古代駅路の文献で最古は、西暦646年 大化の改新であった。
『日本書紀』の大化2年改新の詔(天皇の命令)は、、、
駅馬・伝馬を置き、鈴契(駅馬・伝馬に使用)を造る。
七道を造り、土地を整備する。
問題は、大化の改新に細かい経路や、駅家の名、場所等詳細は無い!
結果は、古代東海道を語る時、詳細が書かれた「延喜式(927年に成立)」の駅路を根拠に語る傾向にある。
「大化の改新駅路」から280年経過した延喜式の時代には、道幅や経路は変化した事が知られているが、その詳細の大半が未発掘で 語られる時に延喜式の経路をもって古代東海道の解説をする。
その混乱は、
其の一、時代に合わせ道路は変化するが、あたかも「大化の改新駅路」「延喜式駅路」は一つの様に語られた間違え。
其の二、駅路と伝路の区別が無く語られる間違え。
この場で語られる駅路は「大化の改新駅路」で路面(9m)の中路規格の駅路です。
「大化の改新駅路」より延喜式駅路までの280年間の変化で大化の改新駅路=延喜式駅路の保障は無い。
そんな前提を踏まえたはなしです。
延喜式駅路では、上図の蒲原①→沼津(長倉駅)②→横走より足柄③のルートが語られます。
話のキッカケは、「わたしのサイクリングフィールド」のバロパパさんからメールでした。
> 、、、、、、、、、前略 、、、、
> 富士の噴火で足柄道が不通になった時期がたびたびあったといいます。古い時代の東
> 海道は愛鷹山の北側、十里木を通っていたような線は考えられないでしょうか。
> 、、、、、、、、、後略、、、、、、
初期の古代東海道は採算や地方の事情は無視で、朝廷の権威で目的地まで最短距離で道を作った。
そう考えた時に「古代東海道は十里木を通っていた」と言う考えは合理的と思えるのです。
『日本書紀』の大化2年改新の詔(天皇の命令)は、、、
駅馬・伝馬を置き、鈴契(駅馬・伝馬に使用)を造る。
七道を造り、土地を整備する。
問題は、大化の改新に細かい経路や、駅家の名、場所等詳細は無い!
結果は、古代東海道を語る時、詳細が書かれた「延喜式(927年に成立)」の駅路を根拠に語る傾向にある。
「大化の改新駅路」から280年経過した延喜式の時代には、道幅や経路は変化した事が知られているが、その詳細の大半が未発掘で 語られる時に延喜式の経路をもって古代東海道の解説をする。
その混乱は、
其の一、時代に合わせ道路は変化するが、あたかも「大化の改新駅路」「延喜式駅路」は一つの様に語られた間違え。
其の二、駅路と伝路の区別が無く語られる間違え。
この場で語られる駅路は「大化の改新駅路」で路面(9m)の中路規格の駅路です。
「大化の改新駅路」より延喜式駅路までの280年間の変化で大化の改新駅路=延喜式駅路の保障は無い。
そんな前提を踏まえたはなしです。
延喜式駅路では、上図の蒲原①→沼津(長倉駅)②→横走より足柄③のルートが語られます。
話のキッカケは、「わたしのサイクリングフィールド」のバロパパさんからメールでした。
> 、、、、、、、、、前略 、、、、
> 富士の噴火で足柄道が不通になった時期がたびたびあったといいます。古い時代の東
> 海道は愛鷹山の北側、十里木を通っていたような線は考えられないでしょうか。
> 、、、、、、、、、後略、、、、、、
初期の古代東海道は採算や地方の事情は無視で、朝廷の権威で目的地まで最短距離で道を作った。
そう考えた時に「古代東海道は十里木を通っていた」と言う考えは合理的と思えるのです。