Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

父性と母性から始まる思索。

2023-03-21 18:43:13 | 考えの切れ端
大人になれば、父性も母性も自分の中にあるようになる。言うことを聞くなら愛するという条件付きで愛する父性、無条件で愛する母性。どちらも丁度良くそこにあれば、人の成長を促し助けます。

大人になっても母性を求めるなら幼少期に足りなかったのだろうし、父性を求めるならそれも足りなかったりいびつだったりしたのです。母性が足りなくても父性が足りなくても優劣はつけるものではないし、自らの中に母性・父性がちゃんとあってもマウント条件ではありません。必要であればなんとかしたらよいだけなのではないでしょうか。

そこに優越や、優劣の差をつける見方は、社会構造や文化状況の影響で生まれるんだと思います。つまり、「ところ変われば品変わる」の言葉通りのようなもの。普遍的なものじゃないんです。

生活していて、家族にしても外部からにしても、無条件に父性を強いられたりすることがあるのですが、およそそういったときは、思い込みと決めつけが「てこの原理」のように働いていたりするなあと感じます。父性は強くなければいけない、だとか、自分の信じる秩序にたいして保守的になるタイプの人がいる。それはそれで、安定が手に入ったりなど良い面があるでしょう。でも、「ふたつ良いことさてないものよ」で、その反面、偏見や差別といったものは、堅牢な秩序に沿わないことで生まれたりするのではないでしょうか。僕は後者のほうこそ気がかりなタイプなので、受け付けないんです。

受け付けない、といえば、「力」や「暴力」もそう。これまで、過度な「力」や「暴力」はないほうが良いという立場で生きてきました。でも、河合隼雄さんの『コンプレックス』を読むと、コンプレックスの解消には、そういった過度な「力」や「暴力」の範囲内におさまるような力が「爆発」の形を取って必要になるらしいことがわかる。では、「力」を行使しなくてもいいように、そもそもコンプレックスを持たないようにするといい、と考えてみても、コンプレックスをもたない状態はありえない。解消しきれるものでもないだろうし、それ以前にコンプレックスは自我のエネルギーでもあるのでした。また、ちょっとまどろっこしいですけども、コンプレックス解消によってコンプレックスを自我に取り込めると自我が強くなりもします。

考えちゃいますね。過度な「力」や「暴力」なんてものは、自己コントロールの範囲外だからそういった形になるのだけれども、それらを抑えつけたり生じないように心掛けたりすることって、実は理に反するのかもしれない。そう考えると、「力に抗えないというこのことが人間の業の大きな一つということか」だとか、なんだか原罪的なイメージを持ってしまう。

結局、人間って未完成でアンバランスな存在で。でも、思ったよりうまくやるし、優しかったりもするし。そういうものなんでしょうね。権力といった「力」、「暴力」を全否定するのは、偏った完璧主義なのかもしれません。難しいものです。
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