20年近く仕事に通っていたし、手話サークルも大和高田に属していたり、大和高田は縁のある町ではあるがあまり知らなくて、今日案内してもらって、町屋 近代建築など多く残り、改めて深い町だなあと感じた。 (順不同です)
先ず、近鉄大和高田駅
開業は大正14年だが、h13年 現駅ビルが完成。
通勤で利用していた時、駅業務をストップしないで、出口や通路を変えながら、だんだん変わって行くのを驚きながら見ていたものだ。 桜の植わった旧駅が懐かしいが、新駅は第3回近畿の駅100選に選ばれているという。
映画棺(旧高田キネマ)だったところは今、大衆演劇場の弁天坐になっている。
かつては大和高田に6か所もあった映画館はみんな廃業になっている。
いつも店の前で信号待ちしていた辻井履物屋さん 昔ながらの下駄なども扱っておられ、弁天坐の役者さんへのプレゼントにもなるらしい。 草履や高下駄や1本歯の下駄など珍しいものが並んでいる。
大正4年築の国際理容院 営業中
高田川 両岸には2キロに渡り1000盆の桜が植えられ、花時は見事だ。
今中央道路と言われている県道が旧高田川の跡。
右)休耕田を利用した綿畑 ここにはコスモスやケナフなどが植えられていたこともある。
大和高田はかつて繊維産業が盛んだった。
この綿畑は、原点を見つめ直しながら新しい挑戦を。との思いがあるらしい。
商工会議所が近くにあるが、商工会よりも幅広く国際的な活動もされるとのこと。
県内の商工会議所は5か所のみだそうだ。
岡本歯科医院 築100年 右)中川印刷所 1855年(安政2年)築
元は木綿を商っていたが、印刷業を開始、月間文芸雑誌「敷島」を創刊。ここは文化の拠点であった。
専立寺 浄土真宗本願寺派のお寺。ここを中心に寺内町が構成された。 太鼓楼はシンボル的存在
高田御坊とも言われ「大和5ヶ所御坊」のひとつ。築地塀の5本線が格式を表している。
創建は1600年(慶長5年)創建当時境内は1町四方あったと言われる。本堂は消失して再建
右)山門前に野口雨情の歌碑 「高田御坊の櫓の太鼓 叩きゃぼんと鳴り ぼんと響く」高田小唄
住職さんのお話を聞き、すばらしい襖絵や書院などを見せていただいた。
お寺は地域の活動にも開放され、住職さんは文化や福祉の活動も長くしておられる。
実は私と高校の同級生。「歳がバレましたね」と参加者に言われてしまった。
境内の庭は白い砂が映える枯山水 凝灰岩の小さい石室がある。
寺建設の際土を持ってきて造成されたが、築山古墳の端の古墳を含んでいたらしくそこから出た石室だという。
「門前町」と「寺内町」同じように思っていたが、門前町は主に寺院を中心に形成され、地割りがされ、水路や土塁を巡らせた自治集落 都市国家で、商業施設だけではなく学校もある。
本堂は火災で消失して再建されたもの。
門のそばにインドボダイジュが植えられていた。大きく育つといいですね。
旧高田産業銀行 昭和2年築 鉄筋 2階建て 後南都銀行本町支店として営業(現 森川商店)
右)宮城医院 昭和元年完成 木造 隣タケウチ宝石時計店はヤマハ創業者ゆかり
旧吉野銀行高田支店 昭和8年築(現モリモトデンキ)
奈良女子大の佐保会館や畝傍高校を設計した岩崎平太郎の設計。国の登録文化財
右)日本聖公会高田基督協会 築140年 明治初めの建物
不動院(大日堂)は高田唯一の重文 聖徳太子の建立と言われている。
三町四方の境内に七堂伽藍の並び立つ立派なお寺だったようだ。
高砂湯 娘たちと入ったことがある。高田の風呂屋さんは今残っているのは3軒だけとか。
あと二つ、機会があれば入りに行こう。
吉村邸 當麻邸 など江戸時代の町屋もあり、全く知らないところもたくさんあった。
近代建築がこんなに多く残っているのも知らなかった。
ちょっと懐かしいところもあった。
解散してから、今日知り合った2人の方と一緒に、コーヒーショップへ。
駅前のそのお店の店主さんは88歳。とてもそんなお歳には見えず生き生きと働いておられる。
応援のつもりで入ったが、お話をしたり、触らせてもらったり・・と、こちらが元気をもらった。
これからもお元気で~。
先ず、近鉄大和高田駅
開業は大正14年だが、h13年 現駅ビルが完成。
通勤で利用していた時、駅業務をストップしないで、出口や通路を変えながら、だんだん変わって行くのを驚きながら見ていたものだ。 桜の植わった旧駅が懐かしいが、新駅は第3回近畿の駅100選に選ばれているという。
映画棺(旧高田キネマ)だったところは今、大衆演劇場の弁天坐になっている。
かつては大和高田に6か所もあった映画館はみんな廃業になっている。
いつも店の前で信号待ちしていた辻井履物屋さん 昔ながらの下駄なども扱っておられ、弁天坐の役者さんへのプレゼントにもなるらしい。 草履や高下駄や1本歯の下駄など珍しいものが並んでいる。
大正4年築の国際理容院 営業中
高田川 両岸には2キロに渡り1000盆の桜が植えられ、花時は見事だ。
今中央道路と言われている県道が旧高田川の跡。
右)休耕田を利用した綿畑 ここにはコスモスやケナフなどが植えられていたこともある。
大和高田はかつて繊維産業が盛んだった。
この綿畑は、原点を見つめ直しながら新しい挑戦を。との思いがあるらしい。
商工会議所が近くにあるが、商工会よりも幅広く国際的な活動もされるとのこと。
県内の商工会議所は5か所のみだそうだ。
岡本歯科医院 築100年 右)中川印刷所 1855年(安政2年)築
元は木綿を商っていたが、印刷業を開始、月間文芸雑誌「敷島」を創刊。ここは文化の拠点であった。
専立寺 浄土真宗本願寺派のお寺。ここを中心に寺内町が構成された。 太鼓楼はシンボル的存在
高田御坊とも言われ「大和5ヶ所御坊」のひとつ。築地塀の5本線が格式を表している。
創建は1600年(慶長5年)創建当時境内は1町四方あったと言われる。本堂は消失して再建
右)山門前に野口雨情の歌碑 「高田御坊の櫓の太鼓 叩きゃぼんと鳴り ぼんと響く」高田小唄
住職さんのお話を聞き、すばらしい襖絵や書院などを見せていただいた。
お寺は地域の活動にも開放され、住職さんは文化や福祉の活動も長くしておられる。
実は私と高校の同級生。「歳がバレましたね」と参加者に言われてしまった。
境内の庭は白い砂が映える枯山水 凝灰岩の小さい石室がある。
寺建設の際土を持ってきて造成されたが、築山古墳の端の古墳を含んでいたらしくそこから出た石室だという。
「門前町」と「寺内町」同じように思っていたが、門前町は主に寺院を中心に形成され、地割りがされ、水路や土塁を巡らせた自治集落 都市国家で、商業施設だけではなく学校もある。
本堂は火災で消失して再建されたもの。
門のそばにインドボダイジュが植えられていた。大きく育つといいですね。
旧高田産業銀行 昭和2年築 鉄筋 2階建て 後南都銀行本町支店として営業(現 森川商店)
右)宮城医院 昭和元年完成 木造 隣タケウチ宝石時計店はヤマハ創業者ゆかり
旧吉野銀行高田支店 昭和8年築(現モリモトデンキ)
奈良女子大の佐保会館や畝傍高校を設計した岩崎平太郎の設計。国の登録文化財
右)日本聖公会高田基督協会 築140年 明治初めの建物
不動院(大日堂)は高田唯一の重文 聖徳太子の建立と言われている。
三町四方の境内に七堂伽藍の並び立つ立派なお寺だったようだ。
高砂湯 娘たちと入ったことがある。高田の風呂屋さんは今残っているのは3軒だけとか。
あと二つ、機会があれば入りに行こう。
吉村邸 當麻邸 など江戸時代の町屋もあり、全く知らないところもたくさんあった。
近代建築がこんなに多く残っているのも知らなかった。
ちょっと懐かしいところもあった。
解散してから、今日知り合った2人の方と一緒に、コーヒーショップへ。
駅前のそのお店の店主さんは88歳。とてもそんなお歳には見えず生き生きと働いておられる。
応援のつもりで入ったが、お話をしたり、触らせてもらったり・・と、こちらが元気をもらった。
これからもお元気で~。