新田軍は化粧坂に4 戦う砦跡 (2018年11月05日 | 大鎌倉城 )
この記事の後継と成る記事です。
以前紹介した長窪砦とは、軍事目的が別な砦です。
鎌倉に侵入する敵軍を、化粧坂に入り込ませない為だけではなく、戦い殺戮する為の砦です。
結果は、砦の真上=峰の道 を守る構造と考えて居ます。
それを実感したくても、巨大過ぎる砦は、細かく見れば全体像が全く掴めず、、
大きく見たくても、住宅地が視界を塞ぎ、宅地が無ければ樹木が砦を隠しているのが現状です。
70年前は、樹木も宅地も少く砦の構造を観察する事が出来る。
終戦直後にUSAが撮った航空写真で、実体視できるのです。
実体視写真 俗に言うステレオ写真で国土地理院のHPにあります。
年代は、1944年から1965年の間で撮られています。詳細は下記へ!
下の写真は、そんな1950年前後の空中写真です。赤い平場は、ワザと攻めやすく作ったトラップです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/61/ec4eb21960b3581491306789f30f7898.jpg)
> 太平記 巻第十 鎌倉合戦事
> 去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の
> 武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着
> られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手
> に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方に
> は大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。
> 其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀
> 口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、
> 其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義
> 貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井
> ・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲
> せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。
対する鎌倉幕府は、
> 義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・
> 城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に
> 分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安
> 房・上総・下野の勢三万余騎にて粧坂を堅めたり。 一方には大
> 仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相
> 随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前
> 相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余
> 騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵
> 十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。
上記太平記より、
新田義貞主力軍は、五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。
注釈:義貞主力軍は現神戸製鋼所より柏尾川に橋を架け「粧坂」に向け進軍した。(ぼ輔記)
鎌倉軍は三万余騎にて粧坂を堅めたり。
注釈:鎌倉軍は、現化粧坂に通じる葛原ヶ岡や台峰に兵を配備した。(ぼ輔記)
六万余騎にて、州崎の敵に被向。
注釈:更に、「粧坂」に向け進軍する新田軍を 阻止する為に鎌倉軍は洲崎に向かった。 (ぼ輔記)
幕府軍は、州崎の義貞の兵に敗れたので、、、
> 「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、
> 続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さて
> こそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。
> 「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、
> 続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さて
> こそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。
注釈:粧坂を目指す義貞の官軍は、洲崎の戦いに勝利し、
「義貞の官軍は山内まで入にけり。」
粧坂に向かう新田軍は、台峰の下に軍を配置した = 「山内まで入にけり」と言う文です。(ぼ輔記)
>『梅松論』16 新田義貞の鎌倉攻め
> 陸奥守貞通(=北条氏)は中の道の大将として葛原において相戦ひ、
注釈:梅松論では「葛原において相戦ひ、」とあり、化粧坂で戦った文は無い。 (ぼ輔記)
> 陸奥守貞通(=北条氏)は中の道の大将として葛原において相戦ひ、
注釈:梅松論では「葛原において相戦ひ、」とあり、化粧坂で戦った文は無い。 (ぼ輔記)
注釈:義貞の官軍は「粧坂」を目指した! しかし粧坂には攻め込めず、稲村の攻撃に変えた。 (ぼ輔記)
注釈:陸奥守貞通は「中の道」を守る意味は、粧坂、葛原ヶ岡、台峰,水堰橋迄の台峰道を守ると考える。(ぼ輔記)
結論は 「粧坂」の戦いは無く、戦った場所は山之内、台峰、葛原と記述されている。
太平記の《其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。》を化粧坂にて戦ったと誤解した訳と推測できる。
粧坂で戦いが有ったと書かれた成書が大半ですが、何を根拠にしたのか?
明治時代に、鎌倉町青年団が建てた根拠不明な石碑文に由来するものと考えられるが、、、
自分では考えず、碑文参考の研究書が大半と考えて居ます。(碑が立派だから信用した?)
「化粧坂碑文」
假粧坂
化粧坂又ハ形勢坂ニ作ル此名称ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ其首ヲ化粧シテ実験ニ備ヘシニ拠リ起ルト言ヒ又一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ拠リ此名ヲ負フト相伝フルモ東鑑ニハ其名見エズ此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ当リ元弘三年五月新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戦場トナレル所ナリ
昭和十五年三月建 鎌倉町青年団
化粧坂又ハ形勢坂ニ作ル此名称ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ其首ヲ化粧シテ実験ニ備ヘシニ拠リ起ルト言ヒ又一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ拠リ此名ヲ負フト相伝フルモ東鑑ニハ其名見エズ此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ当リ元弘三年五月新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戦場トナレル所ナリ
昭和十五年三月建 鎌倉町青年団
上記の碑文が誤解の基に成った訳です。(ぼ輔)
次のテーマは台峰砦の構造です。
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