Fish On The Boat

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『いじめを生む教室』

2023-08-05 07:03:29 | 読書。
読書。
『いじめを生む教室』 荻上チキ
を読んだ。

いじめから抜け出すためのいろいろな情報を載せているサイトである「ストップいじめ!ナビ」https://stopijime.org/ の代表理事である荻上チキさん。彼による、いじめのデータと知識及び、そこから考えていって子どもを守るにはどうしていったらよいかまでを示してくれる本。いじめの認識を本書がアップデートしてれます。

いじめは誰もが経験するものだということが、アンケート調査からわかっています。そして、何度もいじめに遭うハイリスクな層の存在があることもはっきりと認知されてきました。くわえて、いじめはエスカレートしていきます。そうなる前に、なんとか止めることが大切になります。

「自殺するくらいなら学校から逃げろ」という言い分が、ネットでもメディアでも見られることがあります。しかし、そうやって逃げた子どもたちをサポートし、受け入れ、学校から逃げたことでその後の生活の不利益にならないような仕組みが整っていないことがあげられている。また、道徳の授業をいじめ抑制のものとしよう、という言説がありますが、モラルを押し付けたり、「いじめをしないようにしましょう」と精神論を押し付けたりする性質のものであれば意味がないと述べられている。道徳の授業をするなら、ハイリスク層のひとつである性的少数者への理解を促すだとか、そういった種類の授業にしないと効果がありません。

いじめはどうして発生するのか。その理由の一つとして、学校や家庭でのストレスの発散として行われる、というものがありました。加害行動によってストレスを発散するのです。学校は細かい規則で生徒を縛ります。そのなかにはブラック校則と呼ばれるくだらないものもあります。生徒たちは、本や漫画の持ち込みが赦されず、休憩時間中も校内あるいは教室内に縛られ続けるなど、ストレスフルな生活を強いられている。これが大人社会であれば、疲れたらちょっと煙草を吸いに行くだとか、コンビニに買い物に行くだとか、リフレッシュを自分で行えますし咎められないのですが、それが子どもたちには許されず、ストレスの発散が加害行動へと流れていってしまう。

そして、加害発散をしたことを咎められても、言い訳をして逃れようとすることが多い。その言い訳のタイプも分類されています。

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人は罪悪感を「中和」しようとする。そのための典型的なテクニックのことを、「中和の技術」と呼びます。中和の技術は5種類に分類されます。分類は以下の通りです。
「責任の回避」
「危害の否定」
「被害者の否定」
「非難者への非難」
「高度の忠誠への訴え」
この5分類のいじめ行為になぞらえてみましょう。「自分がやりだしたんじゃない」(責任の回避)、「これはいいじめではなくふざけていただけだ」(危害の否定)、「この子が生意気だから懲らしめていただけだ」(被害者の否定)、「そんなことを注意される筋合いはないし、そもそもお前は人に注意できる立場か」(非難者への非難)、「クラスのノリを乱すのがいけないんだ」(高度の忠誠への訴え)。いかがでしょう。これらのフレーズは、いじめの場面において非常によく使われる「言い訳」です。<p131-132>
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→もしも被害者に何かしらの要因があったとしても、それを暴力・加害で解消・発散しようとするのが間違いなんです。暴力行為はもうそうだけで悪いのです。反対に言えば、こういった「中和の技術」を用いているなあとわかった時点で、その人にはそういう技術を使わないと気持ち悪く感じる心理が生じているわけで、つまり、意識の奥ではいじめの自覚があるということだと思います。

また、「善・悪」の意識のほかに、「アウト・セーフ」の意識もあることを、本書はつまびらかにしています。これは悪いことなんだけど、今この場ではセーフであるというケースがあります。たとえば、赤信号。渡ってはいけないのですが、「車が来ていない」「急いでいる」「警察がいないから」「みんなの渡っている」などの理由でセーフと判断されてしまいます。この心理が、いじめにつながる、人をいじるふるまいと直結しています。

また、いじめの被害について、こういう文言がありました。

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直接暴言を吐かれた人の作業の処理能力、創造性、報告意欲、他人をサポートする意欲などが下がるのはもちろんのこと、他人が暴言を吐かれるのを目撃しただけの人にも同様のことが起きることがわかっているのです。(p96)
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これは大人のDVでもそうですね。僕にもあふれるほどの経験があるくらいです。


ここからはちょっと余談というか、個人的な感想を含んだ内容になります。

いじめはだんだんエスカレートするといいますが、個人的経験から言えばDVもそう。たぶん同じ方法論で語れる種類のものですよね。子どもたちへのアンケートで、他人を叩いたり自傷したりしたことのある子は日常でのストレス感受性が高く、他人を叩いたりしない子はストレスをあまり感じていない、という結果がありました。前者のタイプはストレスの加害発散と表現されています。予防としては、大人の目によって抑えつける、というのがあるのですが、ストレス緩和つまり環境改善だとか、発散方法をもっと健全なものに代替できるように付き添いながら教育するとかありそうな気がしました。大人のDVの場合だったら、大人の目にあたるのは社会性を濃くすることでしょうね。

性的少数者や生活保護受給者への差別意識が社会にはあって、でも教室にはそれを持ち込まないことが大切だと説かれていました。でも、それはわかるのだけれど、そうやって育った子どもたちはやがて大人になり、差別意識にまみれた社会で暮らさなければいけなくなります。だから、いじめは教室だけの問題ではないし、社会でも正面から取り組まないといけないのだと思うんです。平和を保てた教室の空間よりもよっぽど劣っている社会の空間のほうが、構成員も多いし強靭で無差別的で、それにそれまでの慣性もあって、成人してきたそれまで子ども社会にいたまともな若者たちを飲み込んでしまいがち。これがなかなか社会がよいほうへと変わらない素因のひとつだと思うのです。社会が、若者を社会の色にすぐに染めてしまいます。また、それとは別に、社会に足を踏み入れる前に触れたり眺めたりしてきた社会への準備段階で、若者が抗わずに効率的な適応をしてしまうのも社会が変わらない点ではないでしょうか。

社会勉強と社会にある勉強しなくていい点とが、シームレスなんですよ。だから、仕事やルールを覚えていく段階で悪い色にも染まっていきがちです。線引きが難しいからです。差別意識に話は戻るけれど、これってたぶん無くならなくて、それらに対処する心持ちや姿勢ってものを培う努力はずっと必要なんじゃないかなあと思うのです。そして、その努力が人間性を高めもするので、その苦労、苦しみはほんとうに嫌なものなのだけれども、引き受けないといけないものなんじゃないでしょうか。


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