鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉手広切通し編 10

2009年10月13日 | 忘れ去られた鎌倉
写真の手前は腰越方面に行く。
写真中央の電柱の後ろにある暗がりは、手広の切通し。
更にその先には女坂の登り口があり、坂を上った分女坂の峠は高い位置にある訳です。
道路際は、写真で見る様に崖です。鎌倉では当たり前に在る崖です。
当たり前に在るので、、この場所の様に土地の有効利用と気にしなかったのですが、、、
視点を変えて、
「軍事目的の城壁としての崖であった!!」そんな目で鎌倉周囲を見直すと
七口の切通しは防衛施設の一部であり、万策尽きた最終的な防御施設で言わば本丸で防衛している様なモノと考えられる。
本格的な防衛設備は、七口の外にあり、、二の丸、三の丸に相当する砦の存在が浮かんでくる。
鎌倉の周囲を徘徊し、この様な崖を散見する内に、鎌倉城は現在考えられているより「広がりを持った大規模の防御施設であった」と私は考え始めたのです。
内堀、外堀に相当するのは、多摩川での合戦が実際に有った、分配・関戸河原や、
州崎の合戦の柏尾川です。
こう考えると、、、トンデモナい広がりを持った防衛システムであったと考えるのは、、ぼ輔だけでしょうか??

思い返すに、、、山崎の切通しと言うのが有ります。江ノ島道の一部で、その先が手広の切通しとなります。
その切通しは、現在歩くと舗装され車がすれ違える幅があり、周囲は小学校や老人施設があります。
その際にカフェがあり、コーヒーを飲みながら店の人と話をすると、この道は昔荷車が一台やっと通れる道であったそうな!!
鎌倉の行政で、この切通しの片側を切り崩し道幅を広げたそうです。
話を聞き、私はとても残念に思いました。
でも、
良く考えると、、、一度通った事に気付きました。
30年以上前にバイクでネズミ捕りに出会い、停止の指示をしている警官の脇をすり抜け小袋谷山ノ内川の水堰橋(源頼朝の軍が、鎌倉に出入りする時は、ここで隊列を整え市内に入った)から脇道に入り、. トンネルの様な場所を通り異次元の世界にタイムスリップした感じを味わい深沢に出た。数年後その道を確認したいと試みたがあのトンネルの様な場所が無い!! あれは、夢であったのか???
それから数十年経ち、この時期が、行政で道幅を広げた後であったのか~!と解決できた。
道を知らずに、江ノ島道を走っていた訳です。
それにしても、、歴史があり、時代を感じ、情緒がある道を切り崩して、、なんと言う行政か???
切通し際のカフェには、文化的価値のある場所であるから「喫茶店は建てるな!」
と言ったとか、、行政で景観を壊しておきながら、市民は不許可?結局は許可になった訳ですが、、
北大路魯山人はこの切通しが気に入り、李香蘭やイサム・ノグチがほれ込んでこの地に住んだ切通しだそうです。
世界文化遺産に登録しようなんて、片腹痛い! とぼ輔は思うのです。
コメント
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