思いついて広瀬神社へ。
そこからのコースは特に決めていなかったが、気の向く方へ。
このあたりの合流点をいくつかと、近くの古墳や寺・神社などまわる。
個人ガイド付きなので、聞こえないという心配もなく、何度でも聞き返せ、好きなところへ行けるのでうれしい。
ただ、素人ガイドなので100%正確とは言えないかもしれないが、地形や道標や街道やいろいろ得意分野を教えてくれる。
広瀬神社
「広瀬大社」と書かれていることもあるが、鳥居の扁額や由緒書きには「広瀬神社」と書いてあるのでそれに従う。
有名な「砂かけ祭り(御田植祭り)」が2月11日あったばかり。ここには来たことがない。
一の鳥をくぐる。両脇にはうっそうと木立が繁る長い参道。途中には境内社?や灯篭が並ぶ。
今日の素人ガイドによると、昔は街道が神社を抜けて通っていたらしい。
境内の右側は堤のような高まりになっていた。
二の鳥居 これまでの砂利道と違って、ここから中は細かい砂が敷かれていた。
毎年2月11日に行われる「砂かけ祭り」は御田植祭で、砂を雨に見立てた祈雨の神事。この境内でおこなわれるようだ。
河合町の無形文化財に指定されている。
やっと拝殿前に到着。 拝殿の左右には左近の桜・右近の橘(果実あり)が植えてある。
右)本殿は奈良県指定文化財に指定されている。
多くの川の合流する水上交通の要衝に位置し、崇神天皇時代の創建と伝わる広瀬神社。立派な神社だ。
『祭神は水の神・水田を守る神「若宇加能売命(わかうかのめのみこと)」
往時の建物は戦乱により焼失し、現在に残る最古の建物は正徳元年に造営された本殿』
「河合町川合」地名のとおり、ここは多くの川が流れ込むところ。交通の要衝でもあり洪水地帯でもあった。
今日は①曽我川→大和川 ②高田川→曽我川 ③飛鳥川→大和川 の3つの合流地点を回った。
①大和川と曽我川の合流地点
広瀬神社から少し歩いたところにある。
堤防を降りてみた。 目の前に合流点 手前曽我川が向こう側の大和川に流入。
家の近くを流れる曽我川。2013年2月には御所市重阪(へいさか)の谷間から流れ出る「曽我川源流」を見に行った。
今日はここで曽我川の最終地点を確認できた。
広瀬神社の西まで戻り、太鼓橋(広瀬橋)を渡って西の集落の方へ。
この太鼓橋は広瀬神社の西の入り口になっているようだ。なぜ太鼓橋なのか?今はコンクリート製だが何かいわれがありそうな。
下の小さい川は不毛田川と書いてあった。 「ふけ」というのは湿地の意味もあるという。
集落は少し小高い位置にある。
木立があり行ってみると「水分社」小さい社だが、説明版によると持統5年の創建で、子守社ともいうらしい。
河合町道路元票
「道路原票」とは明治(6年)に政府の通達により、全国すべての自治体に全国統一規格で建てられたらしい。
(新しい道路法ができて今は無効)町の中心地に建つ。この辺は市場といい商店街の並ぶ街道だったらしい。
右)街道を思わせる街並み。
大和川には昔、渡し船があり、船運の荷揚げをした河合浜もあったという。
名残はないらしいが、見に行くことにした。
御幸瀬の渡(こごせのわたし)・河合浜跡
西名阪自動車道の近く、御幸橋そばに掲示板があった。 御幸瀬の渡(こごせのわたし)・河合浜はこのあたりだったのか?
ゆったりとした景色を想像してみる。
市場集落まで戻る。
城山古墳
案内板も説明版もない。墳頂上は果樹園・畑になっていた。クスノキの大木があるところが後円部か?
向こう側へ無理やり降りる。
河合大塚山古墳
説明版もあった。先の城山古墳など8基を大塚古墳群というらしい。周濠は田んぼになっている。
登って見たが頂上には明治天皇が軍隊演習を見に来られた時のことを記した大きい石碑があるばかり。
右)下り道に クヌギからタケが生えていた。
長楽の道標
四方に字が彫られている有名な道標らしいが知らなかった。そばに説明版もあった。
こうや・たかだ・たいま・ほうりゅうじ・・など。 嘉永4年に文右衛門が発願して建立したとも記されている。
②高田川と曽我川の合流地点
手前・高田川が向こう・曽我川に流入
川の堤防でおにぎりを食べる。
曽我川・保田橋を渡り、川西町に入る。
六縣神社(むつがたじんじゃ)
六縣神社は高市命・葛木命・十市命・志貴命・山辺命・曽布命の六懸命を祀る。
子出来おんだ祭り(県の無形文化財)がある。
境内へ入って立派なお堂が目についた。
清涼山福貴寺
福貴寺は六縣神社と境内を1つにした神宮寺 法隆寺夢殿を再興した道栓律師によって建立したと伝わる。
寄棟づくり本瓦葺きの本堂は南北朝期のもので重文 美しい瓦屋根
本尊・木造釈迦如来坐像と、脇侍・木造地蔵菩薩立像も重文だそうだ。
左の写真で右側に写っている『「本堂横のお堂」の前身は平安時代の3重の塔で、荒廃して東京の細川邸に写され、その後法隆寺に移されて、今は法隆寺に単層の塔として残されている』
曽我川右岸を北へ。蛇行跡が感じられる道を歩く。
曽我川の中に橋脚が建つ。「県道天理王寺線バイパス工事」と書いてあった。
川が何本もあるというのは陸上交通は不便なものだ。ここから北へ道は続いていても渡る橋がない。
この橋でずいぶん便利になるだろう。
飛鳥川新保田橋を渡り、磯城郡川西町に入る。
③飛鳥川と大和川の合流地点
合流地点を内側から見る。左、飛鳥川 右、大和川 飛鳥川の最下流も見届けた。
大和川に架かる太子橋を渡り、生駒郡安堵町に入る。
堤防下の大神宮灯篭や杵築神社に立ち寄り、西名阪自動車道の近くの御幸橋を渡って河合町に戻る。
広瀬神社西側の不毛田川でゴイサギ幼鳥(ホシゴイ)が私たちを気にすることもなくゆっくりゆっくり歩いて楽しませてくれた。
11キロ6時間のお散歩だった。
そこからのコースは特に決めていなかったが、気の向く方へ。
このあたりの合流点をいくつかと、近くの古墳や寺・神社などまわる。
個人ガイド付きなので、聞こえないという心配もなく、何度でも聞き返せ、好きなところへ行けるのでうれしい。
ただ、素人ガイドなので100%正確とは言えないかもしれないが、地形や道標や街道やいろいろ得意分野を教えてくれる。
広瀬神社
「広瀬大社」と書かれていることもあるが、鳥居の扁額や由緒書きには「広瀬神社」と書いてあるのでそれに従う。
有名な「砂かけ祭り(御田植祭り)」が2月11日あったばかり。ここには来たことがない。
一の鳥をくぐる。両脇にはうっそうと木立が繁る長い参道。途中には境内社?や灯篭が並ぶ。
今日の素人ガイドによると、昔は街道が神社を抜けて通っていたらしい。
境内の右側は堤のような高まりになっていた。
二の鳥居 これまでの砂利道と違って、ここから中は細かい砂が敷かれていた。
毎年2月11日に行われる「砂かけ祭り」は御田植祭で、砂を雨に見立てた祈雨の神事。この境内でおこなわれるようだ。
河合町の無形文化財に指定されている。
やっと拝殿前に到着。 拝殿の左右には左近の桜・右近の橘(果実あり)が植えてある。
右)本殿は奈良県指定文化財に指定されている。
多くの川の合流する水上交通の要衝に位置し、崇神天皇時代の創建と伝わる広瀬神社。立派な神社だ。
『祭神は水の神・水田を守る神「若宇加能売命(わかうかのめのみこと)」
往時の建物は戦乱により焼失し、現在に残る最古の建物は正徳元年に造営された本殿』
「河合町川合」地名のとおり、ここは多くの川が流れ込むところ。交通の要衝でもあり洪水地帯でもあった。
今日は①曽我川→大和川 ②高田川→曽我川 ③飛鳥川→大和川 の3つの合流地点を回った。
①大和川と曽我川の合流地点
広瀬神社から少し歩いたところにある。
堤防を降りてみた。 目の前に合流点 手前曽我川が向こう側の大和川に流入。
家の近くを流れる曽我川。2013年2月には御所市重阪(へいさか)の谷間から流れ出る「曽我川源流」を見に行った。
今日はここで曽我川の最終地点を確認できた。
広瀬神社の西まで戻り、太鼓橋(広瀬橋)を渡って西の集落の方へ。
この太鼓橋は広瀬神社の西の入り口になっているようだ。なぜ太鼓橋なのか?今はコンクリート製だが何かいわれがありそうな。
下の小さい川は不毛田川と書いてあった。 「ふけ」というのは湿地の意味もあるという。
集落は少し小高い位置にある。
木立があり行ってみると「水分社」小さい社だが、説明版によると持統5年の創建で、子守社ともいうらしい。
河合町道路元票
「道路原票」とは明治(6年)に政府の通達により、全国すべての自治体に全国統一規格で建てられたらしい。
(新しい道路法ができて今は無効)町の中心地に建つ。この辺は市場といい商店街の並ぶ街道だったらしい。
右)街道を思わせる街並み。
大和川には昔、渡し船があり、船運の荷揚げをした河合浜もあったという。
名残はないらしいが、見に行くことにした。
御幸瀬の渡(こごせのわたし)・河合浜跡
西名阪自動車道の近く、御幸橋そばに掲示板があった。 御幸瀬の渡(こごせのわたし)・河合浜はこのあたりだったのか?
ゆったりとした景色を想像してみる。
市場集落まで戻る。
城山古墳
案内板も説明版もない。墳頂上は果樹園・畑になっていた。クスノキの大木があるところが後円部か?
向こう側へ無理やり降りる。
河合大塚山古墳
説明版もあった。先の城山古墳など8基を大塚古墳群というらしい。周濠は田んぼになっている。
登って見たが頂上には明治天皇が軍隊演習を見に来られた時のことを記した大きい石碑があるばかり。
右)下り道に クヌギからタケが生えていた。
長楽の道標
四方に字が彫られている有名な道標らしいが知らなかった。そばに説明版もあった。
こうや・たかだ・たいま・ほうりゅうじ・・など。 嘉永4年に文右衛門が発願して建立したとも記されている。
②高田川と曽我川の合流地点
手前・高田川が向こう・曽我川に流入
川の堤防でおにぎりを食べる。
曽我川・保田橋を渡り、川西町に入る。
六縣神社(むつがたじんじゃ)
六縣神社は高市命・葛木命・十市命・志貴命・山辺命・曽布命の六懸命を祀る。
子出来おんだ祭り(県の無形文化財)がある。
境内へ入って立派なお堂が目についた。
清涼山福貴寺
福貴寺は六縣神社と境内を1つにした神宮寺 法隆寺夢殿を再興した道栓律師によって建立したと伝わる。
寄棟づくり本瓦葺きの本堂は南北朝期のもので重文 美しい瓦屋根
本尊・木造釈迦如来坐像と、脇侍・木造地蔵菩薩立像も重文だそうだ。
左の写真で右側に写っている『「本堂横のお堂」の前身は平安時代の3重の塔で、荒廃して東京の細川邸に写され、その後法隆寺に移されて、今は法隆寺に単層の塔として残されている』
曽我川右岸を北へ。蛇行跡が感じられる道を歩く。
曽我川の中に橋脚が建つ。「県道天理王寺線バイパス工事」と書いてあった。
川が何本もあるというのは陸上交通は不便なものだ。ここから北へ道は続いていても渡る橋がない。
この橋でずいぶん便利になるだろう。
飛鳥川新保田橋を渡り、磯城郡川西町に入る。
③飛鳥川と大和川の合流地点
合流地点を内側から見る。左、飛鳥川 右、大和川 飛鳥川の最下流も見届けた。
大和川に架かる太子橋を渡り、生駒郡安堵町に入る。
堤防下の大神宮灯篭や杵築神社に立ち寄り、西名阪自動車道の近くの御幸橋を渡って河合町に戻る。
広瀬神社西側の不毛田川でゴイサギ幼鳥(ホシゴイ)が私たちを気にすることもなくゆっくりゆっくり歩いて楽しませてくれた。
11キロ6時間のお散歩だった。