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深紅の大優勝旗 60年の物語

2018-08-29 07:00:00 | 報道/ニュース

8月2日 おはよう日本


100回の記念大会となる夏の全国高校野球。
深紅の大優勝旗は5日の開会式で返還されると
その役割を終えて
今年の優勝校には新しい旗が渡される。
この旗は2代目で60年間使われてきたが
そこには数々のドラマがあった。

去年の優勝校
埼玉県の花咲徳栄高校。
優勝旗は今年の開会式で返還されるまでの1年間
盗難などに合わないように
ふだんは別の場所の耐火金庫に大切にしまっている。
(花咲徳栄高校 岩井監督)
「怖いというか
 常に緊張感を強いられた状態で生活している。
 優勝旗のことは常に頭の中から離れない状態。」
2代目の真紅の大優勝旗は
大きさ は縦1m 横1,5m。
最高級の西陣織で作られていておよそ10キロの重さがある。
織り込まれているのは
“勝者に栄光あれ”という意味のラテン語である。
よく見ると黒ずんでいるところやほつれているところもあって
60年の歴史を感じさせる。
この優勝旗が初めて登場したのは
昭和33年の第40回大会。
山口代表の柳井高校が受け取った。
決勝ではこの大会で奪三振記録を樹立した板東英二投手を擁する徳島商業と対戦。
名投手を打ち崩して2代目の優勝旗を最初に手にした。
(柳井高校 友歳首相(当時))
「(優勝旗を最初に手にした感じは)ずいぶん重かったですね。」
当時 キャプテンとして優勝旗を受け取った友歳克彦さん(78)。
優勝旗の重さを今もはっきり覚えている。
(柳井高校 元首相 友歳さん)
「すごく強い生地でできていたんですね。
 ゴワゴワでしたもん。
 ピカピカひかっているものだし
 汚しちゃいかんと思った。
 疲れているから腕が
 抱きかかえていたらそのまま風を受け止めて
 ゆらゆら揺れながら場内一周をした。」
同じ大会で
初めて甲子園の土を踏んだのが沖縄代表である。
以来 沖縄勢は特別な思いを持ってこの深紅の大優勝旗を目指し続けた。
沖縄代表として初の出場を果たした朱里高校は初戦で敗退。
当時まだアメリカの統治下にあったため
那覇空港に着くと
“甲子園の土”は検疫を理由に海に捨てられてしまった。
突きつけられた本土との差。
甲子園で優勝してこそ本土と肩を並べたことになると
深紅の大優勝旗柄の思いを強くした。
それから52年
2010年の第92回大会決勝。
沖縄県民の思いを背に
初めて優勝旗をつかんだ。
沖縄に帰る飛行機内の音声が残っている。
興南高校野球部の皆様
春夏連覇おめでとうございます
沖縄県民悲願の深紅の大優勝旗が
ただいまこの瞬間
はじめて本州・九州をはなれ南の海を渡りました
はじめて沖縄に渡った深紅の大優勝旗。
「ひと目見たい」と学校には連日多くの県民が詰めかけて
なかには頬ずりする人もいたと言う。
(県民)
「長年の夢でした。
 ちょっと泣いてますね。」
「沖縄の宝物ができた。」
(興南高校 我喜屋監督)
「みんな涙は出ているし
 我が事のように喜んでいるし
 あの優勝旗を守るだけでも大変な異常事態が数多くありました。
 これこそ全県民が待ち望んでいたことだったなと。」
去年の優勝校 花咲徳栄高校。
今年も甲子園出場を決めた。
2年連続で優勝旗を目指す。
(花咲徳栄高校 岩井監督)
「この優勝旗は
 伝統・歴史・血・汗・誇り
 そういうものが全部詰まっている。
 返還した優勝旗をまた再び自分たちの手のもとに取り戻す。」
深紅の大優勝旗。
高校球児はもちろん
応援する人をもひきつける力がある。





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