Fish On The Boat

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憎まれる意味。

2023-03-06 21:28:04 | 考えの切れ端
自分が誰からも関心を持たれていない状態、つまり無関心にさらされた状態は、人間にとってそうとう危機的なものらしく、無関心にさらされていることを脳が察知すると被害妄想を作り上げるという話があります。そうまでして、無関心から逃れないといけないのです。(これは、イギリス在住のアメリカ人カウンセラーが書いたエッセイにでてきた話です)

この、「無関心にさらされることは人にとってかなりヤバい状況」を踏まえながらなんですが、愛と憎しみは表裏一体なんてよく言われますよね、なぜかというと愛も憎しみもその人に深い関心を持つという点が一緒だからという理解の仕方がひとつあります。

憎まれる人はどうしてそうなるのか。人にどうしても愛され得ないと感じた人が、自分の性格の中での「他者からの憎しみを買いやすいであろう部分」を強調していって、憎まれっ子的な人物になっていく、なぜなら関心を持たれたいから。というのはあるのではないでしょうか。無関心でいられるよりマシ、と。

脳が「無関心にさらされていてとてもヤバい状況」ととらえて被害妄想を作り上げるまでの前段階での予防策が、愛されるか憎まれるかという状況を作ること。それで、おそらく憎まれるほうが素早く達成できる種類のものだから、それを無意識的に選ぶ、なんていう心理があるかもしれない。理屈ではそうだし、誰彼と思い浮かぶところもあります、個人的に。

とにかく、人間って自分に関心をもって欲しいのです。じゃないと病的になってしまうから。承認欲求だって似たようなものだと思います。関心を持ってほしい、という欲求ということですよね。ということは、その承認欲求の程度によっては、それを跳ね除けることって非ケア的であり、いじめや排除であるかもしれない。

そりゃ、なんでもかんでもこっちを見て見て君だとか、肥大した承認欲求だとか、そういうのはこれまで書いたこととは他になんらかの心理的原因があると思います。それはそれで別のケアが要る。そうじゃないならば、お互いに承認し合って、お互いの盲点的危機を浄化させるのが個人としても社会としても健全でしょう。

あいさつしてあいさつを返すだとか、とくに内容の無い会話であっても言葉を交わし合うだとか、考えてみるとこれらは無関心状態の危機を招かないための手段として機能しているものなのではないのかしらん。

というところで、最後に引用を。

「話の内容というのはさして大切なものではないんです。大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」 カポーティ『草の竪琴』(ただ、まあ、『草の竪琴』には「人は、誰かが自分のことを気にかけていると思うと、怯えてしまうものじゃなくて?」というセリフもあるのですが。)
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