鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

コメントより :台山

2015年08月08日 | 大鎌倉城

臥龍峡を越え、江の島に向かう道で、正面の小山が切り取られて残った場所です。
小山の右は旧富士飛行機、次の時代は昌光ガラス工場で、今は住宅地で使われた平地で左は江の島への道です。

どう考えても、ぼ輔の記事より真実味があり 面白い。

「台峯の先端、臥龍峡の北」この城郭状の遺構は間違いで
明治の地図を根拠に、本来は、天神山の遺構と同じ形態の砦であったであろうと訂正します。


コメントより!
■台山(追加です) (satnai)  2015-07-30 01:10:07
掲載していただきありがとうございます。ご存じの方に教えていただきたいです。
さて、詳細な航空写真をウェブで確認できることをこちらで知りましたので確認できる昭和19年から見てみての疑問点です。

○北端の崖
戦前、旧自動車学校に何かが建っていた時に敷地を拡張するように抉ったようになっている。明治期以降か?それでも原地形としては天神山に似る。

○小坂郵便局から光照寺前で台山(台で丁目がない住所で平坦部)に登り、神明神社、臥龍峡へつながる道。えのしま道の枝道ともされる。一遍が通ったとされる道。
光照寺の前にも切通の跡が今もある。なぜここに道があるのか。いつ開削されていたか。今は閉鎖されている手広の青蓮寺の切通と同時期か?

登り切った交差点が、北鎌倉女学園グラウンドからの尾根道と台山の戦前は横須賀海軍の士官の住宅街への道。戦後直後の写真(昭和22年)ではほとんど住宅がない台地で境界が明確。台峯から小袋谷・山ノ内への傾斜地であるが、やはり先端で高低差があり見晴らしも良い。
位置は北鎌倉の木戸の手前になるこの台地は中世の軍事的にはどう位置づけられるか。

○えのしま道の枝道は、小袋谷の水堰橋で台山の麓に沿って臥龍峡へつながっていたか。山ノ内から光照寺の前の切通が枝道なのかが不明(両方?)

魯山人の母屋跡地(山崎小学校グラウンドの西端に面した一角)を定点に一連の航空写真を初めて見まして、昭和40年頃に台峯北部がまとめて開発されたことと、戦前期の建物と思っていたものが戦後のものであったり、また、やはり温暖であるからか樹木の成長が速いことも確認できました。

自分の原風景ということもあるのですが台峯周辺の郷土史が豊かになり世界遺産落選でも何らかの形で残されて欲しいと願っております。

■天神山(追加2) (satnai)
2015-08-05 01:30:14
先月末に数年ぶりに調べて見てネットで確認できる地図情報に驚いています。

○天神山と台峯北端の間の崩された小山
「今昔マップon the web」で明治36年と昭和8年の地形図を拡大したところ、やはり何らかの由緒があるらしく墓石?石碑の地図記号を確認しました。(同じ記号では頼朝の墓、大江広元の墓、さらに八幡宮の裏八幡の山の上も発見。)戦前の工場建設で失われていますが、何の石碑であったか面白そうです。 地元に生まれ育ったご存命の古老の方くらいでしょうか。

  ○天神山の山頂の石碑と温泉
これも子供の頃からの謎でしたが、
・天神山に砦の跡があるという記述は昔から見ていたが、現物は確認されているのか?

・天神山の山頂には昔から石碑が複数倒れていた(今もあるらしい up確認)。四国八十八カ所に見立てた石碑をつくり(大正期~昭和初期?)参詣で賑わったらしいことに関係?。西麓の温泉の「山崎園」とセットで砦周辺が賑わっていた時期がある? 西斜面から山頂に登る道があった?

「山崎園」は、魯山人直筆の地図で臥龍峡とともに紹介されているものがupされている。
ただし泉源の位置が確認できない。どこか。上町屋には別の泉源がある。

・「頼朝のかくし湯」は本当にこれか? 武士の戦闘の治療に関係がある利用がされていたか?


ぼ輔:以上ですが、明治、大正、昭和初期等の産業では鎌倉ハムと大船軒程度の話しかありません。実際は、もっと大きな産業が有ったハズです。
その根拠ですが、

> satnaiさん
> ○天神山と台峯北部の間の小山
> 明治期の地図では残っている。戦前(S16年頃?)の富士飛行機の工場建設で
> 崩されて今はマンションだが、一部に高い地点が残っている。
> 戦記には出てこないか。天神山と同様な砦であったのか?

『台峯の臥龍峡より西の山の切削』や、『天神山と台峯北部の間の小山の消失』それと、『笠間中央公園から芝浦エンジニアりングよりヤマダ電機迄』は山で有ったのが消失している。
当時、大型土木機械の無い時代で、山を消し去る事は大事業で有ったハズです。
工場を建てるのにワザワザ山を買って平地にする様な事はしない。
何かコンクリート素材の様な鉱業が有ったと思えるのですが、、
鎌倉の石切り場の話は有りますが、もう少し規模の大きな話と考えるのですが。

satnaiさんの様な読みやすい文章で無くても、良いのです。
気楽にコメントをイタダケルと嬉しく思います。
コメント
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