旧記事を読みやすくするため 上、中、下巻に編集しました。
■ 記 2011年01月04日 稲村ガ崎の戦い 1
写真は、逗子マリーナから見た稲村ヶ崎です。
「稲村崎成干潟事4」を詳細に再考しようと思います。
写真の中ほどの山の中腹にある白く見える建物群と其処から斜めに坂ノ下(右下に下りる道)に降りる白い道がこれからのテーマです。
白く見える訳は、ガードレールの白です。
「稲村崎成干潟事4」の黄色の点線の道は、由比ガ浜から見るとこの様に白く見えるのです。
私も、稲村ヶ崎の道を思うと、真っ先にこの道を思い浮かべます。
明治の地図にこの道が載っている。
現在も道幅を広げられて状態で現存しているが、、、しかし
調べると、大正の関東大震災で、明治に在った道は崩れて消失していた。
「稲村崎成干潟事3」の写真は、その崩壊の状態が写っているので証明できます。
今有る道は、古来より有る道とは違うのです。。
■ 記 2011年01月11日 稲村ガ崎の戦い 2
稲村路を考える時に、
単に「稲村路らしき物が見つかった!」というだけでなく、
稲村路と、仏法寺、霊仙山、霊仙ヶ崎及び、ガードレールの道の関係を総合的に考える必要が有る。
ガードレールの白い道現代の道ですが、、明治の時代にこの場所に道があったと考えられ震災で破壊された。
そうであるならば、、この道の存在理由は何か???
ガードレールの白い道と「ぼ輔説の稲村路」を対比してみましょう。
◆稲村路について、文献を調べると、、、、
> 『太平記巻第十』
> ・・・南は稲村崎にて、沙頭路(砂浜の道)狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て・・・
> 『海道記』
> ・・・稲村といふ所あり。さかしき(危険な)岩のかさなり臥せる浜を
> つたひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪の花の如くにちりかかる。・・・
> 『梅松論』
> ・・・稲村崎の波打ち際。石高く道細くして軍勢の通路難儀の所・・・
上記をまとめると、稲村路は
波打ち際を通る。
砂浜の道は狭い。 波が有ると岩に当たり飛沫を被る。
それだけでなく、
石高く(岩の高い場所)を通り道細く、危険で伝い歩きをする必要が有る道である。
この結論を、道に当てはめましょう。
「稲村ガ崎の古道を検証 10」2006-12-14には、ガードレールの道(赤いライン)と「ぼ輔説の稲村路(紫の点線)」が記されています。(明治15年の地図)
一、ガードレールの道(赤いライン)は、
砂浜の狭く波の飛沫を被る様な場所は通らない!
よってガードレールの白い道は、稲村路では無いと言えます。
二、現在の稲村ヶ崎の波打ち際に道が在ったと主張する方も居られますが、
それでは、岩の高い所は通りませんから、、これも却下される話です。
明治時代に学者が稲村ヶ崎脇を渡渉し由比ヶ浜迄歩けたので、此処を新田義貞が歩いたと定説になり、石碑も立っているのだが、、、
『太平記巻第十』『海道記』『梅松論』等の文献には、全く不一致な場所である事がご理解頂けると思います。
基本的には、稲村路は街道ですから、老若男女の一般人が通る道です。海の中を浸かって歩くのは「稲村路」では無い。
明治の稲村が崎の渡渉は、文献を理解する事無く行われた実験と言えるでしょう。
研究姿勢として、問題が有り過ぎです。
今回は「ぼ輔説の稲村路」の正当性についてでした。
次回は、ガードレールが白い道の存在理由は何か???です。
■ 記 2011年01月15日 稲村ガ崎の戦い 3
「稲村崎成干潟事3」の震災の岩壁崩壊ですが、、、
写してある場所は、、仏法寺の下の崖まで写って無かったのかも、、、
取り敢えず、、仏法寺の下の崖は無事であった想定でこの記事は書くわけです。
この写真に妙なモノが写っているのです。
霊の、、いや例の稲村路の話では、即その痕跡まで近づけて確認が取れたのですが、、、
この道はガードが固く近づくには覚悟が必要です。
私一人なら如何様にでもなるのですが、何時も同伴者がいて、足が悪いとキタモンデ、、
確認できるのは、、いつの事やら、、、、
これが、仏法寺の参詣道ならば、大門の場所が推定できたりなんて夢でしょうか?
江ノ電極楽寺から攻めるか、海側から攻めるか?はたまた成就寺から責めるか??
崖崩れが大きな場所です。事故対策が必要でしょうね。
仏法寺に辿り着く為のルート等もお願いします。
仏法寺跡 (酔石亭主)
2011-01-15 19:43:35
仏法寺跡へは極楽寺駅で降りて、目の前の墓地に上がり、墓地の
右手端から尾根に登る山道があります。
登り詰めると五合枡遺跡の前に出るので、右手に行けば仏法寺跡です。
下に降りられそうな道もありました。
なお鎌倉記憶帖によれば、以前は成就院墓地から霊山中腹、金山経由
稲村ケ崎に出る道が通行可能だったそうです。
当時の古老の話で80年程度前でしょうか。
■ 記 2011年01月18日 稲村ガ崎の戦い 4
下の写真の解説
:上は解説用で左端赤マークは道路の切通。次の黄色い色は
「太平記」その他の古文献に書かれた稲村路。
次の赤マークは埋め立てに削り取られた山。
一番右は仏法寺の平地と参詣の道路。
青に赤の印の下に小さく三角に見えるのは、極楽寺坂と陣鐘の峰。
(鎌倉の防衛ラインの外から唯一鎌倉内を覗ける場所です。)
中は明治の写真
下は2015年夏
大仏切通しより稲村ヶ崎先端の範囲で鎌倉に入る道を考える時に、、
先ず古い道として、
① 稲村路を考えるのです。
七里ガ浜より針磨橋に行き、方向を南に向け岸壁に出る道です。
② 次に、極楽寺の参詣道路に組み込まれた極楽寺の切通し。
③ 極楽寺の末寺として海の際を通る仏法寺の参詣道路
④ その他にもう一本の道として。
それは、鎌倉城の城壁の上に造られた兵を送り込む為の道です。
(通常の道とは違い、屈強な兵隊が通る細く険しい道です。)
仏法寺の霊仙山周囲にこの四本の道が考えられる。
> コメント (酔石亭主)
> 仏法寺跡へは極楽寺駅で降りて、目の前の墓地に上がり、墓地の右手端から
> 尾根に登る山道があります。
この辺りから登る計画を考えたいですね。
当面日程は組めませんので、行かれた方が居られたら、状況を教えていただければ幸いです。
> なお鎌倉記憶帖によれば、以前は成就院墓地から霊山中腹、金山経由稲村ケ崎に
> 出る道が通行可能だったそうです。
> 当時の古老の話で80年程度前でしょうか。
この鎌倉雑記帖の詳細を知りたくて調べると、
HP[北道倶楽部」より拝借の記事<http://www.ktmchi.com/rekisi/nkc_000.html>
> 鎌倉七口切通し 稲村路より、
> 「鎌倉記憶帖」(S61)によると古老の話でしょうか、成就院墓地から霊山中腹を
> 経て、金山、稲村方面に至る道が通行可能で極楽寺坂を登るより楽だったとか。
問題にしたいのは「極楽寺坂を登るより楽だった」と言う記載です。
明治の時代まで、極楽寺坂はとても困難な道であった!
小袋坂も亀ヶ谷も化粧坂も困難で、まともな道は大仏切通しだけであった。
何故?
新田義貞の攻撃を防ぐ為に、道路を封鎖したバリケードが残存したと「ぼ輔」は想像します。
どの様なバリケードか?は朝比奈と大仏切通しに残存する痕跡をこのブログに記し、現在も残っています。
極楽寺坂の迂回路として、鎌倉終焉以後この道が造られたと考えられますね。
⑤ 成就院より仏法寺まで中腹の道が在り、大震災で崩れ去った事が考えられます。
極楽寺坂も大震災崖崩れで、通過中の曲馬団(サーカス)が遭難。
これらの道が交錯し、古代東海道跡と連想されたり、稲村路が確定されていない為の
「新田義貞は稲村ヶ崎の外海を徒渉した!」という混乱になっていると思います。
写真は、明治(白黒)と現在の写真の稲村ヶ崎の比較です。
図書館の本から鮮明な基画像を、、、、などと思うのですが、、、
「鎌倉記憶帖」木村彦三郎著<http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/Kimura.html>
鎌倉の図書館も行きたいのですがとても行きにくい場所です!
■ 記 2011年01月28日 稲村ガ崎の戦い 5
鎌倉の地図ですが、、、
① 古い道として稲村路(赤マーク)を考えるのです。
七里ガ浜より針磨橋に行き、方向を南に向け岸壁に出る道です。
② 次に、極楽寺の参詣道路に組み込まれた極楽寺坂(緑マーク)の道。
③ 極楽寺の末寺として海の際を通る仏法寺の参詣道路(桃色の実線と破線)
④ その他にもう一本の道として。
それは、鎌倉城の城壁の上に造られた峰を守る場所であり、兵を送り込む為の
道(青マーク)です。
通常の道とは違い、戦闘の攻撃拠点で峰の一番高い所を通ります。
下から登ってくる敵!それは、みうごきも自由にならない敵で上から弓で狙い
撃ちが出来るのです。
鎌倉の砦構造は、皆峰の上はこの様な構造で、所々に平場が在ります。
仏法寺の霊仙山周囲にこの四本の古い道と大正時代に作られた平場と其処へ向かう白いガードレールが特徴の現代の道(黄マーク)が在る。
今回「ぼ輔」が仏法寺に向けて歩いたのは、極楽寺駅から青マークの峯筋を登った。
赤い矢印を書き込んだ道です。
基本的に安全で一番楽で迷いにくい道です。
他の峰は、ふみ跡こそ在りますが、一般道に出る時に住民の庭を通らなければ一般道に出れないとか、崩れやすい崖を横断する目に会います。
来た道を折り返すのが無難です。(経験者の告白)
今回は、仏法寺の東断崖に在ると考えた、坂ノ下から寺への参詣道を確認する為の現地行きです。
寺への参詣道には、寺の門が在って当然で、稲村路を攻め進む新田軍を弓矢で苦しめたと言う文献に残る場所です。
その門の場所を確定するのは無理でも、、、
その参詣道の存在を確認する事に意味を感じるのです。
■ 記 2011年01月30日 稲村ガ崎の戦い 6
先ずは、「江ノ電極楽寺駅」へ行ってください。
駅を降りたら、其処は緩い坂で、、、正面は目的「霊仙山」のフモトです。
この山に登るには、、何処から登ったらよいのか?
民家の間には、隙間が無くて山に入り込めないのです。
坂を50mほど登ってください。
左は自転車置き場で右を注意すると写真の登り階段があります。
階段を登ると其処は墓地です。
道路から見ても墓地の雰囲気は判ります。
墓地の脇を谷側(江ノ電が見える右側)の端を歩くと山の入り口の写真の状態です。
基本的には霊仙への道は、この場所だけです。
この墓地の人は、通り道を親切にコンクリート舗装をしてくれたのです。
其処を登ると、、、
これでも道なんです。
ハイク道ではなく、山道で踏み跡が頼りです。
基に在るのは、寄せてくる敵が登れない様な急な崖です。決して自然な崖ではなく、、
人工的に故意に造った傾斜の崖で、守備の人間としては、転げ落ちた敵兵は大怪我をして再起不能になって欲しいと願って造った砦の崖です。
そこらの山のハイキングと一緒にしないで欲しいと考えています。
峰の山道を高みを目指して歩き続けると、北里柴三郎と細菌学者コッホの碑があります。
本物は誰でも行ける稲村ヶ崎の公園に移したのです。
これは、、レプリカの様ですね、、、
これが、霊仙山の頂上です。
ここから、100m程行けば仏法寺が下に見えてきます。
意識的に冬枯れの時期を選んで行きました。

> 五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前
> 浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あ
> はてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。
> 高時の家人諏訪・長崎以下の輩命を捨て防ぎ戦ける程に、当日の浜の手
> の大将大館(=宗氏)稲瀬川において討取らる。その手引退て霊山の頂
> に陳を取る。
> ・・・・・・・前略・・・・・
> その後19日、20日、21日とすさまじい攻防戦があったことが、軍忠状の
> 中でも明らかにされております。5月21日に鎌倉方が霊山寺(仏法寺)の
> 大門に引きこもり、新田軍に散々矢を射たので、なかなか破ることはで
> きなかったけれど、三木俊連が自ら峯を駆けおりて、多分奇襲戦法でも
> したのか、それで大門を打ち破って、さらに霊山寺の峯を攻め登る。
> そういう中で夜中まで戦いが続いたと書かれています。
> ・・・・・・・後略・・・・・

■ 記 2011年02月15日 稲村ガ崎の戦い 9
霊仙山に登って、何を感じたか? 人それぞれですが、、、
「鎌倉には城など無い」等の根拠に問題の在る珍説もあります。
鎌倉城の戦う構造が見れる場所がこの霊仙山です。
決して、自然の地形ではなく、細部まで手を入れた防御の構造です。戦国時代の山城の基になった防御技術の原点が、、、この場所に在ると考えるのです。
峰以外は人が移動できない様に、崖の傾斜を工作してある事で、理解できるでしょう。
自然地形の崖は、傾斜が緩急色々で登れる場所は多々あります。此処は砦で手を入れた場所ですから、、登れる場所は限られる。
峰筋は馬の背状態で、人が一人通れる幅です。
人が行動できる場所は、尾根だけで、崖は両手足を使ってヨジ登るしかない。
攻める兵は両手を使えず攻撃する事が出来ない。尾根の守備は、攻撃できない敵兵を上から狙い撃ちでできる。
稲村路を通る新田軍を 上の仏法寺大門から矢を射掛けた鎌倉軍ですが、更に上の峰から三木俊連(新田軍)が奇襲した! それ程、当時の戦法は上位を取る事が重要なのです。
その様な戦う城の城壁としての構造を見れる場所です。
##########################################
太平記に依ると、
鎌倉軍は、三手に分て新田軍と対峙する。
粧坂は金沢越後左近太夫将監を差副て、三万余騎で堅めたり。
極楽寺切通は大仏陸奥守貞直を大将として、五万余騎、堅めたり。
##########################################
これが、鎌倉城の守りです。※注
攻守の兵数が実数より多過ぎな太平記ですが、兵の割振りから化粧坂より極楽寺切通の守備を重要視したと考えられる。
其の中でも、、霊仙山は、マトモニ七里ガ浜から寄せる敵兵の表面に晒される場所で、守りの最重要拠点と考えられます。
その場所が良い状態で残っているのです。
※注
其の他に、鎌倉城外で決着をするべく、城の掘割にに相当する柏尾川で新田軍と向かい合ったのが、赤橋前相摸守盛時を大将とした六万余騎の鎌倉軍です。
文献に残る仏法寺大門の場所を推定できる参道の確認です。
門の場所を確定するには掘り出す必要があり、アマチュアの範囲を越えますが、、、
推定ならば、仏法寺参道に大門はあり、、、其処から弓矢で狙い撃ちを出来る高さの場所と推測できますね!
赤い矢印を降りるとこの様な道らしき踏み跡があり楽に降りて行けます。
コメント
Unknown (三品)
2011-02-17 22:28:58
”大門”って、どのような門なのでしょうか?
建長寺や光明寺にあるような大きな山門だとすると、平坦な場所で
ないと建てられませんが...
仏法寺の大門 (ぼ輔)
2011-02-23 20:54:58
建長寺の門を見た時に、上に登る階段を取り外せる構造になって居
たのを思い出しました。
この構造は何故?っと疑問に思っていたのですが、、
武士が二階に立て篭もり下を攻撃するには良いですね!
実用的か否かは別ですが、、、、
仏法寺の場合はこの様な門と言うより木戸に近い門でしょうが、そ
れにしても道幅より広い事が要求されると考えます。
岩崩れでこの道は埋まっても、掘り出せる可能性は有るのですが、
ガードレールの道に破壊された事も考えられる訳です。
この様な破壊が無い前提なら、通常の道より広い場所を見つけ出せ
ば良いと考えるのです。
■ 記 2011年02月28日 稲村ガ崎の戦い 10
仏法寺下の崖は、他の周囲にある崖とは別で緩やかです。道を造れる余裕の在る傾斜をしています。
とは言え、波打ち際から登るのは不可で、坂ノ下へ向かい現在のガードレールの在る道に沿って在ったと考えています。
数~十年前まで使われていた踏跡が山道状態で在ります。
数百年の放置された道と震災のがけ崩れを考慮すれば、この程度の荒れ方は納得できる。
保安林の棒が立っているのは、此処が道として使われた証拠ですね!
その棒の先は、埋立地に建つホテルの上に出ます。↓
埋立地の間には、白いガードレールの道と、落石防止のネット!!
これが邪魔して、、、この場所から登る道は消えた!!
防止のネット設置以前は、このまま稲村方面へ向かう道が在った様です。
参道はこの場所からスイッチバックして坂ノ下方面へ下る訳ですが、、、、
この辺りが微妙に門を作れる様な広さの在る場所でもあり、、、
もっと坂ノ下寄りかましれません。
稲村ガ崎方面を見ると、下の写真です。
一番海側にはR134の道路があり、鎌倉市民プールがある。この埋め立てた場所は浅く平らな岩礁で、、、、
岩礁の上を歩いて新田軍は鎌倉に侵入したわけです。
この崖は仏法寺の参道を作るに適切な場所ですが、他に参道を造るの場所が無い事も確認できました。
仏法寺へ、鎌倉の民が坂ノ下から参詣した道がこの場所に存在した考えられるのです。
この参詣道の何処かに大門跡が埋まっている可能性を期待するのです。
自動車でこの場所にこられる方は、駐車場の困難があります。
鎌倉駅周囲は観光地値段ですが、由比ガ浜駅の脇に一日900円の駐車場があり、江ノ電にて稲村ヶ崎へ!帰りは、鎌倉駅まで行き、食事買い物等をして由比ガ浜駅へ戻りました。
霊仙山は戦う砦構造と言うより、、人を通さない城壁構造で有ったと考えるのです。
ですから、歩いて目に見えるのは、単なるナダラカな尾根道です。
しかし、その尾根を外れたら崖の下までずり落ちる!
戦う構造としては、極楽寺の切通しに在ったと推測します。
戦う為の切通しと、壁として立ちハダカル霊仙山、そして、、稲村路!!
新田軍は、これ等の中から一番弱点の稲村路を攻めたのです。
霊仙山の城壁ですが、、、これだけでも地方の山城の規模を持つ大きさです。
この規模の砦が十も二十も集まり出来上がっているのが鎌倉城なのです。
全国の武士が寄って集って作り上げたのが鎌倉城であるなら、、、
鎌倉には城が無いとした説には、
「それ以前には城の概念が無かった!だから、、鎌倉時代にも無かった!!!」
そんな説でしたが、、、それが本当ならば!
本格的な築城技術は「此処より始まり、地方に持ち帰った」としても問題ないでしょう。
「戦い守る」城の概念の無い平安京を攻め滅ぼしたのは、源氏の一族です。
天下を取り、自分達が守る番に成り考えたのでしょう!平安京の平家の二の舞はしたくない!
それが、強固な鎌倉城を造る基に有った考えと、、、ぼ輔は想像するのです。
では、、戦う為の砦構造は???
戦いの初期に新田軍主力は、化粧坂に向け攻撃しましたが、、、
どうにも落とせない!!
化粧坂には、戦う場所としての構造があり、新田軍の攻撃に耐えた訳です。
平場を多数設けて雛壇状に作られた戦う構造が在るのです。
特に、化粧坂に向かい攻め上がると、戦う構造の場所が多々在ったのです。
化粧坂は、既に防衛ラインを越えた内側ですから、、、防衛構造の在ったのは、柏尾川と化粧坂の中間地点です。
それは、別の機会に!!!
コメント
仏法寺 (酔石亭主)
2011-03-01 18:50:11
仏法寺から海側に下る道は参道ではないと思います。
極楽寺は前浜の漁業権、和賀江島の港湾管理権を手中に収めていますので、
海に向かって開けた仏法寺は商船と漁船の監視所としての機能を有していた
はずです。
海で問題が起きた場合、監視員は直ちに海岸へ駆けつける必要があります。
その目的で、寺は海側手前に道を付けたのではないでしょうか?
この道は寺の業務遂行に必要な専用道路ですから、一般の通行は多分禁止さ
れていたものと思われます。
■ 記 2011年06月18日 稲村ガ崎の戦い 11
写真は、仏法寺(霊仙山)のステレオ写真
>> 仏法寺 (酔石亭主) 2011-03-01 18:50:11
> 仏法寺から海側に下る道は参道ではないと思います。
> 極楽寺は前浜の漁業権、和賀江島の港湾管理権を手中に収めていますので、海に向かって
> 開けた仏法寺は商船と漁船の監視所としての機能を有していたはずです。
> 海で問題が起きた場合、監視員は直ちに海岸へ駆けつける必要があります。
> その目的で、寺は海側手前に道を付けたのではないでしょうか?
> この道は寺の業務遂行に必要な専用道路ですから、一般の通行は多分禁止されていたものと
> 思われます
社寺には、表の顔と裏の顔が有るとかんがえています。
建長寺の山門の立派さとその高さ!
二階へ上る階段は、取り外しが出来る事に気が付きました。
あの山門の二階の部屋は何の為に作られたのか?
押し寄せた敵兵を平場で抑えられない代わり代わりに、2階から弓矢で攻撃できる様に成っている! そんな解釈をすると、ぼ輔的には納得が行くのです。
適が二階に上がれぬように、二階へ上る階段は、天井に持ち上がると、、解釈しました。
鶴岡八幡宮の砦構造など、、、その場所に陣を引いたら半端でない防御施設と考えます。
八幡宮の裏山は、大部隊が立て籠もれる平場も備えている。
考えられる事は、大きすぎてそれを守る兵自体も無くなった状態を考えてしまいます
広報かまくら平成22年度9月1日号8面
前略
江戸時代前期成立の『極楽寺境内絵図』に、仏法寺の建物と池が描かれていますが、これについて、極楽寺が火事で焼けた後、明暦3年(1657)に仏法寺の建物が移築されて方丈(住職が生活する建物)となったという話が極楽寺に伝わっています。以後、仏法寺は廃寺になったようです。
さて、、
以上の様に、実際に防御施設として鎌倉に攻め込む兵を防御する事に使われたのですが、、、
平常時には、鎌倉に入る船を監視する為に使われた事が言われています。
例えば、
六浦道の荏柄天神の辺りで通行税を取る事と同じと考えています。
この「船を監視」するのは、税金を取る為で、武力絡みの緊急性の有る監視では無いと考えるのです。
あくまでも平常時は、牙を隠したお寺で有るはずです。
◎◎◎コメント◎◎◎
これはすごい (@塾長)
2007-02-19 23:09:51
全く、予想だにしていませんでした。
桟道は海岸の岩場かと思っていました。
下に積もった土砂を見る限り、相当崩れていますね。
噂では、関東大震災で崩れたと聞いています。
Re:これはすごい (ぼ助)
2007-02-20 09:53:18
関東大震災でこの辺りが大きく崩れた様ですが、
それでも痕跡が残る処が岩場の道と言うことですね!
私としても予想外の物を見ました。
人が通れる幅は有りません。
登山技術があっても、崩れやすい砂岩です。
鷹取山の砂岩の岩場で何人も事故を起こし岩登り禁止になったのと同じ岩の質です。
無茶はしないで下さい。