Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『微笑みのプレリュード』第一話

2016-09-26 07:00:00 | 自作小説4
微笑みほどすばやく快く効く薬は、どんな名医も持ち合わせていない……『幸福論』アラン

1

 まんじりともしないまま、ピピピピピ……という電子音を聴いてしまった。まただ、とクニヒロはこころの裡でつぶやく。溜め息をついた。気持ちがどんよりと重い。寝不足なまま一日が始まってしまうんだという暗澹たる気持ちのために、布団の中で血の気の引く思いをした。いや、血の気の引く音さえ聴こえた気がした。
意を決して、あたまの上で鳴りつづける目覚まし時計をとめて起き上がり、窓を開けて、まだまだ肌を刺す三月初旬の朝の冴えた空気を部屋の中に取り込みながら、布団をたたんだ。啼く鳥さえいない北海道の晩冬の早朝だ。
 最近、こういう日が多い。眠れない理由はわかっている。まだ子どもだった頃に遊んで好きだったオンラインRPG『フラッピング・オブ・エンジェル』のファンが集まるコミュニティサイトの掲示板に荒しが来るからだ。荒しの形跡が残っていて、その内容が酷いときほど腹立たしくて眠れなくなる。荒しはたいてい『フラエ』の非難や、難癖、中傷を含んだ、いやみったらしい文章で書かれ、書きこみの時間は夕方から深夜にかけての時間帯にかたよっている。たとえば昨夜はこのようなものだった。

諸君また来てやったぞ。さて、繰り返し書くが、『フラッピング・オブ・エンジェル』の様な、プレイヤーを「糞」たらしむるゲームのリリースから一〇年以上も経た現在に於いてもこれを賛美し郷愁に浸るお前等の気が知れない。例えばミカは天上界から地上へと堕とされた後、まず最初の試練で聖なる泉を目指す事になるが、その設定こそ糞だと思わないで有り難がってプレイしたお前等の姿を思い浮かべると涙すら浮かぶ。なんだよ、聖なる泉って。俺は盗泉を連想した。「渇しても盗泉の水は飲まず」って言うが、ミカは聖泉だろうが盗泉だろうが、泉の水を構わず飲んだじゃないか(嘲)。と言ってもお前等のような低能屑には何の事か理解できんだろうから説明してやると、「渇しても盗泉の水は飲まず」とはな、困っても不正に手を出そうとしない事を言うんだよ。聖人はそういう者だ。だが、ミカは困ったら何にでも手を出す奴だよな(嘲)泉の水を盗み飲んだのだぞ(嘲)。全く、このゲームは噴飯物だ!
 だから、勧告してやる。こんな糞ゲーを礼賛している暇があるならば、もっと稼いでもっと消費して経済を回せ。その方がずっと世の為人の為になることが理解できないか?
 掲示板を閉鎖するんだ。もう此処に寄りつく人数も随分減ったじゃないか。此処を燃やし尽くしてやるぞ。そんなシーンを見たくないのなら、此処に来るな此処に来るな此処に来るな此処に来るな此処に来るな!閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ閉鎖しろ、いいな!

 なんだよ、この言い草は、とクニヒロは当たり前だが承服する気になどまったくならなかった。しかし、デタラメで難癖をつける書き込みだと一読してわかるものであっても、流すことができず何か胸につかえてくる。この荒しがコテハンで、堂々としているところも癇にさわった。
 眠れなかったのとイライラしたのとで、静かに活動を始めた火山のマグマみたいに胃がムカムカして、朝食に用意したブルーベリージャムをのせたパンのひとくちでさえ胸やけを起こした。あわてて冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、流し込むことにした。冷たい牛乳が、食道から胃にかけてのもやもやとした感覚を一掃していって、まもなくシャキッとさせる。
 一応落ち着いて、残りのパンを食べ終えた後、クニヒロは座椅子の後方に体重をかけて、座椅子ごとぐらりと体を傾けながら天井を仰いだ。『フラエ』掲示板にどうしたら前のような和気あいあいとした雰囲気が戻ってくるだろうと考えてみるが、何人かの『フラエ』ファンたちによる反論はこれまで効果はなく、それを上回る暴言や屁理屈で言いくるめてくるコテハンのあいつを撃退するような名案は残念ながら浮かんでこなかった。
 クニヒロはしょうがなく、無視するのが一番の良策なのかもしれない、という残りもののような考えに目をつけた。時間はかかるだろうけれど、みんなで無視してあの掲示板から荒しが居なくなるのを待てばいい。あそこのアクセスカウンターの一日の増加量はかなり減った。でも、一度リセットのように静かにして、それから折を見て少しずつ集まり直せばいいんじゃないのかな、という考えだった。ただ、クニヒロがこれまで見てきたネット掲示板などのコミュニティやSNSでのトラブルでは、そういった、踏まれた雑草が自らの力だけで元通りに持ち直すようなサイトの復活の仕方などは見たことがなかった。言うまでもなく、望みの薄い選択肢のひとつだった。このままにしておくとチェックメイトしてしまうという危機感すらある。
 時間になった。『フラエ』コミュニティサイトのことは一旦あたまの隅へ追いやり、一晩中つけっぱなしだったストーブを消し、気が乗らないながらも、パジャマから黒のジャージに着替えて薄いカーキ色のダウンを羽織り、出勤の用意をする。眠れていないため、やっぱり昨日の疲れが抜けきっていないし、なによりも午後になれば重い睡魔に襲われそうな遠い予感がして、目ざましが鳴ったときのようにまたよどんだ気持ちになった。それでも、毎日立ちっぱなしの流れ作業には大分慣れてきていたし、第一、他人とそれほど口をきかなくてもいい仕事なのはクニヒロにとって大きな救いでもあった。
 外に出ると、まるで彼のこころ模様を描き出したかのようなどんよりとした曇り空だった。きっとあとで雪になる天気だった。

 毎日歩いて向かう工場の敷地に入ると、先輩たちが何人か、車から降りて入口に向かっているところだった。おはようございまーす、と掛け合う声があちこちで跳ね返り合って、自分の所にもやってきた。
「おはようございます」
くぐもった声ではにかみながらクニヒロは挨拶をした。
 いつもこんな調子だ。クニヒロは喋ることが得意ではない。WEB上で書き言葉を使ってコミュニケーションをとるのが得意ではあってもだ。その苦手意識は羞恥心を内包していて、でもクニヒロは、自分にはそんな苦手などないのだ、と見せかけたくて、そのことを隠すため、自分は他人に興味などない個人主義者の一匹狼なのです、という姿勢を気取ろうとしたこともあったのだけれど、あまりにほんとうの自分のキャラクターとかけ離れているために、実行せずにやめたことがあった。クニヒロにとって喋ることは間違いなくコンプレックスだった。声を出しても、もごもごした声質の上に、うまく文章にならないような、言いたいことが言葉にならないような、言葉に内容が宿らないようなまとまらない話をしてしまう。たいていそんなときは、相手に察して欲しいという、眉をハの字に寄せた困った表情をして、相手が会話を引き取ってくれるのを待つのだった。
 しかし、この食品工場で働く人たちは淡泊な人が多い。淡泊で、人間関係の希薄な職場なのだ。だから、会話も少なく、クニヒロにとっては比較的、コンプレックスを刺激されずに働ける好条件の職場だった。
「おはよう、青木くん。あらぁ、今日もパンなの?」
とその体に似てまるく、よく通る高い声が聞こえた。
「わたし、パンってすぐお腹が空いちゃうんだけどねえ。ちゃんと夜までもつの?」
昨夜のうちに買っておいた菓子パンの入ったコンビニ袋を下げた彼の後ろから聞こえてきた声の主は、ここのパート仲間のおばさん、佐々木さんだ。
「ぼく、パン好きなんです」
振り向きざまにもぐもぐとクニヒロは応えたが、佐々木さんはいつものように陽気そうな笑顔で、そうなの、好きなんだパン、と彼の隣まで小走りで駆け寄り、
「ほら、ジャージの襟がめくれてるわよ」
とさっとクニヒロの首元に手を伸ばして、ダウンの中から見えたジャージの襟の乱れを直してくれた。
「すいません」
恥ずかしそうに小声で言うクニヒロを、佐々木さんはまるで親戚の子どもでも見るかのように、優しい目で見つめるのだった。
「もう、青木くんったら、いくつになるのさ。まだまだねえ」
と笑う。
「二十五歳なんですけど、こんなもんです」
視線を落したまま答えた。
 佐々木さんは、ここで唯一といってもいい、淡泊さとは真逆の温かいコミュニケーションをする人で、なぜかクニヒロを気に入ってくれている。クニヒロのほうでも佐々木さんに対しては、不思議と悪い気はしていない。むしろ彼女のふるまいには、ありがたい気持ちすら抱いていた。佐々木さんがいなければ、クニヒロはもっと寂しい気持ちで毎日働いていただろう。
 更衣室で作業用の白衣を着て、消毒などをして朝礼に向かった。班長が、みんな集まったのを見計らって、きょうはミートドリアでーす、と告げる声がその姿を確認するよりも先に聞こえた。
 また一日が始まる。しっかりやらないと、という想いのため、掲示板の書き込みのことはもうあたまに無くなっていた。

2

 「まだ、生きろ」
不意にあの時のことがあたまの中に甦ったとき、ハナは誰かにそう言われたように感じた。
 日曜日の朝早くから、図書館へ向かう路面電車の車内。まばらな乗客はそれぞれが独りきりで、それぞれの目的を持って腰かけていた。
あれはまったくの唐突な事故だった。あの時、運よく軽い打撲と挫傷だけですんだことを思い返すたび、もしもブレーキのタイミングがほんの少しでもずれていたら、と今そのときの心臓の脈動が奇跡であるかのように、生き長らえているのが偶然のように感じられて、鼓動が深くなった。
 赤信号を見誤って右から突進してきたトラックの前方部が彼女の座る運転席に激突していた可能性だって十分あった。ほんの少しだけの運命のズレによって、ハナは生きている。
 名のある人にも名のない人にも死の訪れには公平に乱暴さが宿っているのだ、とハナは考えていた。永遠に生きる人間がいない以上、その命の灯りは必ず消える運命で、その、この世からの命の灯りの消され方が乱暴で、まるで掠めとられていくように感じられる場合が多くあるのだ。なにかの間違いのように、その命を掠めとる手からある程度の期間逃れることができて長寿を迎える人もたくさんいるのだけれど、どんどん人間たちは、生を授かっていく中で、まるでなかば事務的にそして計画的に間引きされていくようになっている。それも人間からすると怖いくらいアットランダムに。人の生き死には「天使のゲーム」なのかもしれない、とハナは思った。
 あの世なのだか天上界なのだかなんでもいいのだけれど、天使たちがその場所で人間の運命のバランス取りを懸命に考えて、仕事をしている。人間風情に感知されず、口出しもされず、淡々と仕事をこなす天使たち。
 だから、ハナに聴こえた気がした「まだ、生きろ」という言葉は天使からのメッセージなのかもしれないと思った。まだ死ぬべき時じゃない。
 生きていていいのだ、という安堵と喜びは自分を肯定する感覚を生む。許されている気だってした。だからといって、もろ手を挙げて大笑いするようでは罰があたるような、そこは粛々とした気持ちでいるのがほんとうのような気がした。
 そして、何かの使命を背負ってこの世に生まれたから生かされているのかもしれないという思いもうっすらしていた。だから「まだ、生きろ」と、そう聴こえたのだろうか。その言葉が投げかけられたのだろうか。だとすれば、それは彼女にとっては重荷としか考えられなかった。

 ハナは紺色のコートを羽織り灰色のマフラーを巻き、中には濃い青の地に黒のチェックの入ったシャツを着て、ジーンズを履いていた。足下はブーツだ。
 この時期にしては暖かい日が続いたため、路面電車を降りて歩いた地面は雪や氷から生身をさらけだしている。
コツコツコツと鳴る靴音と振動を心地よく感じながら、吸い込まれるように図書館の玄関をくぐると、途端に靴底の硬さが絨毯の軟らかさに受けとめられて、またそれが合図のように図書館に通有の静寂が彼女を包みこんだ。
 なんとなく気になって借りた二冊の犬の習性や育成の仕方についての本を返却し、昨晩から借りようと考えていた本を求めて宗教関連の棚へ向かう。『ブッダの言葉とその教え』、『ネイティブ・アメリカンの信仰心』、『移り変わる神学』、など彼女の興味をそそる本が目に入るが、今日は悪いけど違うのよ、とひとめ惚れに似た好奇心を振り払いながら背伸びしたり腰を曲げたりして目的の本を探し続ける。
 やっとそれっぽい棚に辿りついた。キリスト教世界の天使についての本が少数だが並べられた一角だった。難しそうな本も多いなか、ハナは比較的読みやすそうで新しそうな一冊を選んだ。それは『天使たちの履歴書』というタイトルだった。図書館に来るまでに「天使のゲーム」などと考えたのも、借りようとしていた本の種類が天使についてのものだったし、きっと借りようとした動機そのものから連想した思いつきだったのだろう。

 アパートの部屋に戻ったハナは、コートをハンガーにかけてすぐ電気ポットから急須に熱い湯を注ぎ煎茶を淹れ、帰りに寄ったコンビニで買ったおにぎりを食べた。お腹を満たして、『天使たちの履歴書』に取りかかる。
 彼女が一番知りたかったのは天使ラミエルのことだったのだが、どうせならこの機会にいろいろな天使についても知っておこうと思い、図書館で読まずに、ゆっくりくつろいで読める自室へと本を招き入れたのである。
 目次を見てみると思っていた以上に、履歴のある天使は多くいるのがわかった。ラミエルが載っているのは現場で確認していたのだけれど、サンダルフォン、ケルビエル、アズラエル、オファニエルらハナにはその多くがはじめてお目にかかる天使ばかりだった。とはいうものの、ラミエル以外に知っていたのは大天使のミカエルくらいという程度の知識だったのだが。その他、仏教世界の阿修羅や弁財天らについてもキリスト教世界の天使と同じくらいの紙幅が割かれて紹介されていた。
挿絵のラミエルは中性的なイケメン青年として描かれていて、ハナはその顔を見て、女を釣って騙すタイプで煩悩の強そうな顔をしているなあ、と思っていたら、人間の女性と姦通したかどによって堕天使となった経歴があることが書かれていた。ずいぶん人間くさく男くさい天使だったのね、と笑ってしまった。
 ハナの脳裡には昔好きだったオンラインRPG『フラッピング・オブ・エンジェル』の主人公ミカが四つの試練をクリアした後に、ラストのところで神との面談を行う前にアドバイザーとしてでてきたラミエルのイメージがあった。あのラミエルは理知的で物静かで穏やかで、まさか人間の女性と性交渉を積極的に持つなんていう野生的なイメージは感じられなかった。良くも悪くも、あのゲームのラミエルの個性はオリジナルだったのだな、と気づく。
 ゲームのラミエルは、口数少なく人目を避けて隠者のように暮らす、天使なのか堕天使なのかわからないような存在だった。何も話さずにいても、ただ寄りそっているだけでほのかな幸せを味わわせてくれそうなタイプのキャラクターで、そういうところが好きだったことを、つい一週間ほど前にみつけた『フラエ』コミュニティサイトで何年かぶりに思い出したのだった。
 飲食店関係のことを検索していてなぜかこのサイトを見つけたときには、懐かしさで肩に力が入りスマホの画面ににじりよるようにして眼を近づけてしまったほどだ。そうやって長い時間、食い入るようにサイトのいろいろなコーナーにアクセスし、味わうように掲示板のコメントを読んだ。そのため、次の日には酷い肩凝りが原因の頭痛がして職場でひとり苦しんだくらいだ。
 現実にも、中学三年生の頃に気になっていたクラスメートの男子がいて、彼はわあわあ言ってふざけあっている連中を横目で眺めて、ひとり物静かに微笑んでいる、ゲームのラミエルに近いような人で、一度同じ班になったときに、もちろんわざとなのだけれど、消しゴムを貸してもらったり、数学の問題の解き方を教えてもらったりし、距離を縮める努力をした。
 中学三年生の時期は、奇しくもその彼とラミエルが共存していた時期だった。『フラエ』はその頃のゲームである。
 声をかけて一瞬目が合うと、ハナは胸の奥がキュンとし、あっという間に頬に血の気が差してきて、それを隠すためにすぐ顔を伏せたり前の席から振り向いていた姿勢を直したりした。付き合って欲しいとまでは思わなかったのだけれど、一緒にいるとすごく嬉しくて華やかな気持ちになるのだから、きっとこれは恋なんだ、と自認していた。
 彼とはそんな一年間だけ同じ教室で過ごし、それからは進路が別々になって、高校以後の消息はよくわからない。ハナは中学の同窓会には出たことがなく、それというのも、きっとあれもイジメだったのだが、女子を仕切っていたグループの子たちが、ハナに対して無視を決めこんだり、休み時間にトイレに行っている隙に机の中の教科書を隠したり、制服に陰毛がついていたとかいう噂をたてて笑いものにしたことがあったからだ。
 そんなグループの彼女らが、同窓会の案内の電話やはがきを寄こす。猫なで声で、懐かしいね、なんて言われたって、すました字で、元気かな?なんて書かれたって、行く気になんてなれなかった。
 とりあえず、キリスト教世界の天使の章だけ読み終えて一息つく。加湿器に水を足して、ビタミンC入りののど飴を口の中に放り込んだ。レモンの甘酸っぱさがおいしい。
 ハナはスマホからツイッターを開く。そしてなんとなしに「フラエ ラミエル」と検索をかけてみた。はたして今時、十三年も前のオンラインゲームについてツイートしているヤツなんているかな…………いた。
 そのツイートは
「なんでフラエのサイト荒れてるんだろう?なんにでも難癖つけている荒らしがいるけどさ、ああいう輩にこそラミエルなんかにばしっと説教して欲しいよねw っつーか、今頃フラエの話しているぼくってレアな存在かも!」
という十四時間前のものだった。ぱぱぱっと画面をタッチして、彼女はリプライを送った。

3

 新しい歯ブラシの歯磨き達成度はやっぱり高い。くたくたの歯ブラシよりもしっかり磨けているのがはっきりわかる。とくに右下の奥歯の裏側の箇所が、ブラッシングによってエナメル質のつるつるした感じをちゃんと取り戻すのが嬉しい。
 クニヒロは大いに満足して歯磨きを終えた。前の歯ブラシは半年も使ったため、ブラシの毛が放射状に広がってしまっていた。こんな、ブラシの花が咲いたような状態だと、磨くのに余分な力が入ってしまうわりに磨き残しが多くなる。
 彼は今度から歯ブラシを取りかえるのは一月に一遍にしようと気分よく決めたが、一月後にこの決意を覚えている保証などはない。きっと忘れるんだよなあ、という気がしていた。
 キッチン兼用の洗面所からわずか四歩ほどで居間に戻る。彼のアパートの部屋は十畳一間だ。寝転がって、今日の勤務中にしたミスについて思いを巡らし、歯ブラシの件から気分は一転した。
 今日は、寝不足だったためか、原材料や製造者などが印刷されたシールをカップに貼る作業中、全部で四回、カップを床に転がしてしまった。落としたカップは使用できない。シールには製造番号が振ってあって、製造量とぴったり合うように印刷されてあるため、シールだけはきれいに剥がして消毒して、新しいカップに貼り直すことになる。
 それだけのことではあるのだけれど、カッコーン、という人目を引く落下音を響かせて注目を四回も集めたことは、クニヒロにとっては気持ちも体も縮みあがるような思いだった。
 気にしない人は気にしない。パート仲間のおばさんの佐々木さんならば、ミスはミスだがどうってことはない、と捉えただろうか。きっと、そうだろう。帰りしなに、佐々木さんは
「お疲れさま、また明日ね」
といつもと変わらぬ笑顔と言動で彼に接して退勤していった。
 クニヒロは、自分は何かあればすぐ気にする性質で、自らを強く責めてしまうんだよなと、天井を仰ぎながらその性格を憂いた。もっと精神的にタフになりたい。できれば人と自由に気兼ねなく話だってしたい。話をすれば晴れるものもあるだろう。抱え込んでしまって押し潰されそうになるのも彼の特徴のひとつだ。この性格、直んねえかなあ、と彼は悶々としてくるのだった。
 夢の中では、すらすらと他人と話すことができた。現実だと恥ずかしくて苦手なはずの、とびきりの美人や美少女が相手でも談笑することができた。もともと小学生の五年生くらいまではよくしゃべる子どもだったのだ。ポテンシャルとしては人と話をする能力はあった、話す能力そのものが欠落しているわけではない、ただ何かが足を引っ張って障害となっている、そう自分で分析しているのだが、その何かがわからなかったし、わかったところで処方箋が見つかるものとも限らないと思っていた。
 カタコトで喋って意味を拾ってもらうような他力本願の会話になりがちだから、周囲に気を使わせるし、そのために、気を使わせたことを気にして溜めこみ、その結果もっと喋るのが嫌になって、さらに周囲に気を使わせたり、あきれられたりし、また溜めこみ…という負のスパイラル。
 唐突に、あれは面白かったよな、と、いままで落ち込んでいた気持ちが、底を打って反転するように『フラッピング・オブ・エンジェル』の記憶へと飛んで行った。
 天使ミカはとある一時だけの考えで、ある人間を助けて運命を変えてしまったため堕天使となり、また天使の地位に戻るために人間界をさまよう。ミカは自らの短絡的な考えからの間違った行いによる挫折感をもち、その挫折感の内からどうにか這い上がろうとする強い意志を持って、一歩一歩、復位の道を歩いていった。
 襲いかかる誘惑や試練を、プレイヤーはミカと同化する気持ちでともに克服していく。そのテーマがクニヒロをひきつけのめりこませたのはもちろんだが、集中させるくらいの緊張をさせながらプレイヤーの感情をゆさぶり、感覚をゲームの世界と同期させてしまう優れたRPGだったことも、今も愛着を感じる懐かしさとともに『フラエ』を覚えている理由でもある。
 彼は、あのころミカとなってプレイした回想に浸ってうっとりしている。ラスボスにあたる最後の試練の前にラミエルからヴィジョンをみせられ、そこからアドバイスされたことすら、自分のことのように感じたことを覚えていた。それは、未来のミカが天上界で天使に復帰して働く様子のヴィジョンなどだった。
 しかし、ミカは、はたして天使、天上界という存在がほんとうに正しいのかという問いを、ゲームを進めていくうちにプレイヤーとともに強くしていくことになっていった。正しさとは何か、善とは何か、はたまた、神とはなんなのか。そこまで考えさせられながら進み、ゲームは終わっていった。
 ほんとうにそうだ、とクニヒロは我に帰りながら考えた。戦争だって、みんな正しいと思う主義や思想が元になって起こってるじゃないか。正しさと正しさ、善と善のぶつかりあいで、最悪の場合には人が殺されてしまう事態になる。唯一の正しさというものはきっと存在しないのだけれど、人はそういう絶対的なものを探すし、見つけたと錯覚するし、その錯覚したものを信じこんでしまう。そして、多くの人間の持つ正しさや善のイメージは神に集約される。
 きっとミカもそのように考えて、天上の世界に疑問を持ったのだろう、とクニヒロは独り得心した。

『フラエ』のコミュニティサイトにアクセスしようとノートパソコンを立ち上げると、ツイッターで誰かから返信がきていたことを告げるメールが届いていた。すぐさまそちらのほうへとアクセスし確認を急いだ。
 見てみるとhanaという人からの
「いまどき『フラエ』についてツイートしている方がいるなんて、びっくりを通り越して嬉しくなりました。わたしも『フラエ』好きだったんだー。よかったら、これからも絡ませてください!」
というツイートだった。
 わあ、女性だ、とクニヒロはどきりとしながらも、『フラエ』を愛好するひとがツイッターにもいてくれたことに感激していた。いてもたってもいられないのをガマンして、長いことその感激にうち震え続けた。こんなに単純に筋肉がこわばるくらい嬉しいなんて、ちょっと自分はアホなんじゃないかとほんのり笑った。
 そして返信する。
「リプライありがとうでした。フォローもしてくれたんですね!リフォローしました。こちらこそよろしくお願いします。『フラエ』のサイトはご存知ですよね?少人数ながらヘビーユーザーがいますよ。僕もそのひとりかなっ」
 送信ボタンを押して、しばしその余韻に浸った。
 『フラエ』コミュニティサイト上では、そこに集まる何人かとその場で話をするのだが、みんなその場だけの希薄なつながりだったから、SNSにまでつながったためしはなかった。
 メッセージのやりとりならツイッターのほうがやりやすい。さらに言えば、少人数が集まる掲示板は、書いたことを誰かれ構わずに読ませてしまう性格なのに興味によってアクセスが限られるという閉鎖性があるのに対して、ツイッターは基本的にフォロワーのなかでの発信・受信という閉鎖性がありながらも、趣味や興味を共にしない人たちにも届く一般性も強い。したがって、荒しのように下手な罵詈雑言を吐く人は目立つから、炎上したりバカ認定されたりして抑制されやすかった。
 クニヒロのあたまにはもはや昼間の仕事のことはなかった。気にする性質なのに引きずりすぎないのは、好奇心を持ちやすくそれに没頭しやすい性格だからだろう。そういうところで、彼はなんとかバランスがとれている。
 『フラエ』コミュニティサイトの荒しに対しては今朝考えたように無視を決め込んだ。
 あそこの管理人は最近不在なのか、取り締まってもくれない。管理人なら荒しをアクセス禁止にもできるだろう。そうしてくれないかなあ、という淡い期待もしている。でも、頼りにはならないかもしれない。なぜなら、全部を見ていて静観しているかもしれないからだ。管理者の権力を使って、気に入らない人を強硬に排除するという考え方を持たない人かもしれない。そういうタイプの人は、みんなで話しあってうまく解決してみよう、と考えている。ただ、その考えは、感情的にならずに建設的に議論しようという人たちの間にだけ通用するものなのだけれど。また、クニヒロと同じように、無視を決め込んで自然に収まるのを待っていることだって考えられる。あてにはならないかな、と管理人の存在については諦めることにした。

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