Fish On The Boat

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『鍵のない夢を見る』

2023-10-12 23:04:31 | 読書。
読書。
『鍵のない夢を見る』 辻村深月
を読んだ。

人気作家・辻村深月さんの直木賞受賞作品。5つの短編からなる作品です。

まず、初めの「仁志野町の泥棒」。子どもの目線から見える、田舎町での白黒つけない世間が上手に描かれています。本短編において、白黒つけないでいたことが良かったのか悪かったのかは、本当にわからないんです。盗癖の罪を責め、罪を起こさせないための田舎町の人々の行いすら、それがいいのかどうかわからなくなりました。どうにもならない何かがあって、一面的な薄っぺらい正義感でそれに意味づけをしていいのかどうか、疑問が湧いてくるのです。
でも、少なくとも、律子とその家族はその地区で三年間暮らし、引っ越さなかった。他の地区では一年ごとに引っ越していたのに。つまり、包摂されていたのです。排除ではなく。包摂とは、こういった割り切れなさを内包するものなのだな、と本短編から知ることになりました。包摂は、優しさだとか甘い感じだとか親愛の情だとか、そういったものだけでできているわけではなくて、苦味や自制や受容や心の痛みや吐き気や嫌悪感や、ともすればそういったもののほうが多いものなのかもしれない。この作品って、「包摂する」ということがどういうことだと思うか、という問いかけをしているともとれる作品なのではないでしょうか(そしてそのデリケートな面も描かれています)。「包摂とはこういうものだけれども、それでも包摂するだけの度量や力量があなたたちにはあるだろうか?」という問いかけでありながら、包摂していくための想像力のタネでもあると思いました。包摂をする側、される側の両面の立ち位置に、読み手が立てるつくりになっていたのではないでしょうか。

二編目、「石蕗南地区の放火」。文体のトーンは落ち着いているんです。物語を語る主人公の女性の堅い性質がよく出ている。だから本来は笑えないはずなのに、彼女に気を持っている大林という男の描き方のそのブラックユーモアの度合いがえぐすぎてもう、読んでいて可笑しくてお手上げでした。最後のあたりまでくると、そこでなんとなしに明かされる大林の下の名前にすら爆笑です。こんな作品書いちゃうのやばいよなあ。八百屋お七の名前が出てくるあたり、本作品のモチーフにもなっているのだろうけれど、作者のトータルでの技量がすごいんだと思う。とにかく僕は、この短編では、主人公の女性目線を超えて、相手役の男性に注意を持っていかれました。

三編目、「美弥谷団地の逃亡者」。地方の若者の話を見事に書いているなあ、とため息交じりに思いました。人生は上手くいかないし、教養もないしという層です。とくに男、へんに礼儀にうるさかったり出会い系を使っていたり芸能界に上から目線で一家言あったり、なんかよくわかるのです。そしてそこにDV(暴力)の逃れようのない事実があったように、粗暴な傾向がありながら、相田みつを愛好していて、彼女の方もそれを「詩人だ、すごいものだ」と思いもしている。相田みつをが悪いのではないし、愛好するのはいいことだと思うのだけれど、そのポジションはわかっていない、という感じがあります。
これはフィクションなのだけれども、彼らは現実に厳然と存在しているそういう層であって、現実を言語化したもののようにヒリヒリと感じられる。こういう話を読むと、もっとモノを知ろうとしようよ、と思うのだけど、実際に地方のこういった人たちにそう言ってみてもまず届かない。そういう難しさがあることを痛感させられる。自己肯定感が、無いようであるし、あるようで無い、というか。いや、あってほしい部分には無いし、無くていい部分にある、というか。著者はよくぞこういった層の話を言葉にして物語にして提示してれた、と思います。こういったレイヤーにある人ではない著者が、このレイヤー層の目線を得て、書いている。すごいことです。


「芹葉大学の夢と殺人」。主人公は夢を持っているし、彼氏も夢を持っている。その彼氏なんかは甘やかされたような世界から夢を見ているところがあります。これが、小説でなんとかなりたいと考えているような僕には痛い。僕と重なる部分がある。僕にも甘いところがある。でも、この小説で描かれているものに僕は自動的に引き寄せられて、無理に当てはめられて糾弾されているような気がしてくるのでした。それは、思い込みと決めつけであり、無理やり判断され批評や批判をされることと似ていると思います。この小説の彼氏とは違うのに、重なっている部分から独自にわかりやすく類推されたものへと決めつけられ、確定されて、その確定されてできあがった枠組みに当てはめられてしまうみたいなものです。わかりやすく感じられる物語に無理やり収斂させられてしまう。それは僕ではないのだけど、わかりやすく言語化され、イメージ化されてしまっているので、そこに引き寄せられてしまうのです。そういう意味で、創作物にはそういった種類の罪もあるのだな、と知ることになりました。別に、著者や作品が悪いというわけではまったくないです。これはしょうがない範囲の、フィクションのメカニズム。

「君本家の誘拐」。読んでいくと、主人公である母親の神経質さと視野の狭さがよくわかってくる。また、夫の無神経さがその対比になって感じられる。妊娠から出産、赤ん坊の子育てまで、細かい描写が僕には新世界でした。

読んでいると、著者はおそらく、小さいころから世の中にしっかりコミットする、あるいはしっかりコミットする気持ちを忘れることはなく生きてきたんじゃないか、と思えてきました。そして、そうであるがゆえの彼女の観察や洞察からは、誰も逃れられないのだ、と。そう考えるに至った僕も、辻村さんの本作に宿った卓越した才能に、観念しました。

ほんと、藤子不二雄A先生による『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造の決めアクション「ドーン!」みたいなのを実際にやれちゃうくらい、人の内面の深くを見通すことができそうな感じがあります。レアスキルですよね。

主人公の女性たち、彼女たちの思考や言動はいちいちもっともなのだけど、実は相手役の男たちのようにズレた部分が、わかりにくいのだけど、ある。巻末の林真理子さんとの対談でもそこに林さんは触れられていて、「すごくテニクニックがいること」と、辻村さんの力を評価されていました。また林さんは、言葉の優れた的確性についても触れられていて、僕も本書を読んでいて辻村さんの言葉の旨さに舌を巻きましたが、的確性という言葉はまさにぴったりなのでした。

辻村さんの作品は、『サクラ咲く』『朝が来た』に続いて三つ目です。今作によって、作家の幅の広さを痛感しました。そう、幅の広さについては、一人の人としても、かくありたいものですね。


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