中尾山古墳や高松塚古墳を違う角度から遠めに眺め・キトラ古墳の上に出るというコースを案内していただいた。
途中、ここへ出るのか。ここは前に来たことがある。通ったことがある。という所もあったが面白いコースだった。
いつも近くを通る中尾山古墳は遠くの尾根に小さい見える。 高松塚古墳もこんな方から見たことがない。
南北に3つの尾根があり、中の尾根に築かれたのが「中尾山」の由来を聞いて、へえ~~。
中尾山古墳は「真の文武天皇陵」という説が有力で、その理由も説明してくださった。
天皇や大王級の墓に多い八角墳であること。石室が小さく火葬墓と考えられること。そのころの天皇を考えると文武天皇になるらしい。
明日香村に縁のある「タチバナ」の木を植えるプロジェクトがあるらしい。作業に来ている人の姿が見えた。最近は山の辺の道でも同じようにタチバナが植えられているのを見かける。
タチバナは垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして探させたという不老不死の霊力を持った木、非時香実(ときじくのかぐのこのみ)がそれと言われる。
右)果樹園に吊るされた赤い液体入りペットボトル。虫対策にしては蓋が閉まっているし、なんだろう?
調べてみたら、種なしブドウを作る時、着粒の安定化や、粒を大きくするために、花序・果序を数回ジベレリン液に浸す。
そして、その作業で、ブドウの房を浸けていく液入り容器に液が足りなくなった時、首から下げたペットボトル入りの液を補充するらしい。
私は納得したが、「違うよ」という方は正解を教えてください。
今、文武天皇・檜隈安古陵と宮内庁が比定しているこの場所は、栗原塚穴古墳と言われていたそうだ。明治時代にここへ文武天皇陵が遷されたらしい。
今日のコースにはミカン畑(ハッサク?)がたくさんあった。
木にも実は残っていたが、摘果されたのか木の下にはたくさんのミカンが捨てられて、私たち主婦にしてみれば「もったいない~」
勝手に拾うわけにもいかないので、横目に見て通り過ぎた。
吉野川分水 しっかり蓋がされて暗渠化している。
御所市の日野分水工から東西に分かれた、ここは東部幹線水路が通っている。
ここから桜井・三輪などに配水されていく。
道端にちょこんとお地蔵様 見れば道しるべ。
地元では「栗原野仏」と言われているというお地蔵様 右)おかでら と書かれた地蔵道標だった。
息子は道標を調べていて約1000基ぐらいは調査済み。たくさんの道標を地図に落としこんでいる。
でも、ここは観光ルートともいえない人通りもないちょっと辺鄙なところにあるので「これは知らないだろう。教えてやろう」と思ったら・・
「知ってるよ。ハスの花を持った可愛い地蔵さまで好きだよ」と。
まあこんなところまでよく知ってるねと感心。右)私の写真ではうまく写っていない「右おかでら」の字や「蓮の花」もばっちり写った写真を送ってくれた。
栗原寺(呉原寺)という古代寺院があったというあたり、金堂・講堂・西大門・中門 などの位置がわかっているらしい。
今は説明版が建つだけだ。金堂跡と言われたところは確かに平らで、言われればそう見える。
栗原という地名は雄略期に檜隈あたりに呉人が入植したところから呉原と呼ばれ、それがなまって栗原という地名になったとのこと。
その渡来系氏族が栗原寺(呉原寺)を建てたらしい。竹林寺ともよばれたそうだが、後で行く竹林寺と関係があるのかどうか。
また、僧・道昭が「日本で初めて」火葬にふされたのもこのあたりらしい。
屋根の鬼瓦に竹林寺の掘り込みが見える。 古そうな灯篭や礎石が残る竹林寺。
分厚いガラスのような氷が出来ていた。
隣は「呉津彦神社」呉人の祖神を祀ったらしいが、今は此花咲耶姫命と天児屋命が祀られている。
右)ムクロジの巨木
小尾根を抜けると・・ キトラ古墳の上に出た。
墳丘の横の石仏 これは何かな? 四神の館でお弁当を食べる。
その後、今公開中の「キトラ古墳北壁の壁画・玄武」を見る。
実物の壁画は写真撮影禁止。 これは四神の館で映像を撮ったもの。
展示も見たが、まだまだ見切れていない。
冬の時期で、植物観察するほどでもなく、歴史散歩のようだったが、昼食後、今日の担当の方から「大根の話」があった。
根はどれか?茎はどれか?・・前にも聞いたことはあるがじっくりと聞かせていただいた。
ひげ根のある部分が根で、その上の緑色がかった所は胚軸、茎は葉が付いている短い部分。
大根のひげ根は2列になっているのは知らなかった。 右)帰り道の畑の大根。この時期、地上に長く伸びている。
於美阿志神社は古代の寺院・檜隈寺の後に建つ。(明治時代に少し西から移転)
檜隈寺の講堂跡や塔跡などがある。塔跡に建つ13重(上部を欠き実際には11重)の石塔は重文指定されている。
また、宣化天皇(28代)檜隈廬入野宮跡(ひのくまいおりののみやあと)の石碑が建つ。
飛鳥駅近くで解散となる。
途中、ここへ出るのか。ここは前に来たことがある。通ったことがある。という所もあったが面白いコースだった。
いつも近くを通る中尾山古墳は遠くの尾根に小さい見える。 高松塚古墳もこんな方から見たことがない。
南北に3つの尾根があり、中の尾根に築かれたのが「中尾山」の由来を聞いて、へえ~~。
中尾山古墳は「真の文武天皇陵」という説が有力で、その理由も説明してくださった。
天皇や大王級の墓に多い八角墳であること。石室が小さく火葬墓と考えられること。そのころの天皇を考えると文武天皇になるらしい。
明日香村に縁のある「タチバナ」の木を植えるプロジェクトがあるらしい。作業に来ている人の姿が見えた。最近は山の辺の道でも同じようにタチバナが植えられているのを見かける。
タチバナは垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして探させたという不老不死の霊力を持った木、非時香実(ときじくのかぐのこのみ)がそれと言われる。
右)果樹園に吊るされた赤い液体入りペットボトル。虫対策にしては蓋が閉まっているし、なんだろう?
調べてみたら、種なしブドウを作る時、着粒の安定化や、粒を大きくするために、花序・果序を数回ジベレリン液に浸す。
そして、その作業で、ブドウの房を浸けていく液入り容器に液が足りなくなった時、首から下げたペットボトル入りの液を補充するらしい。
私は納得したが、「違うよ」という方は正解を教えてください。
今、文武天皇・檜隈安古陵と宮内庁が比定しているこの場所は、栗原塚穴古墳と言われていたそうだ。明治時代にここへ文武天皇陵が遷されたらしい。
今日のコースにはミカン畑(ハッサク?)がたくさんあった。
木にも実は残っていたが、摘果されたのか木の下にはたくさんのミカンが捨てられて、私たち主婦にしてみれば「もったいない~」
勝手に拾うわけにもいかないので、横目に見て通り過ぎた。
吉野川分水 しっかり蓋がされて暗渠化している。
御所市の日野分水工から東西に分かれた、ここは東部幹線水路が通っている。
ここから桜井・三輪などに配水されていく。
道端にちょこんとお地蔵様 見れば道しるべ。
地元では「栗原野仏」と言われているというお地蔵様 右)おかでら と書かれた地蔵道標だった。
息子は道標を調べていて約1000基ぐらいは調査済み。たくさんの道標を地図に落としこんでいる。
でも、ここは観光ルートともいえない人通りもないちょっと辺鄙なところにあるので「これは知らないだろう。教えてやろう」と思ったら・・
「知ってるよ。ハスの花を持った可愛い地蔵さまで好きだよ」と。
まあこんなところまでよく知ってるねと感心。右)私の写真ではうまく写っていない「右おかでら」の字や「蓮の花」もばっちり写った写真を送ってくれた。
栗原寺(呉原寺)という古代寺院があったというあたり、金堂・講堂・西大門・中門 などの位置がわかっているらしい。
今は説明版が建つだけだ。金堂跡と言われたところは確かに平らで、言われればそう見える。
栗原という地名は雄略期に檜隈あたりに呉人が入植したところから呉原と呼ばれ、それがなまって栗原という地名になったとのこと。
その渡来系氏族が栗原寺(呉原寺)を建てたらしい。竹林寺ともよばれたそうだが、後で行く竹林寺と関係があるのかどうか。
また、僧・道昭が「日本で初めて」火葬にふされたのもこのあたりらしい。
屋根の鬼瓦に竹林寺の掘り込みが見える。 古そうな灯篭や礎石が残る竹林寺。
分厚いガラスのような氷が出来ていた。
隣は「呉津彦神社」呉人の祖神を祀ったらしいが、今は此花咲耶姫命と天児屋命が祀られている。
右)ムクロジの巨木
小尾根を抜けると・・ キトラ古墳の上に出た。
墳丘の横の石仏 これは何かな? 四神の館でお弁当を食べる。
その後、今公開中の「キトラ古墳北壁の壁画・玄武」を見る。
実物の壁画は写真撮影禁止。 これは四神の館で映像を撮ったもの。
展示も見たが、まだまだ見切れていない。
冬の時期で、植物観察するほどでもなく、歴史散歩のようだったが、昼食後、今日の担当の方から「大根の話」があった。
根はどれか?茎はどれか?・・前にも聞いたことはあるがじっくりと聞かせていただいた。
ひげ根のある部分が根で、その上の緑色がかった所は胚軸、茎は葉が付いている短い部分。
大根のひげ根は2列になっているのは知らなかった。 右)帰り道の畑の大根。この時期、地上に長く伸びている。
於美阿志神社は古代の寺院・檜隈寺の後に建つ。(明治時代に少し西から移転)
檜隈寺の講堂跡や塔跡などがある。塔跡に建つ13重(上部を欠き実際には11重)の石塔は重文指定されている。
また、宣化天皇(28代)檜隈廬入野宮跡(ひのくまいおりののみやあと)の石碑が建つ。
飛鳥駅近くで解散となる。