朝比奈切通の以前は、古代東海道が鶴岡八幡宮前より朝比奈切通しを経て六浦まであり、六浦港より海路で上総へ渡る経路と考えられる。
六浦は、鎌倉幕府が外国と交易する港でもあります。
元寇が鎌倉に攻め寄せた時に海路案内人が行き慣れた六浦港が 攻め込む目標と鎌倉幕府は考えた節があり、東側の守りは堅い。
元が六浦港に船を入れ 鎌倉を攻め込むと考えた時に、最大の防御地点として朝比奈切通が存在する。
古代東海道として平塚に9m幅の道路痕跡が在り、その方向は六浦に向かっています。
更にその道路痕跡として、朝比奈切通は、鎌倉の切通としては破格の広さの7mと成って居り、これが古代東海道の痕跡である根拠です。
この古代東海道を鎌倉時代に朝比奈氏が改造して4m幅にしたと考えて居ます。
その改造の結果、古代東海道の痕跡が朝比奈切通のアチコチに残って居ます。
青色線が鎌倉城の切岸=城壁 で有り、黄色線は朝比奈切通と名越の切通と成る。
七里ヶ浜や由比ヶ浜は、外海で波が荒く遠浅の砂浜で在り、外洋船が停泊しにくい為、主船団は六浦から攻撃してくると幕府は考えた様で西側より東側の六浦面の防御は強固と考えられる。
結果は、
新田義貞は攻撃に楽な鎌倉の西側を攻めた訳ですが、、、それでも化粧坂は落とせなかった!