10月20日 NHK海外ネットワーク
ワールドカップ初出場を決めた旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ。
ボスニア・ヘルツェゴビナは1990年代前半
イスラム系主体の政府が独立を宣言したことをきっかけにセルビア系クロアチア系をふくめた三つ巴の内戦が起きた。
異なる民族を容赦なく排除する民族浄化の名のもとに3年間で約20万人が犠牲となっている。
ワールドカップ出場が民族対立を乗り越えるきっかけになってほしいという願いが
地元のサッカーチームにも広がっている。
10月15日に行われたサッカーワールドカップのヨーロッパ予選。
ボスニア・ヘルツェゴビナはイスラム系セルビア系クロアチア系の民族混成チームで臨んだ。
ボスニアはリトアニアを1-0で破り初めてのワールドカップ出場を決めた。
首都サラエボでは多くのファンが町に繰り出して初めての快挙に大騒ぎ。
「最高の気分です。
うれしいです。」
「この勝利はボスニアにとって大きな意味がある。」
しかしボスニアでは内戦の傷は今も癒えていない。
東部の町スレブレニツァ。
内戦末期の1995年7月 セルビア人勢力がこの町に侵攻し
兵士であるかどうかを問わずイスラム系の男性約8000人を殺害した。
第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の虐殺と言われている。
この町に1924年にウ発足したサッカーチームのFCグーベルも内戦に翻弄された。
チームの会長でイスラム系のスーリョ・チャカーノビッチさん。
セルビア人勢力が襲撃してきたときチャカーノビッチさんは暗がりの中を6日間逃げまどいかろうじて助かった。
しかし町に残った兄は虐殺された。
今も遺体の一部しか見つかっていない。
墓はなく名前の刻まれた慰霊碑があるだけ。
(FCグーベル チャカーノビッチ会長)
「父親のいない私にとって父親が割りぬなってくれたのが兄。
大切な存在だった。」
内戦前に撮られたFXグーベルのイレブンの写真がある。
所属していた選手25人はそれぞれの民族に兵士として駆り出され内戦で7人が命を落とした。
敵味方に分かれて銃を構えることになった選手たち。
チームは崩壊した。
サッカーを楽しむ若者たちの姿が消えて12年。
住民の間から町の誇りだったチームの復活を望む声が上がり始めた。
スレブレニツァの街の中心部にはキリスト教の教会とイスラム教のモスクが並んでいる。
異なる民族が共存してきた歴史を示す町の象徴である。
内戦後 医師としてイスラム系とセルビア系の住民を分け隔てなく治療してきたチャカーノビッチさん。
チームの政権に協力を求められた。
兄が応援していたFCグーベルを復活させかつての町の姿を取り戻したい。
迷うことなく引き受けた。
(FCグーベル チャカーノビッチ会長)
「ほとんどの市民がFCグーベルが活動を始めることを待ち望んでいた。」
わだかまりを乗り越えるためにチャカーノビッチさんが徹底しているのが
フィールドには民族の違いを持ち込まないというルールである。
クラブ内に十字架など宗教や民族を示すシンボルは一切ない。
さらにそれぞれの民族を尊重し各民族の祝祭日には練習や試合を行わないことにしている。
チャカーノビッチさんの思いは選手にも浸透している。
(イスラム系の選手)
「みんな仲がいいよ。」
(セルビア系の選手)
「クラブでは宗教や民族は関係ない。
私たちは一つの国民です。」
復活を果たしたFCグーベル。
この日の試合ではセルビア系のゴールキーパーがゴールを守りイスラム系の選手がシュートを決め勝利をもぎ取った。
(FCグーベル チャカーノビッチ会長)
「このクラブでは90年間ずっと民族混成でやってきた。
民族が力を合わせてこそ成功といえる。」
チャカーノビッチさんがいま期待している若手選手はセルビア系のブラダン・チェーリック選手(21)。
難民として4才のときにスレブレニツァに逃れてきたチェーリックさんは内戦では多くの親戚を亡くした。
(セルビア系 チェーリック選手)
「私たちは民族の悲劇を決して忘れない。
しかし過ぎ去ったこと。
もう許すべきです。」
内戦後民族を超えて友だちを広げるきっかけを作ってくれたのはサッカーだった。
この夏から14歳以下のチームの監督も泣かされるようになったチェーリックさん。
セルビア系の自分にチームの将来のチームを担う子どもたちを任せてくれた会長の期待にこたえたいと思っている。
(セルビア系 チェーリック選手)
「子どもたちにはイスラム教徒もセルビア人も同じ人間だということを学んでほしい。」
10月15日 ワールドカップに向けたボスニア代表の最後の試合。
FCグーベルの選手や関係者が集まってテレビでしあ散を観戦した。
民族の垣根を越えて戦う代表チームは自分たちとも重なる。
初出場が決まると全員が両手を突き上げて勝利を喜んだ。
(FCグーベル セルビア系 チェーリック選手)
「最高です。
ワールドカップでは自国の代表チームを応援します。」
(FCグーベル イスラム系 チャカーノビッチ会長)
「サッカーがボスニア国民を団結させてほしい。
民族同士が協力する動きがもっと広がってほしい。」
対立を乗り越え力を合わせることで大きなことを成し遂げることが出来る。
ワールドカップをきっかけに国民の気持ちがひとつになることをふたりは願っている。
ワールドカップ出場を決めた試合にはボスニア・ヘルツェゴビナ出身の日本代表オシム元監督も観戦に訪れていた。
母国の勝利が決まると
代表チームの活躍はボスニアの人々を一つにしたと涙を流して喜んでいたということである。
ワールドカップ初出場を決めた旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ。
ボスニア・ヘルツェゴビナは1990年代前半
イスラム系主体の政府が独立を宣言したことをきっかけにセルビア系クロアチア系をふくめた三つ巴の内戦が起きた。
異なる民族を容赦なく排除する民族浄化の名のもとに3年間で約20万人が犠牲となっている。
ワールドカップ出場が民族対立を乗り越えるきっかけになってほしいという願いが
地元のサッカーチームにも広がっている。
10月15日に行われたサッカーワールドカップのヨーロッパ予選。
ボスニア・ヘルツェゴビナはイスラム系セルビア系クロアチア系の民族混成チームで臨んだ。
ボスニアはリトアニアを1-0で破り初めてのワールドカップ出場を決めた。
首都サラエボでは多くのファンが町に繰り出して初めての快挙に大騒ぎ。
「最高の気分です。
うれしいです。」
「この勝利はボスニアにとって大きな意味がある。」
しかしボスニアでは内戦の傷は今も癒えていない。
東部の町スレブレニツァ。
内戦末期の1995年7月 セルビア人勢力がこの町に侵攻し
兵士であるかどうかを問わずイスラム系の男性約8000人を殺害した。
第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の虐殺と言われている。
この町に1924年にウ発足したサッカーチームのFCグーベルも内戦に翻弄された。
チームの会長でイスラム系のスーリョ・チャカーノビッチさん。
セルビア人勢力が襲撃してきたときチャカーノビッチさんは暗がりの中を6日間逃げまどいかろうじて助かった。
しかし町に残った兄は虐殺された。
今も遺体の一部しか見つかっていない。
墓はなく名前の刻まれた慰霊碑があるだけ。
(FCグーベル チャカーノビッチ会長)
「父親のいない私にとって父親が割りぬなってくれたのが兄。
大切な存在だった。」
内戦前に撮られたFXグーベルのイレブンの写真がある。
所属していた選手25人はそれぞれの民族に兵士として駆り出され内戦で7人が命を落とした。
敵味方に分かれて銃を構えることになった選手たち。
チームは崩壊した。
サッカーを楽しむ若者たちの姿が消えて12年。
住民の間から町の誇りだったチームの復活を望む声が上がり始めた。
スレブレニツァの街の中心部にはキリスト教の教会とイスラム教のモスクが並んでいる。
異なる民族が共存してきた歴史を示す町の象徴である。
内戦後 医師としてイスラム系とセルビア系の住民を分け隔てなく治療してきたチャカーノビッチさん。
チームの政権に協力を求められた。
兄が応援していたFCグーベルを復活させかつての町の姿を取り戻したい。
迷うことなく引き受けた。
(FCグーベル チャカーノビッチ会長)
「ほとんどの市民がFCグーベルが活動を始めることを待ち望んでいた。」
わだかまりを乗り越えるためにチャカーノビッチさんが徹底しているのが
フィールドには民族の違いを持ち込まないというルールである。
クラブ内に十字架など宗教や民族を示すシンボルは一切ない。
さらにそれぞれの民族を尊重し各民族の祝祭日には練習や試合を行わないことにしている。
チャカーノビッチさんの思いは選手にも浸透している。
(イスラム系の選手)
「みんな仲がいいよ。」
(セルビア系の選手)
「クラブでは宗教や民族は関係ない。
私たちは一つの国民です。」
復活を果たしたFCグーベル。
この日の試合ではセルビア系のゴールキーパーがゴールを守りイスラム系の選手がシュートを決め勝利をもぎ取った。
(FCグーベル チャカーノビッチ会長)
「このクラブでは90年間ずっと民族混成でやってきた。
民族が力を合わせてこそ成功といえる。」
チャカーノビッチさんがいま期待している若手選手はセルビア系のブラダン・チェーリック選手(21)。
難民として4才のときにスレブレニツァに逃れてきたチェーリックさんは内戦では多くの親戚を亡くした。
(セルビア系 チェーリック選手)
「私たちは民族の悲劇を決して忘れない。
しかし過ぎ去ったこと。
もう許すべきです。」
内戦後民族を超えて友だちを広げるきっかけを作ってくれたのはサッカーだった。
この夏から14歳以下のチームの監督も泣かされるようになったチェーリックさん。
セルビア系の自分にチームの将来のチームを担う子どもたちを任せてくれた会長の期待にこたえたいと思っている。
(セルビア系 チェーリック選手)
「子どもたちにはイスラム教徒もセルビア人も同じ人間だということを学んでほしい。」
10月15日 ワールドカップに向けたボスニア代表の最後の試合。
FCグーベルの選手や関係者が集まってテレビでしあ散を観戦した。
民族の垣根を越えて戦う代表チームは自分たちとも重なる。
初出場が決まると全員が両手を突き上げて勝利を喜んだ。
(FCグーベル セルビア系 チェーリック選手)
「最高です。
ワールドカップでは自国の代表チームを応援します。」
(FCグーベル イスラム系 チャカーノビッチ会長)
「サッカーがボスニア国民を団結させてほしい。
民族同士が協力する動きがもっと広がってほしい。」
対立を乗り越え力を合わせることで大きなことを成し遂げることが出来る。
ワールドカップをきっかけに国民の気持ちがひとつになることをふたりは願っている。
ワールドカップ出場を決めた試合にはボスニア・ヘルツェゴビナ出身の日本代表オシム元監督も観戦に訪れていた。
母国の勝利が決まると
代表チームの活躍はボスニアの人々を一つにしたと涙を流して喜んでいたということである。