2016年05月16日 記
大宰府を守る水城と石築地は防御の考え方が違い、違いは形に現れる。
水城は高さ9mの堰堤で、これを乗り越えるには死を覚悟する必要が有る。
石築地は高さ2~3mの堰堤で手が掛かれば簡単に乗り越えられるので、本来は3~4mの高さが欲しい処でしょうが、20㎞の延長が在る堰堤ですから、最低限の高さで妥協したと思えます。
「八幡ノ蒙古記」では 武士が名乗り合う一騎打ちの状況を述べられています。
「先陣争い」「一騎打ち」や「先駆け」の功名心が戦いに顔を出す。
これが、蒙古襲来の最初の時の戦い方でした。
2度目の蒙古襲来では、蒙古は石築地にはばまれて日本軍を攻められず、援軍を待つ為に退避した。
石築地作戦は、一応成功した訳です。
攻める道具を用意すれば、2mの壁の高さは簡単に越えられますが、海から小舟で海岸に上陸し攻めるには、道具の準備が苦しいのでしょう。
鎌倉城の場合、切岸は一様の高さではなく、工法もマチマチで、敵が登れなければなんでも有り!
と言う感じで、、数mの切岸とその切岸を登り攻め入る敵を 峰の上で待構え矢を射る戦法と考えると、10m以上の高さがある。
初めから、登る意志を削ぐ高さの切岸と、
敵が「これなら攻め込めそう!」と考えるガードが低い場所を準備して攻めさせる!
それが、石築地の様な防御の考え方と思えます。
頭を冷やして考えて欲しい事は、
『何故化粧坂や極楽寺坂を攻めたのでしょうか』他の場所から攻め入れば良いのです。
稲村ヶ崎から化粧坂迄は、3kmの長い距離で自然の山ならば、鎌倉市内へ強引に入り込む場所が幾らも有ったハズです。
実際は、鎌倉市内に入り込める場所は七口だけで在った訳で、他の場所は切岸が作られて鎌倉の中には入れなかった。
その様な状態を古文献に書かれているのですが、、、、
古文献を否定して「鎌倉に城は無かった!」と言うからには、根拠を明確にされるべきです。
先ず文献の詳細な否定と、物的証拠である切岸の全体像を調査の上で否定するのが科学的 尚且つ学術的と言うものです。
それ以外は、現代文献の他の人が書いた説の受け売りです。
アタカも自説の様に吹聴するのは、、学問の冒涜です。
写真は、大仏切通の西にある深澤小学校の脇にある切岸。
この山の峰を辿ると化粧坂に行く。
街道と間違われた記述もありますが、道幅やアップダウンがあり、
一般的街道の基準には合わず、兵の移動に利用した道と考える。