは自然な成り行きだった。
ケンゴはさすが制作者らしく、『フラエ』の隅から隅までを覚えていたし、加えて裏設定の話までちらりとすることもあり、ハナは喜びの鳥肌を立てながらスマホ画面に見入る夜の時間が長くなった。十数年の時を経てこんなに『フラエ』話に夢中になる日が来るなんて、予想だにしていなかった。
ハナがケンゴにもっとも聞きたかったことは、どうしてラミエルをキャスティングしたのか。そして、ああいう隠者のようなキャラクターにしたのかだった。ケンゴが言うには、天使悪魔事典のような本をパラパラめくってなんとなしに決めただけだし、キャラクターについては現代風の男子をまずイメージしてそこからいじっていったのだということだった。ハナは拍子抜けしてしまった。
「要するに、適当に決めたってこと?笑」
と幻滅へ傾きつつある気持ちのままリプライすると、ケンゴから
「現代風の男子ったっていろいろあるからね。そこはイメージを膨らませてオリジナリティのあるラミエルをクリエイトしました。かなり気を使った部分だよ」
と適当ではないという答えが返ってきて、彼女はぎりぎりのところで夢の世界から転がり落ちずに済んだ。
そこでクニヒロが
「お邪魔店長さん、ぼくらヘビーなファンでもありますから、夢を壊さない程度に相手してくださいw」
と絡んでくれて、ハナはクニヒロにとってもケンゴのリプライには危ういまでもの素っ気なさを感じたのだなとわかった。
なんでもかんでも軽く受け答えして、そこにいっさいの努力の影を見せないという話し方は、たぶんゲームクリエイターという人種の特質で、それがケンゴにもあることを、ハナは忖度した。
そんな折、ケンゴから実際に三人で会ってみないかと持ちかけられた。
やり取りをし始めた当初から、ケンゴは「会ってみようよ」とネット世界の細いつながりを幾分強くしようとしていた。ハナにしてみれば、ネット世界の希薄なつながりこそが肩の凝らない付き合いで気楽だった。やり取りしあう相手にしても、粘着するタイプ、前しか見えないタイプのひとは避けていて、クニヒロもケンゴもそうではなかったから仲良くしていた。でも、リアルで会うとなると、ぎくしゃくしそうで不安だった。自分のつれない性格が際立って表に出て、二人を嫌な気分にさせないかどうかも怖かった。
「考えてみるけど、どうだろうなあ。わたしはあんまり人づきあいの得意な方じゃないんだよね」
とツイートすると、ケンゴは
「いやいや、一度会ってみようというだけなんだし、気張らなくたっていいんですよ。ほら、ツイッター上のやりとりみたくゆるくさ、まったりさ、顔合わせみたいにどうかな。楽しいと思うけど」
とフランクにいこうという方針を伝えてくる。クニヒロも
「ぼくは三人で会いたいな。『フラエ』話を中心にけっこう打ち解けられそうじゃない?」
とケンゴの案に賛同のようだ。
彼女はスマホの前で、うーんと唸ってしまった。とりあえず、明晩まで返事は保留してもらうことにした。
確かに、ケンゴの言う通り、その会合には楽しそうなイメージが浮かんだ。サエとのように気兼ねなく、面倒な駆け引きなどなく話ができそうに思えた。
jamjamさんにお邪魔店長さん……、ハナは彼らとのこれまでのやりとりを思い返すのと、可能性の未来としての彼らとの会合の様子をイメージするのとを交互に繰り返していった。記憶と想像がまざりあい、可能性の未来のイメージが現実感を増していった。そして、未来のイメージに浸透していった現実の記憶からのイメージがついに平衡状態になったとき、つまり、記憶とイメージのやりとりが収束したとき、彼女にとってそれはとくに悪い気のするものではなかったのがわかった。それに一度だけでいいんだし、と割り切れる会合でもあったのが、気持ちを平安にした。
スマホを閉じ、ホットミルクを飲みながらそこまで考える。返事を保留してもらっているし、一晩持ちこした後、気持ちがぶれないようならオーケーをしようと決めた。深夜零時を前に彼女はベッドの中に滑りこみ、すぐに無意識へと吸い込まれるように眠った。
次の日の夜、ハナはこころを決めて、クニヒロとケンゴに
「決心しました。三人で会いましょう」
と短いツイートをした。
彼らは喜んで、お礼のツイートを返してきた。ケンゴは矢継ぎ早に二人の都合を訊ねながら会合の暫定の日付を指定する。以降はケンゴが仕切り、メッセージ機能を使って日取りを調整して決めたのだった。四月中旬の土曜日に決まった。
そこまで決まってから、クニヒロが
「実はぼくって、人見知りで口下手なんですが、よろしくお願いします」
なんて言い出したのを読んで、ハナはその日はケンゴの独壇場になるのかな、とふふふと笑った。
『フラエ』コミュニティサイトは、炎の王子の思惑に負けて、三月の下旬に閉鎖されてしまった。掲示板にはもはや荒しの書き込み以外のものは見当たらない状態だった。完全敗北。
ハナは大事なものがひとつ奪い取られたような喪失感を感じていた。大事にしていた宝石を泥で汚されてその泥を洗い流すことが許されないような虚無感も感じていた。
ハナは、クニヒロやケンゴとは今後もつながり続けることができるけれど、その他の同志とも言える『フラエ』ファンとはもうつながり合えないことを想うと寂しくなった。茫洋としたネット世界で、依る場所を失くしてちりぢりになってしまったのだから。
それでも、サイトが閉鎖されたことによって、あの二人とつながりを保てていることが、不思議と自分は孤独ではないことを、逆にはっきりとさせた。そして、ハナとクニヒロとケンゴは、それぞれがそれぞれの存在を貴重なものとして、よりお互いのパーソナリティを際立たせて意識するようになった。つまり、お互いへの敬意が強くなったのだ。彼らとの縁が、ハナには日ごとに大事に感じられるようになっていった。
それから数週間がたち、まだ肌寒い春の中、その日がやってきた。札幌の大通地下街の喫茶店入り口前での待ち合わせ。午後三時現地集合。
緑色の薄手のダウンを着たハナは早めに街中に繰り出し、地下街の本屋に寄って女性誌や文庫本をぱらぱらと立ち読みし、待ち合わせ時間の間際まで過ごした。
彼女もそうだが、通りすぎる人々はまだ本格的な春の装いではない。この時期でもスプリングコートがまだ少し寒く感じるような今年の気候だった。暖かくなったりまた寒くなったりと、はっきりしない春だった。
待ち合わせの五分前に喫茶店前に着いてみると、そこに二人の男性が立っていた。若いほうの一人はぎこちなげに片方の足を前後に動かしながら下を向き、もう一人の黒ぶち眼鏡で背の低い小太りのほうはブルゾンのポケットに両手を入れ、眼鏡の奥から、空虚さとは無縁なはっきりした視線を通路を挟んだ向かいの洋服屋へ投げかけている。
ハナはすぐに、クニヒロとケンゴだとわかった。ハナが二人に視点を合わせたまま柔らかい表情で近づいていくと、二人もハナだと気付いたようで、嬉しそうながらもちょっと疑問をかかえたような表情で彼女のほうに視線を投げかけ続け、ついに、年輩のほうの男が、
「ハナさんですか?」
と声をかけてきた。
「すぐわかりましたよ。ケンゴさん、クニヒロさん、今日はよろしくお願いします」
とハナは柔らかく微笑えみかけた。
クニヒロはかすれた声で
「よろしくお願いします」
と返したものの、顔をあげたままにしておけない様子で、下を向いたり横を向いたりしていて、緊張しているんだなとハナは見てとった。
「じゃ、中に入ろうか」
とケンゴが目じりにしわを寄せたやさしい表情で言う。彼女は後をついていった。
奥のテーブル席につくと、ハナはケンゴと、クニヒロが車で二時間近くかけて札幌まできたことをねぎらい、最近の寒い春の天候についてなどの雑談を交わし、コーヒーが運ばれてきてから改めて名乗る程度の自己紹介をした。
ハナの目には、ケンゴは自信に満ち溢れているやり手の男に見えた。眼鏡の奥に見える眼には理知的な印象を受けたし、話しぶりも落ち着いていながらも抑揚に富み表情豊かなもので、すぐに好感を持った。ただ、自分のことを〝ぼく〟でも、〝おれ〟でも、ツイッターでのように〝私〟でもなく〝わし〟というのには違和感を感じた。
〝わし〟という歳でもないだろうと思って、ハナは
「ケンゴさんって、失礼ですがおいくつなんですか。〝わし〟って
ご自分のことを言うから気になって」
と訊くと
「四十一歳。厄年です。いやんなるね、『フラエ』のサイトが荒されるのも厄年と関係あるのかなあ。〝わし〟っていうのもね、もう十年くらいは言ってるんだよ。最初はふざけてたはずなんだけど、癖になっちゃってね」
とやっぱり見た目と同じくらいの歳かと納得したし、〝わし〟についても妙ではあったが、変な理由でも無くて安心した。
クニヒロのほうを見ると、彼は最初と同じように伏し目がちにしていて、なかなか会話に口を挟めてこない。幾分、頬が紅潮しても見えた。もしかしてコミュ障なのかな、とハナは思った。ケンゴはそんなクニヒロの緊張した様子を早くから気遣うように、ねえ、だとか、なあ、だとか話しかけて会話に誘っていた。
しばらくツイッターでのやり取りをなぞるような話が続いたが、ケンゴのほうから
「じゃ、そろそろ『フラエ』についての込み入った質問を受け付けるよ。でもわしにわかるかなあ」
と最後はおどけたことを言いつつも自信に溢れた顔をして、この会合の一番の意義ある話題へと持っていってくれた。ハナはツイッター上では答えてもらえなかった質問をいくつか覚えていて、まず
「どうして『フラエ』を作ろうと思ったんですか?」
という質問をした。
ケンゴの理性的な眼に、情熱の炎がほのかに宿ったように見えた。