台峰の西端、自動車学校より台峰北面の写真。
satnaiさんよりコメントがあり、全文が面白く興味深い内容なので掲載します。
臥龍峡 (satnai)
2015-07-25 00:47:17
鎌倉を出てから随分たちますが、世界遺産落選の理由が気になって色々調べて見ると、子供の頃、漠然と想像していたが確認できないままとなっていた鎌倉古道の情報に驚くことが多く、貴HPも興味深く拝見していました。
全く史学には通じておらず子供の頃の関心が蘇っただけですが過去の記憶と照らし合わせてみて出てきた疑問点です。
○台峯の先端、臥龍峡の北。
Googleの写真で見る限りなくなっているが先端の山頂部に横須賀水道の戦前期の施設があって水道山と呼ばれていた。
戦時期は高射砲が設置され南西側の斜面にはかなり大きい防空壕4~5があった。
北東側の旧自動車学校側の斜面ははっきり崖が見えていた。記憶は曖昧だが看板がつる下げられていた。この斜面がいつ開削されたのか?
○天神山と台峯北部の間の小山
明治期の地図では残っている。戦前(S16年頃?)の富士飛行機の工場建設で崩されて今はマンションだが、一部に高い地点が残っている。
戦記には出てこないか。天神山と同様な砦であったのか?
○臥龍峡の場所の変遷、江戸期のえのしま道以前に切通が存在した?
山崎小学校建設以前の状態が不明。
いつ古道となったのか。どの程度の幅だったのか。
魯山人関係のUPされた資料によればS3年に星岡窯ができたときに車が通れる幅まで開削され山崎小学校に面して今も残っている側面は魯山人の開削。 (ここまでは間違いないいと思いますが)
江戸期は江ノ島道の枝道?となっていた。
マンションと高台にある神明神社の間の斜面がいつ開削されたか不明。(さくら広場に面している側。さくら広場は富士飛行機工場と同時期の寮の跡地) 魯山人が開削する以前から開削されていた?
鎌倉に入れなかった一遍が宿を光照寺に取って遊行寺方面へ抜けた時、既に臥龍峡の道はできていたことになる(光照寺のHPより)。
臥龍峡は鎌倉城としては、軍事的にはどういう位置づけになるのか。
七切通でなく学校で教わることもなく子供の頃からの鎌倉で最大の謎でした。崩される直前の姿を覚えています。
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面白い内容で 半端なコメントは不要だと思います。
ぼ輔のコメントは、改めて書きたいと思います。