読書。
『歪な愛の倫理』 小西真理子
を読んだ。
DV(家庭内暴力)の渦中にある当人(当事者・被害者)のさまざまな語りを受け止めることで、第三者がどう彼らへ関わるとよいかを多方面から分析かつ考察し、よりよい選択肢を模索していくような本です。
僕にも経験がありますが、DV被害の相談をすると、もう行政の担当者の言動には「分離」の構えが顔をのぞかせていることに気づいたりします。暴力を振るう父親と、振るわれる母親を一緒の屋根の下では暮らさせることはできない、として行政や支援組織が、父親にはその住所を絶対に教えることのないシェルター住宅に母親を移動させる、というのが「分離」です。
これはこれでパターナリズムと呼ばれもしますが、危害を加えられて命の危険があるのだから助けないといけない、という論理での行動です。実際に暴力で命を落とす、あるいは精神疾患になってしまう、という危険性が存在しますし、また、暴力を振るう者はどうしてもその行為を直すことができない、つまり暴力はどうやってもなくならない、というこれまでの知見からの行動でもあるようです。というように、第一章ではこのような、「通常」だとか「一般的」だとかとされる現在主流の対処について、書かれています。
ただ、物事はストレートにすっきりとは解決されません。すなわち、分離をすることで傷つく人がいますし、シェルターから戻ってしまう人もいる。さらには、加害者をかばいだすことも珍しくありません。それでもなお、行政や支援組織は分離を奨めますし、それがかなわないとき、支援したのに裏切られてしまった、という意味づけがなされて、それ以上、心理的にコミットメントしにくくなったりするようです。
そして、それら行政などの行動を正当化する論理として、前述のような被害者のことを専門家がどう考えるかが最後のほうに書かれているのですが、ここが彼らの行動を支える根本部分の考え方なので、押さえておくべきところでした。それは四つあります。ひとつは、「被害者は加害者の暴力によって無力化しているから」。ふたつめは、「加害者の愛情に固執しているから」。三つめは、「加害者に支配・洗脳されているから」。四つ目が、「加害者に依存しているから」なのでした。これはこれで、言われたら反論しにくい論理ですし、被害者側が悪いのだ、という論理でもあります。割り切ってしまう論理でもあるでしょう。そしてこれらの論理は、現在の日本の一般社会において大きな影響力を持っている、と述べられています。
ですが、第二章以降、そこに著者は挑んでいきます。「生活」、もっというと「人生」や「生」そのものの質感に根差したさまざまな理由があって、分離を拒否させているのではないか。それは読んでいるととても正当な感情や考え方なのですが、第二章のタイトルの最後には「異端」と書かれているように、現在の日本ではスタンダードな見方ではないのでした。
__________
<第三者>は、暴力・虐待などの問題行動のみをクローズアップする傾向にあるが、虐待者はいつも問題含みの行動を取っているわけではなく、被虐待者がそれとは違う扱いを受けている瞬間もある。このような瞬間こそを被虐待者はクローズアップするのである。合理的な説明や、多くの研究や臨床の蓄積は、このような声の脆弱さを説明しようとするけれど、このように語る人びとが生きているのは、どうやら別の物語のようだ。私たちは、既存の価値観で他者を判断するにとどまるのではなく、<当人>が語っている物語そのもののなかに現れてくる真正性を直視する必要があるのだ。(p52-53)
__________
暴力のサイクルモデル、というものがあります。第一相が緊張が高まる時期、第二相が爆発(暴力発現)の時期、第三相が穏やかで優しく明るく接する時期です。被虐待者は暴力を受けているにもかかわらず、この第三相こそが本当の姿だと考えてしまうものだといいます。そこが悲劇的であるのですが、その反面、その第三相の優しさの関係性にこそ被虐待者を生き延びさせるものが隠されているともいえるのでした。引用にあった「真正性」とは、こういうことを言っています。家族分離を拒否する被害者は、排除を嫌っているわけだし、包摂的に対応したいのです。加害者に人間的成長をしてもらって、第三相だけでできたような家族環境を実現したいのかもしれない。また、これは依存性にあたる部分でもあるのですが、依存によって生き延びることができる「自己治療仮説」にあたる部分でもあるのでした。
「自己治療仮説」や「生き延びるためのアディクション」という言葉で本書では多くの例がこのあと語られるのですが、とても考えさせられました。しかしながら、ここでは割愛いたします。また、リンダ・ミルズが提唱した修復的正義(分離ではなく、虐待者と被虐待者との関係を修復していくことで解決に向かおうとする方法)についての章もあります。ここでも、賛同や批判が多くあるようで、この分野での研究やアクションが先を行っているアメリカでもまだまだ模索中といったようでした。
__________
<リンダ・ミルズの引用>
刑事司法システムは、この社会問題に立ち向かうための唯一の方法にはなり得ない。ほとんど無視されているが、けっして否定できない事実として、暴力的な関係性に巻き込まれているほとんどの人びとが関係性を終わらせることを望んでおらず、パートナーが刑務所に入ることをまったく望んでいない。彼女たちはただ、暴力が止んでほしいだけなのである。(p76)
__________
日本では、夫婦間のDVでは分離が選択されますが、児童虐待のケースだと家庭統合の選択がなされるそうです。この引用では、この家庭統合の方法を多くの人々は望んでいると言っていますし、それが統合ひいては修復的正義の必要性と需要があることの理由となっている。
ショッキングな事件を扱っている章もあります。トルーディ事件がそれでした。アメリカの政治学教授だった女性トルーディが、自閉症の18歳の息子に殺された事件。攻撃性がつよい、暴力のあるタイプの自閉症の息子だったのです。事件の後、なぜ息子を施設に入れなかったのかという疑問がでましたが、女性は、施設には虐待が多くあるので息子はすぐに被害者になる、と考えていたようなところもあるようです。
施設もなかなか難しいですよね。一般に、施設に入れたら家族は楽だから、施設に対して疑念を持ちたくない心理が背後で動きがちなものかもしれない、なんて僕は考えるときがあります。もしも虐待が起これば驚いてみせるけれど、内奥では「やっぱりか」と思っているというように。あるいは、とても楽観的、もしくは反対に、確信犯的に施設に入所させる。
ケアの抱え込みによって共倒れとなったとき、過剰なケアによるケアの失敗と捉える向きは強いでしょうが、それはその一面的解釈であり、社会システムが社会的包摂に対して壊れているからだ、という見方があることを無視せず、また軽んじないことが、より住みやすい社会への布石となるのではないかと、このトルーディ事件の章を読みながらそこにいろいろ重ねつつ思ったのでした。
閑話休題。
最終章では2008年に話題となったドラマ『ラスト・フレンズ』を振り返りながら、そこにDVと第三者による対応のありかたを考えていました。ミルの『自由論』などを引きながら、他害について考察している部分もありました。
というところですが、あとはまとめきれなかったところを、付け加えるように書いていきます。
・「生き延びるためのアディクション」の章にあったのですが、自傷する依存症のような人は境界性パーソナリティ障害だったりするようです。そのために「拒絶されるクライアント」となる場面も多いそうです。この障害は人を欺く特徴がありますし、医師などを振り回したり、対応する者が疲弊してしまうので、なかなか大変だそうです。(p156あたり)
・以下が最後の付記であり、引用となります。
__________
親密な関係に生じた暴力問題において、<当人>が相手に愛着を抱いているような場合、<当人>がどのような人であり、その人がどのような状況や気持ちを抱えているのかといった個別具体的な文脈に応じて、その都度かかわっていくしかないという立場を本書はとっている。このような、権利とも義務とも結びつきかねるような自由こそが、この本が問おうとしているものなのである。(p196)
__________
→個別性があるのだから、できればそこを見ていこう、ということですね。類型で見てしまえば、零れ落ちてしまうものの多いのがこの暴力の現場なのだと思います。さまざまな想いがあるものですから、排除や分離といった、暴力で暴力に対処する行為には僕もどっちかといえば反対です。この分野を考えていくことは、細かい知的な仕事になりますし、時間やエネルギーといったコスト面でも大きな負荷がかかるでしょうが、それはたぶん最初のうちだけで、そのうち、もっとこの分野が開拓されていくように解明されていけば、きっとある程度の道筋がつくので、後輩となる現場の者たちはいくらか楽に、各々のケースの核心部分に到達しやすくなるのではないでしょうか。
『歪な愛の倫理』 小西真理子
を読んだ。
DV(家庭内暴力)の渦中にある当人(当事者・被害者)のさまざまな語りを受け止めることで、第三者がどう彼らへ関わるとよいかを多方面から分析かつ考察し、よりよい選択肢を模索していくような本です。
僕にも経験がありますが、DV被害の相談をすると、もう行政の担当者の言動には「分離」の構えが顔をのぞかせていることに気づいたりします。暴力を振るう父親と、振るわれる母親を一緒の屋根の下では暮らさせることはできない、として行政や支援組織が、父親にはその住所を絶対に教えることのないシェルター住宅に母親を移動させる、というのが「分離」です。
これはこれでパターナリズムと呼ばれもしますが、危害を加えられて命の危険があるのだから助けないといけない、という論理での行動です。実際に暴力で命を落とす、あるいは精神疾患になってしまう、という危険性が存在しますし、また、暴力を振るう者はどうしてもその行為を直すことができない、つまり暴力はどうやってもなくならない、というこれまでの知見からの行動でもあるようです。というように、第一章ではこのような、「通常」だとか「一般的」だとかとされる現在主流の対処について、書かれています。
ただ、物事はストレートにすっきりとは解決されません。すなわち、分離をすることで傷つく人がいますし、シェルターから戻ってしまう人もいる。さらには、加害者をかばいだすことも珍しくありません。それでもなお、行政や支援組織は分離を奨めますし、それがかなわないとき、支援したのに裏切られてしまった、という意味づけがなされて、それ以上、心理的にコミットメントしにくくなったりするようです。
そして、それら行政などの行動を正当化する論理として、前述のような被害者のことを専門家がどう考えるかが最後のほうに書かれているのですが、ここが彼らの行動を支える根本部分の考え方なので、押さえておくべきところでした。それは四つあります。ひとつは、「被害者は加害者の暴力によって無力化しているから」。ふたつめは、「加害者の愛情に固執しているから」。三つめは、「加害者に支配・洗脳されているから」。四つ目が、「加害者に依存しているから」なのでした。これはこれで、言われたら反論しにくい論理ですし、被害者側が悪いのだ、という論理でもあります。割り切ってしまう論理でもあるでしょう。そしてこれらの論理は、現在の日本の一般社会において大きな影響力を持っている、と述べられています。
ですが、第二章以降、そこに著者は挑んでいきます。「生活」、もっというと「人生」や「生」そのものの質感に根差したさまざまな理由があって、分離を拒否させているのではないか。それは読んでいるととても正当な感情や考え方なのですが、第二章のタイトルの最後には「異端」と書かれているように、現在の日本ではスタンダードな見方ではないのでした。
__________
<第三者>は、暴力・虐待などの問題行動のみをクローズアップする傾向にあるが、虐待者はいつも問題含みの行動を取っているわけではなく、被虐待者がそれとは違う扱いを受けている瞬間もある。このような瞬間こそを被虐待者はクローズアップするのである。合理的な説明や、多くの研究や臨床の蓄積は、このような声の脆弱さを説明しようとするけれど、このように語る人びとが生きているのは、どうやら別の物語のようだ。私たちは、既存の価値観で他者を判断するにとどまるのではなく、<当人>が語っている物語そのもののなかに現れてくる真正性を直視する必要があるのだ。(p52-53)
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暴力のサイクルモデル、というものがあります。第一相が緊張が高まる時期、第二相が爆発(暴力発現)の時期、第三相が穏やかで優しく明るく接する時期です。被虐待者は暴力を受けているにもかかわらず、この第三相こそが本当の姿だと考えてしまうものだといいます。そこが悲劇的であるのですが、その反面、その第三相の優しさの関係性にこそ被虐待者を生き延びさせるものが隠されているともいえるのでした。引用にあった「真正性」とは、こういうことを言っています。家族分離を拒否する被害者は、排除を嫌っているわけだし、包摂的に対応したいのです。加害者に人間的成長をしてもらって、第三相だけでできたような家族環境を実現したいのかもしれない。また、これは依存性にあたる部分でもあるのですが、依存によって生き延びることができる「自己治療仮説」にあたる部分でもあるのでした。
「自己治療仮説」や「生き延びるためのアディクション」という言葉で本書では多くの例がこのあと語られるのですが、とても考えさせられました。しかしながら、ここでは割愛いたします。また、リンダ・ミルズが提唱した修復的正義(分離ではなく、虐待者と被虐待者との関係を修復していくことで解決に向かおうとする方法)についての章もあります。ここでも、賛同や批判が多くあるようで、この分野での研究やアクションが先を行っているアメリカでもまだまだ模索中といったようでした。
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<リンダ・ミルズの引用>
刑事司法システムは、この社会問題に立ち向かうための唯一の方法にはなり得ない。ほとんど無視されているが、けっして否定できない事実として、暴力的な関係性に巻き込まれているほとんどの人びとが関係性を終わらせることを望んでおらず、パートナーが刑務所に入ることをまったく望んでいない。彼女たちはただ、暴力が止んでほしいだけなのである。(p76)
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日本では、夫婦間のDVでは分離が選択されますが、児童虐待のケースだと家庭統合の選択がなされるそうです。この引用では、この家庭統合の方法を多くの人々は望んでいると言っていますし、それが統合ひいては修復的正義の必要性と需要があることの理由となっている。
ショッキングな事件を扱っている章もあります。トルーディ事件がそれでした。アメリカの政治学教授だった女性トルーディが、自閉症の18歳の息子に殺された事件。攻撃性がつよい、暴力のあるタイプの自閉症の息子だったのです。事件の後、なぜ息子を施設に入れなかったのかという疑問がでましたが、女性は、施設には虐待が多くあるので息子はすぐに被害者になる、と考えていたようなところもあるようです。
施設もなかなか難しいですよね。一般に、施設に入れたら家族は楽だから、施設に対して疑念を持ちたくない心理が背後で動きがちなものかもしれない、なんて僕は考えるときがあります。もしも虐待が起これば驚いてみせるけれど、内奥では「やっぱりか」と思っているというように。あるいは、とても楽観的、もしくは反対に、確信犯的に施設に入所させる。
ケアの抱え込みによって共倒れとなったとき、過剰なケアによるケアの失敗と捉える向きは強いでしょうが、それはその一面的解釈であり、社会システムが社会的包摂に対して壊れているからだ、という見方があることを無視せず、また軽んじないことが、より住みやすい社会への布石となるのではないかと、このトルーディ事件の章を読みながらそこにいろいろ重ねつつ思ったのでした。
閑話休題。
最終章では2008年に話題となったドラマ『ラスト・フレンズ』を振り返りながら、そこにDVと第三者による対応のありかたを考えていました。ミルの『自由論』などを引きながら、他害について考察している部分もありました。
というところですが、あとはまとめきれなかったところを、付け加えるように書いていきます。
・「生き延びるためのアディクション」の章にあったのですが、自傷する依存症のような人は境界性パーソナリティ障害だったりするようです。そのために「拒絶されるクライアント」となる場面も多いそうです。この障害は人を欺く特徴がありますし、医師などを振り回したり、対応する者が疲弊してしまうので、なかなか大変だそうです。(p156あたり)
・以下が最後の付記であり、引用となります。
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親密な関係に生じた暴力問題において、<当人>が相手に愛着を抱いているような場合、<当人>がどのような人であり、その人がどのような状況や気持ちを抱えているのかといった個別具体的な文脈に応じて、その都度かかわっていくしかないという立場を本書はとっている。このような、権利とも義務とも結びつきかねるような自由こそが、この本が問おうとしているものなのである。(p196)
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→個別性があるのだから、できればそこを見ていこう、ということですね。類型で見てしまえば、零れ落ちてしまうものの多いのがこの暴力の現場なのだと思います。さまざまな想いがあるものですから、排除や分離といった、暴力で暴力に対処する行為には僕もどっちかといえば反対です。この分野を考えていくことは、細かい知的な仕事になりますし、時間やエネルギーといったコスト面でも大きな負荷がかかるでしょうが、それはたぶん最初のうちだけで、そのうち、もっとこの分野が開拓されていくように解明されていけば、きっとある程度の道筋がつくので、後輩となる現場の者たちはいくらか楽に、各々のケースの核心部分に到達しやすくなるのではないでしょうか。