Z字遺構より尾根の赤点を辿る訳ですが、
この道のイワレは、
明治、大正の時代は「郡道」で有ったそうです。
同様な道に、関本から秦野まで矢倉沢街道が並走しますが、、
関東大震災以降は、こちらの「郡道」がメインに成ったと考えられます。
更に鎌倉時代を考えれば、頼朝の時代に「富士の鷹狩り」が盛んであった様で、「曽我の五郎十郎」の話があり、その鷹狩に使われた道との事です。
富士より一直線で鎌倉に向けて作らた古代東海道が、平安時代を経て鎌倉時代も使われていた根拠がこの話と考えます。
前回の西方向の図とは違い、 下の図は北向と成り尾根道を解りやすく見るアングルです。
右手の黄色いピンマークがZ字道路遺構です。(Google Earth画面)
更に広い範囲の図を示します。(Google Earth画面)
これ等の場所は、関東大震災(1923年)の震源地で断層を生じた場所が松田から秦野であり、当然地形のが影響さてたと考えて居ましたが、、それなりに残っていたようです。
更に言えば、自然災害に影響されにくい場所を選んだ道造りが尾根道と考えられます。
道には品格が在ります。
道幅が有る(経年劣化を考慮)
目的地に向かい直線的である。(直線でない時は障害となる地形地質を考慮)
坂道の傾斜は緩やかである。(急激な傾斜の時はZ字の形をとる)
谷筋は自然災害に弱い為に、尾根筋を通る。
これらは、一般的な古道とは異質な要素です。
道幅が有る(経年劣化を考慮)
目的地に向かい直線的である。(直線でない時は障害となる地形地質を考慮)
坂道の傾斜は緩やかである。(急激な傾斜の時はZ字の形をとる)
谷筋は自然災害に弱い為に、尾根筋を通る。
これらは、一般的な古道とは異質な要素です。
江戸時代の箱根の石畳は、江戸東海道として有名で現在でも立派な石畳が見られます。
しかし、大半は地震等で土砂に埋もれ、現在みられるのは近世に観光用に作られた石畳で、脇に土砂に埋もれた石畳が並走しているのが観察できます。
現代人はこ れらの街道の幅や道の曲がり、急な坂道を基準に、古代道路もこの程度と考えて居た訳ですが、実際の古代道路は、非常に直線的で幅広い道でした。