化粧坂の攻防? 太平記に載って無いジャン!
『太平記』より
新田義貞「鎌倉攻め」にて、最重要視したのが化粧坂でその人数から重要度が理解できる。
新田勢六十万七千余騎の総数ですが、
五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける
此れにより 大半の兵を「粧坂」に割り当てた!
何故化粧坂を目指したのか??
鎌倉七口の中で、化粧坂だけが切通構造ではなかった!
以前は鎌倉幕府に仕え、鎌倉城を自分たちの手で作り上げた砦です。
その構造や弱点は熟知していた筈で、鎌倉城の大手道に入れば、化粧坂に攻め込める。
他の場所は、切通構造なので撃破出来ない困難さが有ったと考えたのです。
大手道は水堰橋から北鎌倉女子高校グラウンド、葛原岡を通り化粧坂まである。
台峰の長い道で弱点を探し攻撃し、台峰上の大手道へ入れば化粧坂に入り込めるのです。
太平記では、
鎌倉勢は「三万余騎にて粧坂を堅めます」が、
新田勢は「五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける」って、、
この人数差は、10倍以上ですが、、、それでも新田軍は突破出来なかった!!
その攻防をした台峰は、、水堰橋から台峰上の大手道より葛原ヶ岡を通り化粧坂へ攻め込む経路と言う訳です。
洲崎の戦いに勝利した新田軍は、山之内に進軍したが、
そこは、大手道入口の水堰橋であり、瓜が谷から台峰や葛原ヶ岡を攻められる場所です。
更に直接化粧坂を目指せば、
古代東海道の遺構と考えられる深沢、梶原、六本松ルートから化粧坂直前の「葛原ヶ岡」を攻めるルートが有ります。
梅松論に攻防が有った場所として「葛原」の名が出てくる。
新田軍が目指したのは化粧坂だが、、戦ったのは台峰や葛原ヶ岡であった。
この記事は古典文献を見れば載っている訳で化粧坂で戦ったという記載は無い。
明治大正時代の考古学者の言葉に鎌倉の青年団が乗せられて 化粧坂の下に石碑迄作った!
素人の素朴な疑問にオーソリティーは、、常識の嘘で答えるのが鎌倉の話です。
何故なら、学者ですら鎌倉の地形を把握できずに、文献も理解せずに先人の受け売りをし学者にアルマジキ無能ぶりです。
自分で見て、考えないと、常識の嘘を見破れない!
この周囲の地形を把握すると、、
防衛側は、どの様に攻め上がる敵を叩くか!
攻撃側は、何処から攻め上がったら良いのか?
自分の感覚で考えれば、鎌倉研究の本が如何に現場を調べず文献を読まずに書かれているか!
理解できる筈です。
考えが正解か否かは、古典の文献が答えを出してくれます。
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