思うに、学生の頃に学習したことは後になって生きてくることがあることにきづかされることがよくあります。
学校の授業であっても、家での宿題であっても、習ったり学んだことは後になって思い出します。
今の時代、社会の変化が大きく、速いので、昔の知識は古くなり、役に立たないように思えますが、そうではありません。
そのときの知識は、後になって関連した情報と接するとき、「手がかり」になるのです。
漢文などもそうです。たとえば、杜甫の漢詩を学校で習いました。
故人西のかた黄鶴楼を辞し (こうかくろう)
煙花三月揚州に下る (えんか)(ようしゅう)
孤帆の遠影碧空に尽き (こはん) (へきくう)
唯だ見る長江の天際に流るるを (ちょうこう)(てんさい)
これなどは、自分が旅行へ行ったとき、大きな河を見て、そのはてに大きな空と河が接する景色を見たとき、これが「天際」なのかと実感します。
その意味で、知識は荷物にはならないのだと思います。
学校で使う教科書には、たくさんの知識が詰まっています。
それを吸収しようと、真剣に向き合う習慣は将来の自分の人生にいきると、最近になって思います。
学生時代の学習は、他の人と比べずにするものです。
比べるのは、以前の自分、過去の自分です。
どのような学習を重ねてきたのか、どのような心境の変化が起きたかをふりかえります。
そうすると、自分の強み見えてきます。それが自信になるでしょう。
その点で、学習は自分の成長を感じるためにするものだという考えにたどり着きます。
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