投稿日時:2017年06月22日
元寇は、鎌倉幕府に遠く離れた地方の出来事ではなく、、
鎌倉に外国の軍隊が攻め込んで来る! そんな緊急で危機感の有る話なのです。
鎌倉に元の軍隊が押し寄せる!、、、幕府は如何に対処したのか!!
その様な「当たり前の想定」に対して、歴史書は何も答えが無い。
1276年、鎌倉幕府は博多湾に石塁を築くよう命じた
元の勅使を斬首して半年後です。
石塁を築いたのは、関西の武士で作り上げた。関東の武士の話は無い。
関東の武士は、この非常時に何をやっていたのか?歴史書も古文献にも答えは無い。
鎌倉現地を観察すれば、巨大な元寇対策と思える要塞が存在する。
外国からの脅威は鎌倉以前にもあり、
663年に白村江の敗戦後、唐の侵攻対策に大宰府を守る水城を作った。
博多湾の対中国防衛のため全国から兵を集めて常駐させたのを防人と言う。
防人に関しては「万葉集」に痕跡を認め900年頃まで存続した様である。
667年、防衛上の為、飛鳥の宮都から近江大津宮に遷都をしたそうである。
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、大和朝廷を揺るがす問題でした。
言葉を変えると、
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、鎌倉幕府を揺るがす問題です。
実際に中国から大群が押し寄せたのです。
1度目の蒙古襲来文である文永の役の翌年に
元の使節5人は山口県下関市に上陸。一行は捕えられ大宰府から鎌倉へ護送された。
1275年9月27日、執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(龍口寺)にて斬首。
遺体は、龍口寺の裏の常立寺へ葬られ、元使塚が作られている。
常立寺 元使塚、 現在も白鳳、朝青龍らモンゴル力士が毎年参拝に来る。
杜世忠らの供養搭。五輪塔には、モンゴルで「英雄」を意味する青い布が巻かれている。
1280年 合浦から出撃した東路軍4万と、明州から出撃した江南軍10万が、壱岐で合流して日本に侵攻するという作戦が決定となる。
九条兼実の「玉葉」において鎌倉城という表現があるが、
『兼実が現地鎌倉の様子を知るはずもなく、玉葉をよく読んでみると都城という意味で使用している』。そんな解釈をした方が居ます。
根拠として確実ではなく「私はそう思う。」と言う曖昧な考えです。
そんな曖昧な根拠で「鎌倉には城が無い!」っと成った訳です。
精神的な安らぎを得る為に城を作ったと主張されているが、、、大間違いでしょ??
文献に頼った研究発表が通用する事態でなく、現に中国から船団が押し寄せ武士を水城まで追い詰める武力を示した!
それに対し、中国に白旗を振るか?徹底抗戦にするのか??
その選択を迫られたのが鎌倉幕府です。
日蓮が、鎌倉幕府に対し『法華経を帰依せず、邪宗を信仰すれば、国難が生じて国が滅ぶ!』と精神論を展開した。
結果は、
南宋より招いた道隆から元の情報を得て元寇対策を行った。
日蓮の「国難が生じて国が滅ぶ」と言う主張は崩れ去り、神風が吹いて元寇の軍団は海に飲まれ消滅した。
神風が吹いたとは言え、精神論では元寇には立ち迎うのは困難と言う訳です。
元寇は、鎌倉幕府に遠く離れた地方の出来事ではなく、、
鎌倉に外国の軍隊が攻め込んで来る! そんな緊急で危機感の有る話なのです。
鎌倉に元の軍隊が押し寄せる!、、、幕府は如何に対処したのか!!
その様な「当たり前の想定」に対して、歴史書は何も答えが無い。
1276年、鎌倉幕府は博多湾に石塁を築くよう命じた
元の勅使を斬首して半年後です。
石塁を築いたのは、関西の武士で作り上げた。関東の武士の話は無い。
関東の武士は、この非常時に何をやっていたのか?歴史書も古文献にも答えは無い。
鎌倉現地を観察すれば、巨大な元寇対策と思える要塞が存在する。
外国からの脅威は鎌倉以前にもあり、
663年に白村江の敗戦後、唐の侵攻対策に大宰府を守る水城を作った。
博多湾の対中国防衛のため全国から兵を集めて常駐させたのを防人と言う。
防人に関しては「万葉集」に痕跡を認め900年頃まで存続した様である。
667年、防衛上の為、飛鳥の宮都から近江大津宮に遷都をしたそうである。
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、大和朝廷を揺るがす問題でした。
言葉を変えると、
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、鎌倉幕府を揺るがす問題です。
実際に中国から大群が押し寄せたのです。
1度目の蒙古襲来文である文永の役の翌年に
元の使節5人は山口県下関市に上陸。一行は捕えられ大宰府から鎌倉へ護送された。
1275年9月27日、執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(龍口寺)にて斬首。
遺体は、龍口寺の裏の常立寺へ葬られ、元使塚が作られている。
常立寺 元使塚、 現在も白鳳、朝青龍らモンゴル力士が毎年参拝に来る。
杜世忠らの供養搭。五輪塔には、モンゴルで「英雄」を意味する青い布が巻かれている。
1280年 合浦から出撃した東路軍4万と、明州から出撃した江南軍10万が、壱岐で合流して日本に侵攻するという作戦が決定となる。
九条兼実の「玉葉」において鎌倉城という表現があるが、
『兼実が現地鎌倉の様子を知るはずもなく、玉葉をよく読んでみると都城という意味で使用している』。そんな解釈をした方が居ます。
根拠として確実ではなく「私はそう思う。」と言う曖昧な考えです。
そんな曖昧な根拠で「鎌倉には城が無い!」っと成った訳です。
精神的な安らぎを得る為に城を作ったと主張されているが、、、大間違いでしょ??
文献に頼った研究発表が通用する事態でなく、現に中国から船団が押し寄せ武士を水城まで追い詰める武力を示した!
それに対し、中国に白旗を振るか?徹底抗戦にするのか??
その選択を迫られたのが鎌倉幕府です。
日蓮が、鎌倉幕府に対し『法華経を帰依せず、邪宗を信仰すれば、国難が生じて国が滅ぶ!』と精神論を展開した。
結果は、
南宋より招いた道隆から元の情報を得て元寇対策を行った。
日蓮の「国難が生じて国が滅ぶ」と言う主張は崩れ去り、神風が吹いて元寇の軍団は海に飲まれ消滅した。
神風が吹いたとは言え、精神論では元寇には立ち迎うのは困難と言う訳です。
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