大鎌倉城の巻 終り
日本で最大の城! (2012-11-19 10:11:15記)
それが鎌倉城ですが、その実態と全体像を把握している人や書物を私は知らない。
鎌倉城の縄張り図が無いことから、研究されて無いと推測できる。
(七口の峰を繋げて鎌倉城とした地図は在るが、調査不足の研究です。)
鎌倉の七口の切通しを結んだ距離は14km 面積14.平方km(紫色のライン内)であり、
江戸城内堀の 距離は 5Km 面積 2.2平方km っと桁外れのに鎌倉城は大きい。
比較に良いのは、江戸城の外堀の距離は15.8Km 面積17平方kmこれだと同じ程度ですが、
その外堀の範囲は、築地市場、浅草、秋葉原、水道橋、市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門、築地市場となり、鎌倉城の切通し内側が同じ規模と思えばよい。
その様な巨大な遺構を、個人で調べるのは困難です。
鎌倉市・逗子市の世界遺産登録推進委員会 でも、、、調査の痕跡は無い。
私??鎌倉に関わり興味を持って楽しんで60年近く、未だ一割も見ていません。
やっと、ボヤケタ全体を想い浮かべる程度です。
とは言え、部分的には語れるモノが在る訳です。
鎌倉城の実際の戦う砦の遺構は、鎌倉の七口切通し外に在る峰であり、凡その囲んだ距離は24Km 面積34平方kmの範囲を考える必要がある。(赤色のライン内)
実戦で新田軍と激戦に成ったのは、州崎で待ち構えた鎌倉軍で在ったのは周知の事で、化粧坂より西に2kmの場所でした。
その事実を無視して、戦う砦構造を七口の切通しに探しても砦の極く一部であり、大半の部分が切通しの外側の峰にある。
切通し=城 の考えは鎌倉の詳細を知らないから考えられる発想でしょうね、、、
余りの広大さに、調べろっと言っても、短期間には無理ですが、、、
切通しに寄せ付けない為に、敵軍を追い払う砦が外の峰に在る事を考慮せずに鎌倉城を語る文献ばかりです。
外の峰に在る事は、大仏切通を調べれば理解できる話です。
鎌倉に「城がある!派」でも、「城は無い!派」でも、鎌倉の全体を語る人物や文献を見た事がありません。
それ以前に、鎌倉の切岸全体を、学術的に調査した痕跡すら無いのです。
その城壁を証明する文献は、新田義貞が小袋、亀ヶ谷、化粧坂、極楽寺の各切通を攻めたが鎌倉の数倍の兵力でも打ち破る事は出来なかった事実です。
城郭巡りの趣味を持つ方は、この鎌倉城を見ても、城とは気が付かないでしょう。
あまりにも巨大すぎて、後世の城の常識を外した規模の砦であり、その砦が七口の外側に峰の数だけ存在するわけです。下調べをしない限り常識的な山城の範囲を超えおり、認識できないのです。
私は、アマリの広大さと歴史の古さに調べれば調べる程、全体が見えない状態と調査不足の無力さを感じます。
「それにしては、よく書くジャン!」と言われるでしょうが、色々見聞きし考えた中で、突っ込まれても、返答出来る範囲のごく一部なのです。
参考までに、
小田原城の総構えや、大阪城の外堀の範囲でも江戸の内堀と同じ大きさと言われている。
地図は、
紫部分が切通しを結ぶライン。赤い部分と紫の間が砦部分です。それを砦として調べた文献を見た事がありません。
私は、文献を頼りにしてない為の弱点があるので、その手の文献や情報をご存知でしたらお知らせ下さい。