読書。
『人生の教科書 [情報編集力をつける国語]』 藤原和博 重松清 橋本治
を読んだ。
コミュニケーション力を育てるためにはどうしたらよいのか。
それは、情報編集力として、
表現力を養うことでコミュ力があがるのだ、
というのが本書の考えでした。
ただそこでは、内気さや恥ずかしがりなどを
考慮された部分はありません。
コミュ力の高低には、
内気さなどの心理的な要素も関係してくると思うのですけども。
そこのところはまず置いておいて、読み始める。
本書は中学生を対象にしていますが、大人も先生も読んで損なしですね。
藤原さんの考えだと、
戦いというものがなくなっていけば、
コミュニケーションはいらなくなっていくとされる。
ゆえに、無視とかハブとか、
社会はどんどん戦わない方向に向かっているから、
そういうディスコミュニケーションによる
仲間外れやいじめの方法がでてくる。
つまり、
戦わず、コミュニケーションせずにいけば、
それは無に帰す方向に進んでいきます。
何も生むことはなく、ゼロを目指す行為です。
へんな言い方になりますが、省エネ型なんです。
でも、戦いというものは、
破壊によって無に帰す要素はあるのだけれど、
戦うことによって建設していく可能性や、
創造していく可能性を含んでいる。
批判というものがよく、
論文などを磨きあげる重要な行為だとされるのも、
戦いによって創造や建設が行われることを意味しています。
理性で監督しながら戦うことが大事なのかもしれない。
感情的になって、批判が非難になったり、
自分の意見や気持ちを押し付けようとしたりすると、
それは理性から外れた、単なる無益な戦いになるでしょう。
本書は序盤から、
文章の書き方にも触れています。
どうやったら魅力的な、ひとを引きつける文章になるか。
そこらにいたっては、
文章指南の本をほとんど読んだことがない僕でしたから、
こんな簡単に効果をあげられる手法や視点があるのか、
と感心しましたし、
今書いている短編の冒頭部分で使ってみたりしました。
自分流でやってきて、ちょっと壁がみえるけど、
どういう壁かもわからないなあというひとは、
もしかすると本書の講座によって乗り越えられるかもしれない。
しかし、あらためて重松さんすげえなと思いましたよ。
例題に小説が使われていて、本人がでてくる講義もあるのですが、
その講座の中で、まだ中年になる前の重松さんが、
いい考察をするしいい問題点をもってくるんですよ。
やっぱりちゃんとした作家はいろいろ悩んだり考えたりして、
頭を使っているなあと思いました。
最後のほうの重松さんが書いた章を読むと、
重松さん自身の業だとかをうっちゃらずにわかっていて、
自身は大したことのない人物だという認識があり、
悪いことやこずるいことをやってきた半生があり、
その魂をいまでも抱えているからこその苦しみが、
一応、作家としての養分にはなっているようだけれど、
人間としてはどうなんだろう、という疑問を自身にたいして抱いている
という感じがしましたね。
まあ、自分自身と向き合わないひとは作家にはなれないんだろう。
向き合ってるだけ、なんとかまともさと糸一本で繋がることができている。
そういった印象を持ちました。
古文のところでは、
橋本治さんが愉快にときほぐした解説をしてくれます。
大和時代の古事記や日本書紀から、鎌倉時代の徒然草くらいまで、
漢字と平仮名や片仮名が混淆した日本語になっていく過程を
見ていくようになっています。
そこで、たとえば、
天才的歌人と言われる柿本人麻呂の歌
<あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む>
の橋本治さんの解説が愉快だった。
彼の妙語訳が
<こんな長い夜をひとりで寝るのかよォ>。
「かも寝む」の「かも」が語句を強める意味で、
「かよォ」となるらしいです。
枕草子の橋本さん訳だと、清少納言はひっきりなしにイライラしています。
これも笑えましたね。
情報編集力、コミュニケーション力、
そういったものを題材にわかりやすく、
いろいろな題材をつぶさにみていく目を育もうとうするなら、
やっぱり、300ページくらいの分量だと
ちょっと足りない気がしました。
それでも、エッセンスは十分にあります。
柔らかな表現力、柔らかな解釈力そして、柔らかなこころ。
それらを養い、生きていくための武器や防具にするための教科書でした。
『人生の教科書 [情報編集力をつける国語]』 藤原和博 重松清 橋本治
を読んだ。
コミュニケーション力を育てるためにはどうしたらよいのか。
それは、情報編集力として、
表現力を養うことでコミュ力があがるのだ、
というのが本書の考えでした。
ただそこでは、内気さや恥ずかしがりなどを
考慮された部分はありません。
コミュ力の高低には、
内気さなどの心理的な要素も関係してくると思うのですけども。
そこのところはまず置いておいて、読み始める。
本書は中学生を対象にしていますが、大人も先生も読んで損なしですね。
藤原さんの考えだと、
戦いというものがなくなっていけば、
コミュニケーションはいらなくなっていくとされる。
ゆえに、無視とかハブとか、
社会はどんどん戦わない方向に向かっているから、
そういうディスコミュニケーションによる
仲間外れやいじめの方法がでてくる。
つまり、
戦わず、コミュニケーションせずにいけば、
それは無に帰す方向に進んでいきます。
何も生むことはなく、ゼロを目指す行為です。
へんな言い方になりますが、省エネ型なんです。
でも、戦いというものは、
破壊によって無に帰す要素はあるのだけれど、
戦うことによって建設していく可能性や、
創造していく可能性を含んでいる。
批判というものがよく、
論文などを磨きあげる重要な行為だとされるのも、
戦いによって創造や建設が行われることを意味しています。
理性で監督しながら戦うことが大事なのかもしれない。
感情的になって、批判が非難になったり、
自分の意見や気持ちを押し付けようとしたりすると、
それは理性から外れた、単なる無益な戦いになるでしょう。
本書は序盤から、
文章の書き方にも触れています。
どうやったら魅力的な、ひとを引きつける文章になるか。
そこらにいたっては、
文章指南の本をほとんど読んだことがない僕でしたから、
こんな簡単に効果をあげられる手法や視点があるのか、
と感心しましたし、
今書いている短編の冒頭部分で使ってみたりしました。
自分流でやってきて、ちょっと壁がみえるけど、
どういう壁かもわからないなあというひとは、
もしかすると本書の講座によって乗り越えられるかもしれない。
しかし、あらためて重松さんすげえなと思いましたよ。
例題に小説が使われていて、本人がでてくる講義もあるのですが、
その講座の中で、まだ中年になる前の重松さんが、
いい考察をするしいい問題点をもってくるんですよ。
やっぱりちゃんとした作家はいろいろ悩んだり考えたりして、
頭を使っているなあと思いました。
最後のほうの重松さんが書いた章を読むと、
重松さん自身の業だとかをうっちゃらずにわかっていて、
自身は大したことのない人物だという認識があり、
悪いことやこずるいことをやってきた半生があり、
その魂をいまでも抱えているからこその苦しみが、
一応、作家としての養分にはなっているようだけれど、
人間としてはどうなんだろう、という疑問を自身にたいして抱いている
という感じがしましたね。
まあ、自分自身と向き合わないひとは作家にはなれないんだろう。
向き合ってるだけ、なんとかまともさと糸一本で繋がることができている。
そういった印象を持ちました。
古文のところでは、
橋本治さんが愉快にときほぐした解説をしてくれます。
大和時代の古事記や日本書紀から、鎌倉時代の徒然草くらいまで、
漢字と平仮名や片仮名が混淆した日本語になっていく過程を
見ていくようになっています。
そこで、たとえば、
天才的歌人と言われる柿本人麻呂の歌
<あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む>
の橋本治さんの解説が愉快だった。
彼の妙語訳が
<こんな長い夜をひとりで寝るのかよォ>。
「かも寝む」の「かも」が語句を強める意味で、
「かよォ」となるらしいです。
枕草子の橋本さん訳だと、清少納言はひっきりなしにイライラしています。
これも笑えましたね。
情報編集力、コミュニケーション力、
そういったものを題材にわかりやすく、
いろいろな題材をつぶさにみていく目を育もうとうするなら、
やっぱり、300ページくらいの分量だと
ちょっと足りない気がしました。
それでも、エッセンスは十分にあります。
柔らかな表現力、柔らかな解釈力そして、柔らかなこころ。
それらを養い、生きていくための武器や防具にするための教科書でした。