Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『微笑みのプレリュード』最終話

2016-09-28 07:00:00 | 自作小説4
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「……なるほど、そうだったんですか」
とハナが言うのを聴きながら、クニヒロも、そうだったのかとこころの裡で呟いた。
 『フラエ』には、現実社会の世知辛さ、辛辣さなどへのカウンターという意味を込めたという。世間のこすっ辛さに対して、このRPGの世界があるというようにしたかったらしい。また、制作した二〇〇二年から二〇〇三年にかけての時期からも窺えるように、二〇〇一年の9・11テロとそこから続くアメリカによるアフガン攻撃や、イラク戦争にも影響を受けているという。イスラム原理主義とキリスト原理主義の間の戦いから感じられる善とは何か、悪とは何かというテーマ。それについても考えつつ作ったのだが、ちゃんと昇華できたかはわからない、いや、全体を通しても丸ごとちゃんと昇華できたのかもわからないかなといって、ケンゴはあたまを掻いた。しかし、
「つたないながらも、ひとのこころと密接につながるような内容にはなったと自負しているよ」
と穏やかに言った。そして
「だって、ハナさんやクニヒロくんみたいにこのゲームを今でも好きだって言ってくれる人たちがいるんだから」
と続けた。
 クニヒロは、ケンゴが『フラエ』というゲームを作り世の中に放ったことは、殺戮や破壊などを行わない手段での社会への温かなテロと言えるかもしれない、と思った。少なくとも、クニヒロとハナはその放たれた温かさに包まれて、今日まで生きてきたのだった。うまくいくかどうかもわからずに一心不乱にケンゴが『フラエ』を作っていた姿をクニヒロは想像すると、その格好良さにしびれる思いがした。
 ケンゴが
「でも、金銭的なリターンがまったくなかったからなあ。貧乏ひま無しでくたびれ儲けだったよ」
と笑ったのをうけて、クニヒロの表情も少しやわらいだ。ハナも興味深くケンゴの話に耳を傾けている様子で、話に引き込まれている証拠のように、そこですぐさま笑顔を見せた。
 クニヒロはハナを最初にみたときにはその美しさに動揺したのだったが、今この笑顔をみたとき、ハナに儚い感じを覚えた。儚く、色がなくて、そのまま透きとおって消えてしまいそうな気配すらした。そんなハナという存在をきちんと現実のほうへ手繰り寄せないといけないのではないかという使命感に近いようなものを、このときクニヒロは抱いたのだった。
 ケンゴへの質問が続いていく。クニヒロに
「いい?」
と了解をもらったうえで、ハナがさらに質問をした。
「ミカに与えられた四つの試練には何か隠された意味はあるんですか?」
「一つ目が聖なる泉で身を浄める試練。二つ目が廃墟の教会の闇の中で悪魔の誘いに屈しないで跳ね返す試練。三つ目が神学を学んで、法王の試験を合格する試練。四つ目が強欲な人間を一人改心させる試練だったね、知っての通りだと思うけど。ここで善とされるものと悪とされるものとが交互に出現してるのがわかるでしょ。わしはさ、そうやって、ミカに善と悪を往復させて、プレイヤーともども学ばせるというか、経験させるというかそういうスタイルにしたんだよ。そうやって最後の試練をクリアした後、ミカが出す答えにつなげたんだよね」
「……最後にミカは人間になった」
とクニヒロはようやく小さな声を出した。
「そう、そこなんだよ。人間なんて善と悪のこんがらかった存在でしょ。性善説とか性悪説とかあるけどね、わしは性善とか性悪も峻別できないのが人間という生きものだと思ってる。業が深いといえば深いし、反対に素晴らしいこともする。善と悪を往復しながらバランスをとって生きざるを得ないのが人間で、その原因って人間が高い知性をもって社会をつくる生きものだというところにあると思ってる。たとえば人間がトラのように単独で狩りをして生きていく存在で知性もそんなに高くなければ、生きるための善だけで生きていくように思うんだよ。悪って概念はね、やっぱり知性が関係しているし、他者の存在があってその利害のために生まれると思うんだ。自分の利益を考えるだけなら悪じゃないけれど、そこで他者に損害が与えられてそれを知性が悪だと判断して悪になるわけだよね」
 さらにケンゴは続ける。
「社会の中で自分をよくしたいという欲望や欲求の通りに行動して社会に働きかけたとき、そのおかげでどこかの誰かが泣いているわけだ。つまり、そこに悪という概念が生じる。そりゃ、しょうもない悪もあるけどね。利己的すぎる悪なんてものもある。殺人だとか盗みだとかそうだろうね。だけど、さっきも言ったように、人間の知性が低くて社会という群れもなければ、それぞれの個体のふるまいは生きるための善なんだよ。野生には人間からみれば残酷な行いもある。でも、そうは見えても実のところ野生に悪はないんだ。損害を受けた個体も損害を受けただけで、そこには善悪というよりか勝ち負けしかないかもしれない。生きるための善なんだ、シンプルに。知性の低い野生動物的なモラルってあるでしょ、余計な殺生はしない、というような。知性は生物の欲望を拡大してしまうんだ。そこで公平さっていうものが求められることになるけれど、公平さが隅々までいきわたる世界なんて絵空事だとわしは思うんだよね。話は戻るけれど、ミカが人間になったのは、天上界という世界をフラットな目でみれば、低い知性の野生動物的で牧歌的な世界だと気づいたからなんだよ。そりゃあ、人間を裁く地位にはあるけれど、善の一点張りにはあまり高い知性は感じられない。それでミカは高い知性の可能性を慮って、そしてそこに賭けて善と悪の混じり合った乱雑な人間界に生まれ直したんだよ。それがほんとうなんだと考えて」
とケンゴが一気に話したのを聴いたとき、ハナが
「……それだけのことを二十代のときに考えていたんですか?」
とややかしこまった眼差しをケンゴに向けた。ケンゴは
「いやいや、制作時はもっとぼやっとしたイメージだけで、言葉になんかあんまりなってなかったです」
と言葉の上では控えたようだが、その顔はまさにドヤ顔と呼ばれるものだったのをクニヒロは真正面から見てこころの中で苦笑いしていた。
 ハナがそんなケンゴに再び
「でも、『フラエ』は難しい感じのゲームではなくて、温かいRPGでしたよ。随所にキュンとくるようなセリフだとかシーンだとかありましたし」
と簡単な感想を述べると
「制作者のくせにイメージで言うんだけどね、『フラエ』は世間の世知辛さってものを自覚してなおかつ包み込んでしまいながら生きていこうっていうのがテーマなんだと思う。良い所や悪い所の片方ばかりを見ずにどっちも認めて自覚して、それでも前を向いて生きていこうっていうテーマかなあ。だからとげとげしくはならなかった」
とケンゴがアゴを手でさすりながら言った。
 それを聴いて、クニヒロには、だからこのゲームが今になっても大事な思い出になってるんだなとわかった気がした。そのとき
「……だから、私、生きていけてるんだな」
とハナがぼそっと言うのがクニヒロに聴こえた。ケンゴもそれを聴き逃さずに
「生きてると辛いことはたくさんあるけれど、楽しめるものと生きる上での芯みたいなものがあればなんとかなったりするよね」
と目じりに皺を寄せた優しい表情でハナを見つめたのをクニヒロは眺めつつ、自分も何かを言いたかったのだが、適当な言葉が出てこないため、黙っていた。
 ハナが静かに告白を始める。
「わたし、二年くらい前に交通事故に遭って、あと少しタイミングがずれていたら死んでいたかもしれなくて。それで、その日以来、なんだか生きている実感が希薄で、なんで生きているんだろうって考えちゃうんです。他人からみて影が薄く映りもするようだし、ほんとはそのことにだって反発したいんだけど、湧いてくるエネルギーがないの。昼間でも、夢見心地のようにふわっとした気持ちで過ごしている時が多いんです。このままじゃ、時間の流れに流されるまま、ずっと生きていっちゃうって思ってました。自分で時間の流れを漕いでいく、泳いでいくっていうやり方をあの時失くしてしまったんじゃないかなって思ってました。そして、そんな、失くしたやり方を無意識に探そうとしていたんだと思うの。だからふわっとしちゃって。……なんて重たい話だけれど、それでもなんとか生きていけてるのはきっと『フラエ』の世界を経験したおかげだって、今わかった気がします。なぜなら、あのゲームも喪失と再生がテーマだから。ケンゴさんが今おっしゃったような人間の世界の善と悪の入り混じった在り様を、正面から見つめることができなくて逃げていたのがわたしなんです。でも、そんなわたしでも『フラエ』のことはずっとこころのどこかに残っていました。わたしはわたしが自分の重みを持って生きていくためのよすがとしてのものが『フラエ』なんだということを感覚的にわかっていたのかもしれない。……今日、お話できてほんとによかったです。『フラエ』にその答えがあるように思うんです」
 そして、その瞬間、三人はお互いを見やりながら、温かな微笑みを浮かべた。『フラッピング・オブ・エンジェル』の世界を知る者にとっては、その世界を思い出すことが微笑みにつながる。いわば、『フラッピング・オブ・エンジェル』を想起することは、微笑みのプレリュード(前触れ)だった。
「嬉しいです」
とケンゴが真っすぐな視線でハナを見ている。
 そしてハナの告白につられるように、思いもかけずクニヒロは二人に向けてとつとつと語り出した。
「ぼくの話をしていいですか。……おわかりかと思いますが、ぼくは緊張しいで人見知りで口下手です。子どもの頃はもっと喋れたんですが、中学生くらいからこうなんです……。何故だろうといつも考えてたんですが……。でも、お二人の前なら、いつもより喋れるような気がしています。……『フラエ』が橋渡ししてくれるから話しやすいっていうか」
すると、ハナが
「『フラエ』のことを好きなひと同士って、なにかを共有できているんだと思う。だからわたしも話せたし。クニヒロくんも気にしないで話してくれれば、わたしはちゃんと聞くよ」
と言った。
 それを受けて、クニヒロは
「……ハナさん、ありがとうございます。話すのが苦手なのは、緊張する自分が自分からみてもバカみたいに見えるっていうのがあるのかもしれないです。自分でもバカに見えるんだから、他人にはなおさらバカに見えるなあって感じている部分があって、それで話をしたくないのかもしれない」
 そこでケンゴが
「そこまで自己分析できてるのなら、話は早いよ。クニヒロくんは、小さい頃、クラスの発表かなにかで緊張して話す友だちを見ていて、バカにしてたフシはないかい?わしには、クニヒロくんがかつての自分のように他人が内心自分をバカにして笑うのではないかと気になってしゃべれなくなったように思えるんだけどなあ。厳しく言えば、そういうところはクニヒロくんの落ち度であり、若気の至りなんだけどさ。でも、世の中バカにする人ばかりではないから。そうじゃない人との付き合いを深めていくことで、話すことにもなれていくんじゃないのかな。わしは気にしないよ」
と微笑むと、
「わたしも」
とハナも微笑む。
 そんな二人をみて、照れながらクニヒロも小さく微笑んだ。そうかもしれないな、とクニヒロは思った。
 さらにケンゴは
「自分を開いて相手にみせる。それって大事だと思うんだよね。自分を表現できなかったり、隠していることが多かったりすると、ひとって息苦しくなるじゃない?自分のことをひとに話すって精神衛生上いいことだと思うし、他人にしたって、正確に相手のことがわかるほうが、困ったときの助けになってあげやすい。最初は勇気がいるだろうけれど、自分を開いていこう」
とクニヒロを励ましてくれたのだった。
 アドバイスをくれたり、『フラエ』という言うなればヴィジョンを見せてくれたりしたケンゴは、まるでラミエルのようだとクニヒロは思った。
「ケンゴさんはラミエルのようです」
と率直に伝えると、ハナも
「そうそう、わたしもそう思ってた」
と賛意を示し、ケンゴが
「ラミエルが見せた幻視みたいかな、『フラエ』って。アドバイスもしちゃったりして。そうかそうか、わしがラミエルみたいなもんか」
とそこでまた自信たっぷりな表情を見せたのだった。

 喫茶店を後にして、焼き肉でも食べようということになり、三人は地上へ出てしばらく歩き、焼き肉店ののれんをくぐった。
 掘りごたつの個室に案内してもらい、飲み物や肉が来るまでの短い間になにげなくハナがスマホをいじっていると、彼女はツイッターになんと炎の王子からのリプライが来ていたことに気付いて、
「『フラエ』コミュサイトの閉鎖、おめでとう!しかし、こんなところでまでまだつるんでいるとはけしからんな。燃やし尽くしてやる!覚悟するように」
という内容のそれをクニヒロとケンゴにも見せた。クニヒロは
「なんてしつこい」
と嫌な顔をした。
ハナはブロックしようかどうか迷っている様子だ。
「炎の王子って、寂しい奴かもしれない」
とケンゴが、なによりも自分自身が寂しそうな顔をして小さく独りごちたのを、クニヒロは横で確かに聞いた。
どうしようか、というもやもやした雰囲気が部屋に生まれ、飲み物を手に引き戸を開けた店員の
「お待たせしました!」
という威勢のいい声すらくぐもって聞こえた。

8

 ハナのなかに、モノや場や関係というものは、作るのは大変で壊すのは簡単な尊いものだという意識が生まれた。『フラエ』のファンサイトが荒しによって閉鎖に追い込まれ、その荒しが今度はハナとクニヒロとケンゴの関係にまで触手を伸ばしてきたことに起因していた。
 ケンゴが
「受けて立つことにするかな」
と明るい表情を見せる。
 炎の王子のプロフィールを開いてみると、フォロワー数は4521人で、フォロー数は56人だった。クニヒロが
「随分、支持のある荒しなんですね。どんなツイートをしてきてるんですか?ぼく、ガラケーなんでツイッターを開くのはちょっと面倒なんです」
と恥ずかしそうな顔をする。
 ハナは炎の王子のTLを開いて二人に見せた。
「サービス残業に文句を言う輩は自分が能力不足であることを承知していない。能力があれば残業になどならないはずだ。それを残業にまで引き延ばして超過の賃金をもらおうなんて、図々しいったらありゃしないな!」
「ニートなんて豚は、抹殺されてそれこそ家畜のエサにでもなるべき。他人より劣等感を多く抱えた存在だと?劣等感という名のぬいぐるみを抱いてスヤスヤおねんねしてるんだろ!抹殺しかないな!」
「我々はアジア唯一の王者にならなければならない。くだらん娯楽にうつつをぬかしている暇があるなら、そんなことに時間を使わず働くことだ!じゃないと社会から締め出すぞ、コラ」
などなど気の滅入るツイートが続き、「ハタ迷惑」「足を引っ張るな」などの言葉が多く目につく。そして、あの「燃やし尽くしてやる」のセリフもまた見られた。フォロワー数が多いのは、支持者がいるのかもしれないし、おもしろがられているだけなのかもしれない。ハナにはよく判断がつかなかった。
 ケンゴが言った。
「たぶん、こいつはネット弁慶なんだと思うよ。ネットによる自己肥大」
 クニヒロが
「……それならぼくもネットでならよくしゃべるし炎の王子に近いのかもしれないな」
と弱々しくつぶやいた。
 そこをまたケンゴが
「いや、クニヒロ君とは違って炎の王子はダークサイドに堕ちちゃってる。彼はある意味、堕天使だね」
と言った。ハナは
「どうします?ブロックしようと思ってたんだけど、ほんとうに相手にするんですか?」
とあまり乗り気ではない。
「相手のツイートをそのまま表記させる引用ツイートで返信してみよう。わしが思うに、炎の王子のツイートは一般的なひとたちの目には耐えられないような、そんなに力のあるツイートじゃないよ」
とのケンゴの提案に、でも、とハナは言う。
「わたしのフォロワーさんって60人かそこらだから、影響力はないんじゃないかな……」
「じゃ、ぼくのアカウントから返してみましょうか?絡んだことのないひとばかりだけれど、300人はフォロワーがいるんです」
とクニヒロが勇気を見せる。それを受けてケンゴは、
「三人で彼からのハナさん宛てツイートを引用返信してみよう。わしのフォロワーは500人くらいいるかな。でも、二人ともわかってると思うけど、彼にケンカを売るような返し方をしちゃいけないよ。それじゃ、同じ土俵にあがってしまうことになるからね。ミイラ取りがミイラになってしまうと思う。落ち着いて返そう」
とまとめ、ハナとクニヒロは同意した。
「そら、どんどん肉を焼いて食べよう。わしはもう腹が減りすぎて倒れそーだー…」
とケンゴが上体をふらふらさせておどけた。ハナは笑って
「そうですね、この件はひとまずここまでですね」
と言い、クニヒロにも微笑みかけた。そこでクニヒロが照れの混じったさわやかな微笑みを浮かべたのをハナは見て、はじめて彼に愛おしさを感じたのだった。

 部屋に戻って上着をハンガーにかけて、ハナはすぐさまスマホからツイッターを読み込んだ。あの後、炎の王子からのアクションはなかった。しかし、ケンゴはもう行動を起こしていた。クニヒロのほうはまだ帰路の途中なのはわかっていた。
 ケンゴの炎の王子への引用返信には、
「横から失礼します。私は『フラエ』をつくったお邪魔店長です。あなたはコミュニティサイトを閉鎖に追い込んでおいて、まだ物足りないのですか?なんの恨みがあるのでしょう?」
と書かれていた。きっと彼はケンゴに噛みついてくるだろう、とハナは思った。
 彼女はオーディオスピーカーからアコースティック系のポップスを小さく流れさせ、こころを落ち着かせながら彼への返信を考えた。ほんとうなら強い口調で文句を言ってやりたいのだけれど、そんなのただのネット上のケンカになってしまうし……。
 ハナのこころが西を向き東を向き、上を向き下を向いて、疲れてきたところで、こう悟った。引用返信にこそ意味があるのだから、静かに短く文句を言わせてもらおう、文句は言わないと……。
「わたしたちに関わらないでください。大事な場所を壊して、まだ満足できないんですか?というか、こういうことをして影で喜んでいるあなたはちょっとオカシイと思います」
と書きこんだ。
 するとハナは、これでどうなるだろう、という先が読めない不安に急に襲われて穏やかではない気持ちになってしまった。イヤだ……とツイッターを閉じてスマホをテーブルに置いた。そして、思い返したのはクニヒロとケンゴに会っていた時間のことだった。
 クニヒロには当初、彼の強い緊張感のため打ち解けるのが難しいかと思っていたが、彼女と彼それぞれの告白ののち、何故かお互いの気持ちは雨の後の虹のような必然性をもって、カラフルな架け橋でつながったように感じられるようになっていた。たまに投げかけられる伏し目がちだったクニヒロからの視線には、何度か強い引力のようなものをハナは感じていた。それもやさしく、あたたかい、包み込んでくれそうな予感のする引力だった。
 そしてそこからハナに生じた感情は、中学三年生のころ好きだった、あのラミエルと重なって見えた男子に感じた嬉しさによく似ていた。そのときの気持ちを思い出しながら、ハナは今までのスタイルである、できるだけ人との付き合いを少なくして、一日の密度のようなものを薄くして生きてきた日々を想った。
「まだ、生きろ」と聴こえた気がしたあの声は、きっと自分の内なる声なのだという気がし始めていた。わたしは、自分の生の力に気付けていないし、気づこうともしていなかった……。そうハナはこころの中でつぶやいた。
 躍動する生を渇望する欲求を多かれ少なかれ人は誰でも持っているものだが、彼女はその欲求に気付けていなかったし、目をそむけていたことにいまやっと気づいたのだった。
 ハナの頬に熱い涙が一筋、流れた。
 きっと正面を向いて生きていく方がいいんだ。きっとわたしは変われる……。
 ソファに座ったハナのこころの熱が、両手でかかえていた格子柄でピンク色のクッションにも移っていく。彼女は力の限り、そのクッションを抱きしめた。ぎゅうっと、ぎゅうっと。それでも、彼女のこころから溢れでるエネルギーは止まらず、どんどんピンク色のクッションに注がれていく。
 ハナのこころは生きるほうへ向かって喜びの叫びをあげていた。

9

 中古の軽自動車を快調に運転し、深夜零時近くにクニヒロは帰宅した。
 ノートパソコンを開いてツイッターをチェックしてみると、すでにハナとケンゴが炎の王子へツイートを返していることがわかり、その中身を慎重に吟味しながら読んだ。一時間五〇分ほどの運転中に、何度となく炎の王子への返信内容を考えていたクニヒロだったから、いざツイートする段になっても、あまり考えずにすらすらと言葉が浮かんできた。
「炎の王子さん、もうやめませんか、他人の楽しみを奪うのは。あなたにもきっと生きる上での楽しみってあるでしょう?まさか荒しをすることが一番の楽しみではないですよね?『フラエ』談議はぼくらのささやかな楽しみなんです。理解してくださいますよう」
 明日も休日であることを確認するかのように思い出して、クニヒロは二人との会合を思い起こしつつ布団に入った。悪くない一日だった。

 ぐっすりと長く心地よく眠った。自然に覚めた眼で時計を見ると午前一〇時少し前だった。熱いシャワーを浴びてから、下着姿でピーチジャムを乗せたパンをかじる。不意に、炎の王子に三人でツイートを返したことを思い出し、どんな反応が起こったかが気になり、確認するために急いでノートパソコンの起動ボタンを押した。
 炎上していた。炎の王子以外の、彼の取り巻きか便乗する者か、とにかくいろいろなひとからの罵倒まがいの返信がクニヒロ宛てに殺到していた。この分だと、ハナやケンゴも同じような目に遭っているだろう。ひどいものだ、とクニヒロは悲しくなった。『フラッピング・オブ・エンジェル』が好きなだけで、どうして多数の知らない人間から叩かれたり、クズ呼ばわりされたりしなければいけないのだろう、そう無常感を感じた。
 ハナとケンゴのTLを開いてみると、各一度だけ、それから炎の王子宛てに反論する引用返信ツイートをしていた。それでも、そんな抵抗を嘲笑うように、炎上は続いていた。クニヒロは彼もまた二人と同様に覚悟して、炎の王子へツイートを引用する返信をした。
「みなさん、このツイートを見てください。こんな誹謗中傷って許されるものでしょうか?ある昔の真っ当なオンラインRPGを好きなだけで、そのファンであるぼくらを叩きつぶそうとしてる」
 さらに、通常のツイートで、
「リツイートしたこの炎の王子というひとは、件のオンラインRPG『フラッピング・オブ・エンジェル』のファンサイトを閉鎖に追い込んでもいます。傲慢なエゴイストが、卑劣な手段で破壊を楽しんでいるんです。どうですか、みなさんどう思いますか?」
とフォロワーに訴えたのだった。その後、すぐには動きがなかった。しかし、ちらほらとクニヒロのツイートがリツイートされる通知が届き始めた。そのうち、同情する返信が届き始め、その返信をリツイートしてクニヒロはさらにフォロワーに訴えかけた。すると、ハナとケンゴもその動きに気付いたようで、クニヒロが最後にした引用返信とツイートの二つをリツイートしたのだった。
 そうして数時間が経過した。
 炎の王子は炎上していた。
「おまえ、やりたい放題なんだってな。人目につかないと思って強気なんだろうけど、そうはいかないぞ」
というツイート、
「おれも『フラエ』やったことあるわ。別におかしなゲームじゃなかったぞ?何に根を持ったんだ?」
というツイート、
「なにいい気になってんだよ、てめえ、カスだな。ちゃんと謝罪しろ」
というツイートなどなどが次々と炎の王子宛てに押し寄せていた。
 逆炎上。
 こうなっては炎の王子のハンドルネーム自体が皮肉なものだ、とクニヒロは喜びと興奮と哀れみの混ざった複雑な感情で、勝負がついたことを理解した。
 その日のうちに、炎の王子のTLは表示されなくなった。きっと、アカウントを削除する手続きを行ったのだ、とクニヒロは判断した。

 クニヒロの住む町は、天使の街ではないし、悪魔の街でもないが、その穏やかさゆえに天上界めいているとも感じられたし、経済が冷え込み町の財政も厳しく、高齢化しても公的なものや私的なもののどちらにしても福祉は手薄く、公共サービスの住民負担度も高く、地獄めいているとも感じられた。それに農業でも製造業でも観光業でも打開策がなかった。
 そんな夕張という街に安住していては、クニヒロは天使もどきで悪魔もどきなんじゃないか、人間的な人間としての生活をできていないのではないかと考え始めた。
 ようやく暖かな季節が到来し、乾いた心地よい風に頬を撫でられながら、クニヒロは食品工場への道を歩いていく。
 かつてここに住まっていた多くの人たちのように、離れてしまえば楽になるのだろうか。離れてしまうといっても、見捨てたのだなどという慙愧の念に捉われてしまうとすれば、それは違うと思った。エゴという意味ではなくて、人はそれぞれ、自身が幸福になる努力をするのが最優先事項だとクニヒロは考えていた。いろいろな考え方があるだろうが、自己犠牲で全うする人生には疑問を持っていた。たとえそれを誰かが悪だと捉えたとしても。他人をなるべく貶めた目で見ず、できれば関わる人みんなに敬意を持つくらいの気持ちで、それでいて自分を大事に考える生き方が望ましいのではないか、そう自答した。
 ……と、あたまで考える分にはそうなるのだが、その考えはクニヒロの血や肉とはなっておらず、残念ながら砂上の楼閣のような危うさだった。それでも、先日、ケンゴに言われた、自分を開いて生きていくことについては重きを置いて考えていて、ゆるい決意ではあったが、そんな開いた自分に変わろうという気分はずっと続いていた。
 食品工場の入り口近くで、パート仲間の佐々木さんに後ろから声をかけられた。
「おはようございます。今日はナポリタンですかね?ミスらないといいけど」
とクニヒロは慣れない笑顔を精一杯作って返した。その表情を見て、佐々木さんはぐうっと口角をあげたいつもよりも嬉しそうな顔を見せてくれた。
「そうね、たぶんナポリタンじゃないかしら。大丈夫、ミスしても大したことないんだって考えてれば、ミスしないものよぉ」
「そうですよね、大きな声では言えないですが、ほんとにミスしても大したことのない持ち場にいますし」
 佐々木さんはそれを聞いて、
「今日はなかなか言うわねえ」
と笑った。
 そして、そんな佐々木さんの目に映ったクニヒロの笑顔は柔らかくてほんものにしか出ない輝きを放っていた。

10

 ハナはサエと一緒に、またあの居酒屋にいた。あの夜以来、ハナには「まだ、生きろ」という言葉は聞こえなくなっていた。
「……それでね、逆に向こうが炎上してそのままいなくなっちゃった。また現れないとは限らないけれど、とりあえず助かったのよ」
「そっかあ、ハナもなかなか大変な目に遭うもんだわ」
 もずくをちゅるちゅると口の中に流し込みながら、サエがうなずく。そして顔を上げてこんなことを言った。
「それにしてもだよ、ハナさあ、なんか生き生きしてるのね、今日。ちょっと見違えて見えるんだけどなんでだろう。ツイッターの仲間たちと会って、荒しを追い払ったことがやっぱり大きかった?」
「うん。ツイッターの人たちとの話がよかったんだ。なんかね、わたし、生まれ変われるっていう気になってるの」
 ハナの瞳には、いつにない真っすぐな光が宿っていた。
「ええっ?そんな、いい意味でショック!ってくらいの話合いだったの?言っちゃ悪いけど、ハナがそんなに活力を持って見えるのって初めてだよ。興味あるなあ、その会合……」
「じゃ、今度サエもいっしょに行こうよ。わたし、あの二人に紹介するから」
「いいの?あたし、『フラエ』知らないよ?」
 そう嬉しそうに戸惑うサエに、
「平気。ちゃんとあらすじを教えてあげるから。けっこう考えさせられる内容だからこころしてね」
 そう言って、ぐい、とサエは残ったカルピスサワーを飲みほした。積極的に会話をひっぱるサエも珍しかった。続けて、
「実はね、閉鎖しちゃった『フラエ』のサイトが再オープンされるのよ。サエはそこにアクセスすること。そうすれば、いろいろとわかるだろうし、ツイッターの二人との集まりに気楽に参加できて、もっと楽しめるよ」
とサエに勧めてみた。
「あたし、ほんっとゲームってわかんないんだけど、この際、騙されたと思って勉強してみるか」
 サエはいい飲みっぷりでビールを飲みほし、それからハナに飲み物の注文を訊いて、ふたたび自分のビールとともに注文した。間をおかず、今度はサエからハナに話しかける。
「でさ、前にも言った仲良くなりたい彼の話なんだけどね、いいかな?こいつが鈍くて鈍くて……」

 店を出て、楽しげな二人の笑い声が、軽やかに夜空に駆け上っていった。それはまるで天上界へ届けと言わんばかりに。これまでの数週間、ハナにはあっという間でありながら、いつまでも忘れることができないような数週間だった。
 ほんわりとした酔いを感じながらも、強さを増した脈動はしっかりとつなぎとめてくれている。
 また、二人は他愛のない話で笑いの花を咲かせた。二人の笑い声は夜空の奥のほうへまぎれていき、そのまま静けさに溶け込んで、やがて輪郭の残影だけが輝いて優しくハナを照らしたのだった。

【終】



引用:『幸福論』 アラン 村井章子訳 日経BP社
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