チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2010.03.02 阪神大震災の日、香港に居た私(その9)
(その9)
実は、母のことでは、もう1つ、不思議なことがあるのです。
そのもう1つの不思議なこととは、次のことです。
私とT さんは、元々同じ職場で働いておりました。
彼女は、あっさりとした性格で、人気者でした。
又、酒豪で、豪放磊落な性格で、飲み歩き食べ歩きが大好きで、ご主人が単身赴任なことを良いことに(!)、
あちこちの店に行っていました。
私は、誘われて、よく一緒に遊んでいました。
そんな時、母に、「今日はTさんと飲みに行くから。」といつも電話していました。
彼女が転職した後も、よく会っていましたが、その後、母が亡くなり、私が職種を変更して他県へ転勤
となって、仕事が多忙を極め、毎晩11時頃迄仕事が終わらなくなり、たまにしか会えなくなりました。
一方、彼女は、転職先であのHanaさんと出会い、意気投合し、最高の遊び相手に恵まれたのです。
そういうことから、私はTさんと会う頻度は、以前より少なくなっていました。
そんなある時、彼女のなじみの店で、久しぶりに会って飲んでいる時、彼女は、突然、こう言ったのです。
「あんたに、今迄、言うてなかったけど、うち、あんたのお母さんから、電話貰ったことがあるんよ。」と。
え? 母が?
どうして、母はTさんに電話したんだろう?
どうして、Tさんの電話番号を知ったのだろう?
そして、何の用事だったんだろう?
私が訝っていると、彼女は言いました。
「あんたのことが心配で溜まらない言うて、どうかくれぐれもよろしくお願いします言うて、あんたのこと、
頼まれたんよ。」そして、「お母さん、心配してはったで~。」と教えてくれました。
母が亡くなってから、5年程経って、Tさんから、こんな告白を聞いたのでした。
それから更に5年程経ち、母が亡くなってから10年目に、母から、私のことをくれぐれも頼むと言われ
ていたTさんが、地震の直前になって、私を香港に連れ出してくれることになったのは、偶然だったので
しょうか?
……これは、偶然かも知れませんね。私は、思い込みの激しい性格ですから、注意が必要です。
しかし、今年になって、おとといのことです。(2月28日)
Tさんの誕生会をした時(最近彼女も誕生会仲間に加わりましたので)、私は丁度良いチャンスだと思って、
このことをもう一度、Tさんに確認しました。
そして、私は、驚きました。
何と! 私の母がTさんに、「私のことを頼む」と電話したのは、亡くなる直前だったと言うのです。
一週間前か、10日前か、その辺ははっきりしないけれど(なにしろ母が亡くなったのは今から25年前の
ことですから)、電話を貰った直後に、私の母が亡くなったので、その時Tさんは、「あっ!…」と思った
と言っていました。
不思議なことは、これだけではありません。
その他にも、地震が起きることを、私はまさか知っていたのだろうか?(潜在意識?第六感?予知能力?)、
又は、それを知っていた何かがそうさせたのか?としか思えない不思議なことが、いくつもあったのです。
(その10へ続く)
実は、母のことでは、もう1つ、不思議なことがあるのです。
そのもう1つの不思議なこととは、次のことです。
私とT さんは、元々同じ職場で働いておりました。
彼女は、あっさりとした性格で、人気者でした。
又、酒豪で、豪放磊落な性格で、飲み歩き食べ歩きが大好きで、ご主人が単身赴任なことを良いことに(!)、
あちこちの店に行っていました。
私は、誘われて、よく一緒に遊んでいました。
そんな時、母に、「今日はTさんと飲みに行くから。」といつも電話していました。
彼女が転職した後も、よく会っていましたが、その後、母が亡くなり、私が職種を変更して他県へ転勤
となって、仕事が多忙を極め、毎晩11時頃迄仕事が終わらなくなり、たまにしか会えなくなりました。
一方、彼女は、転職先であのHanaさんと出会い、意気投合し、最高の遊び相手に恵まれたのです。
そういうことから、私はTさんと会う頻度は、以前より少なくなっていました。
そんなある時、彼女のなじみの店で、久しぶりに会って飲んでいる時、彼女は、突然、こう言ったのです。
「あんたに、今迄、言うてなかったけど、うち、あんたのお母さんから、電話貰ったことがあるんよ。」と。
え? 母が?
どうして、母はTさんに電話したんだろう?
どうして、Tさんの電話番号を知ったのだろう?
そして、何の用事だったんだろう?
私が訝っていると、彼女は言いました。
「あんたのことが心配で溜まらない言うて、どうかくれぐれもよろしくお願いします言うて、あんたのこと、
頼まれたんよ。」そして、「お母さん、心配してはったで~。」と教えてくれました。
母が亡くなってから、5年程経って、Tさんから、こんな告白を聞いたのでした。
それから更に5年程経ち、母が亡くなってから10年目に、母から、私のことをくれぐれも頼むと言われ
ていたTさんが、地震の直前になって、私を香港に連れ出してくれることになったのは、偶然だったので
しょうか?
……これは、偶然かも知れませんね。私は、思い込みの激しい性格ですから、注意が必要です。
しかし、今年になって、おとといのことです。(2月28日)
Tさんの誕生会をした時(最近彼女も誕生会仲間に加わりましたので)、私は丁度良いチャンスだと思って、
このことをもう一度、Tさんに確認しました。
そして、私は、驚きました。
何と! 私の母がTさんに、「私のことを頼む」と電話したのは、亡くなる直前だったと言うのです。
一週間前か、10日前か、その辺ははっきりしないけれど(なにしろ母が亡くなったのは今から25年前の
ことですから)、電話を貰った直後に、私の母が亡くなったので、その時Tさんは、「あっ!…」と思った
と言っていました。
不思議なことは、これだけではありません。
その他にも、地震が起きることを、私はまさか知っていたのだろうか?(潜在意識?第六感?予知能力?)、
又は、それを知っていた何かがそうさせたのか?としか思えない不思議なことが、いくつもあったのです。
(その10へ続く)
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2010.02.28 阪神大震災の日、香港に居た私(その8)
(その8)
この一連の話では、前章(その7)が、中核だと思います。
(それ以前の章は、このことを述べる為の長い序章でした。)
私は、今迄、この出来事を、殆ど、人には語ったことはありませんでした。親友達にさえも。
一度だけ、震災直後に長兄に話したことは覚えています。それを聞いた長兄は、深く目を閉じていました。
私は、何故、今迄、このことを人に語ることが出来なかったのか?
理由は、それを語れば、まさしく自分が生き延びたことを何か意味あることの様にとらえ、それどころか、
自分の善行(?)へのご褒美だと言う風な、思い上がった尊大な話になってしまうことを恐れたからです。
だったら、あの時亡くなった、多くの方々は、どうなるのか?
私などとは、比べ物にならない素晴らしい人々が、大勢亡くなっています。前途のある若い人々も。
長らく、固く口を閉ざしていた私でしたが、今年になって、このブログで、迎春用品の話からスワロスキー
の小物の話になり、それを買って来たいきさつに話が及び、やがて香港の話にどんどん繋がって流れが出来
て行くに至り、もはや、私には止め様のない流れになったことを感じて、とうとう、この話を書く時が来た
のだと思いました。
できたら、避けて通りたい、書きたくない話題でした。
ついに、その話をするのか、という気持ちでした。
この不思議な出来事を信じてもらえるか、又、それを私の筆力で著し得るものか、その不安もありました。
特に、前章(その7)を載せるについては、文章は出来上がっても、UPする勇気がなくて悩んでいました。
すると、クリスチャンの友人が、こう言って励ましてくれました。
「<何事にも時がある>と言う言葉が、聖書にあるのよ。コヘレトの言葉3章に、書いてある。今、貴女は、
書く時なのよ。震災から、もう15年経ったのだから、もう書いたって良いのよ。今がその時なのよ。」と。
確かに、震災から15年経った今、話しても良い時かも知れません。
自分は、その時、こんな経験をしたと言う、ありのままのことを、一人の被災者として語る訳ですから…。
そして又、ここで、今、書いておかなければ、もう忘れてしまいます。
今が限度です。今でさえ、記憶は薄れかけていますから。
小心者の私は、今回お話しするに至った経緯と心境を、「ひとこと」説明しないと気が済まないことから、
この様な、言い訳の一章を書かせて頂いた次第です。
この後、まだ、不思議な話が続きます。
後半、うまく纏まりますことやら、おぼつかないですが、お読み頂ければ、大変有難く存じます。
(その9へ続く)
この一連の話では、前章(その7)が、中核だと思います。
(それ以前の章は、このことを述べる為の長い序章でした。)
私は、今迄、この出来事を、殆ど、人には語ったことはありませんでした。親友達にさえも。
一度だけ、震災直後に長兄に話したことは覚えています。それを聞いた長兄は、深く目を閉じていました。
私は、何故、今迄、このことを人に語ることが出来なかったのか?
理由は、それを語れば、まさしく自分が生き延びたことを何か意味あることの様にとらえ、それどころか、
自分の善行(?)へのご褒美だと言う風な、思い上がった尊大な話になってしまうことを恐れたからです。
だったら、あの時亡くなった、多くの方々は、どうなるのか?
私などとは、比べ物にならない素晴らしい人々が、大勢亡くなっています。前途のある若い人々も。
長らく、固く口を閉ざしていた私でしたが、今年になって、このブログで、迎春用品の話からスワロスキー
の小物の話になり、それを買って来たいきさつに話が及び、やがて香港の話にどんどん繋がって流れが出来
て行くに至り、もはや、私には止め様のない流れになったことを感じて、とうとう、この話を書く時が来た
のだと思いました。
できたら、避けて通りたい、書きたくない話題でした。
ついに、その話をするのか、という気持ちでした。
この不思議な出来事を信じてもらえるか、又、それを私の筆力で著し得るものか、その不安もありました。
特に、前章(その7)を載せるについては、文章は出来上がっても、UPする勇気がなくて悩んでいました。
すると、クリスチャンの友人が、こう言って励ましてくれました。
「<何事にも時がある>と言う言葉が、聖書にあるのよ。コヘレトの言葉3章に、書いてある。今、貴女は、
書く時なのよ。震災から、もう15年経ったのだから、もう書いたって良いのよ。今がその時なのよ。」と。
確かに、震災から15年経った今、話しても良い時かも知れません。
自分は、その時、こんな経験をしたと言う、ありのままのことを、一人の被災者として語る訳ですから…。
そして又、ここで、今、書いておかなければ、もう忘れてしまいます。
今が限度です。今でさえ、記憶は薄れかけていますから。
小心者の私は、今回お話しするに至った経緯と心境を、「ひとこと」説明しないと気が済まないことから、
この様な、言い訳の一章を書かせて頂いた次第です。
この後、まだ、不思議な話が続きます。
後半、うまく纏まりますことやら、おぼつかないですが、お読み頂ければ、大変有難く存じます。
(その9へ続く)
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2010.02.26 阪神大震災の日、香港に居た私(その7)
(その7)
母は、震災の10年前に亡くなっていたのですが、生前の母に、私がいつもしていたことがありました。
それは、地震など、何か怖いことが起こると、真夜中でもいつでも、私は母のところに駆け寄り、両腕の
中にしっかり抱いて、「大丈夫よ、大丈夫よ。」と言っていたことです。
人間年を取ると、耳も、目も、感覚も鈍って来るので,何が起こっているのか把握出来難くなり、それが
恐怖に繋がるのだと言う、私の持論がありました。
母が、白内障の手術をした時は大昔で、私は30代の始めだったと思います。
その当時の白内障の手術は、入院1カ月間砂枕で頭を固定されていて、退院後も1カ月自宅安静という、
大手術でした。(介護疲れの私は、通勤電車のつり革に掴まりながら熟睡して、膝が大きくガクンガクン
するので恥ずかしかったことを思い出します。洗濯機に脱水が付いてなかった時代の真夏の入院でした。)
そういう時、私は疑似体験と言うものをしようとするのが常でした。
そんな状況の場合、どんな不自由があるのか、どんな心理になるのか、知りたいと思うことからでした。
…と言うのは、年を取って、自分がそうなってから気付くのでは、あまりに悲しすぎると思うからです。
それは、気付かなかった自分への自責を伴うからです。
できたら、早めに似た様な体験をしてみて、全く同じではなくても(同じになれる筈はもちろん無くても)、
理解を持っておきたいと言う気持ちが、強くありました。
その時、私は近くの国道2号線に行き、瞼を半眼にし視力を暗くして、じっと国道の騒音を聴きました。
すると、今迄とは全く違った、底知れない響きのある騒音となり、訳の分からない怖さを感じました。
人が、横をすり抜けて行く気配にも、体当たりされないかと、怖さで身がすくみました。
視力が薄くなると言うことは、当然のことながら、それだけで、恐怖が増すのです。
視力が衰え、さらには耳が遠くなると、ますます理解力を失い、何が起こっているのか分からないので、
恐怖は倍加します。脳の機能が衰えたら、なおさらのことです。
何が起こっているのか分からないということほど、怖いものは無いと思います。
その上、年を取ると、身体が利かなくなるので、危険を避けることも難しいので、恐怖は益々加わります。
そういうことを、疑似体験は、少しでも教えてくれる様に思いました。
出来たら、そんな経験を先にしておいて、親の老後に備えたいと考えました。
むろん、どんなことをしても、本当のところは、自分がその年になってみないと分からないことは、承知
していましたが、せめて、努力だけはしたいと思いました。
そんな私にとって、地震などのとき、年老いた母の恐怖を軽減することは、大切な役目でした。
そうゆう気持ちが、地震が起こった時に、母を両腕の中に抱きしめるという習慣になったのだと思います。
そんな時、いつも、小柄な母の頭が、私の左の頬に当たっていました。
母が、私をじっと見上げている(感謝のまなざし?)こともありました。
その視線です。まさしく、その視線なのです。私の左の頬に突然張り付いたのは!
香港のテレビで神戸の惨状を見た瞬間、まさに、母のその視線が、私の左の頬に、「パン!」と貼り付いた
のです。
そうか、そうだったのか・・・?
母が、私を此処へやってくれたのだ。
地震を避ける為に、私を海外へ逃してくれたのだ。
そう言うことだったのか!
私は、そう思いました。
衝撃でした。
そして、その視線は、その後も数日間、私の左頬に張り付いたままだったのです。
(その8へ続く)
母は、震災の10年前に亡くなっていたのですが、生前の母に、私がいつもしていたことがありました。
それは、地震など、何か怖いことが起こると、真夜中でもいつでも、私は母のところに駆け寄り、両腕の
中にしっかり抱いて、「大丈夫よ、大丈夫よ。」と言っていたことです。
人間年を取ると、耳も、目も、感覚も鈍って来るので,何が起こっているのか把握出来難くなり、それが
恐怖に繋がるのだと言う、私の持論がありました。
母が、白内障の手術をした時は大昔で、私は30代の始めだったと思います。
その当時の白内障の手術は、入院1カ月間砂枕で頭を固定されていて、退院後も1カ月自宅安静という、
大手術でした。(介護疲れの私は、通勤電車のつり革に掴まりながら熟睡して、膝が大きくガクンガクン
するので恥ずかしかったことを思い出します。洗濯機に脱水が付いてなかった時代の真夏の入院でした。)
そういう時、私は疑似体験と言うものをしようとするのが常でした。
そんな状況の場合、どんな不自由があるのか、どんな心理になるのか、知りたいと思うことからでした。
…と言うのは、年を取って、自分がそうなってから気付くのでは、あまりに悲しすぎると思うからです。
それは、気付かなかった自分への自責を伴うからです。
できたら、早めに似た様な体験をしてみて、全く同じではなくても(同じになれる筈はもちろん無くても)、
理解を持っておきたいと言う気持ちが、強くありました。
その時、私は近くの国道2号線に行き、瞼を半眼にし視力を暗くして、じっと国道の騒音を聴きました。
すると、今迄とは全く違った、底知れない響きのある騒音となり、訳の分からない怖さを感じました。
人が、横をすり抜けて行く気配にも、体当たりされないかと、怖さで身がすくみました。
視力が薄くなると言うことは、当然のことながら、それだけで、恐怖が増すのです。
視力が衰え、さらには耳が遠くなると、ますます理解力を失い、何が起こっているのか分からないので、
恐怖は倍加します。脳の機能が衰えたら、なおさらのことです。
何が起こっているのか分からないということほど、怖いものは無いと思います。
その上、年を取ると、身体が利かなくなるので、危険を避けることも難しいので、恐怖は益々加わります。
そういうことを、疑似体験は、少しでも教えてくれる様に思いました。
出来たら、そんな経験を先にしておいて、親の老後に備えたいと考えました。
むろん、どんなことをしても、本当のところは、自分がその年になってみないと分からないことは、承知
していましたが、せめて、努力だけはしたいと思いました。
そんな私にとって、地震などのとき、年老いた母の恐怖を軽減することは、大切な役目でした。
そうゆう気持ちが、地震が起こった時に、母を両腕の中に抱きしめるという習慣になったのだと思います。
そんな時、いつも、小柄な母の頭が、私の左の頬に当たっていました。
母が、私をじっと見上げている(感謝のまなざし?)こともありました。
その視線です。まさしく、その視線なのです。私の左の頬に突然張り付いたのは!
香港のテレビで神戸の惨状を見た瞬間、まさに、母のその視線が、私の左の頬に、「パン!」と貼り付いた
のです。
そうか、そうだったのか・・・?
母が、私を此処へやってくれたのだ。
地震を避ける為に、私を海外へ逃してくれたのだ。
そう言うことだったのか!
私は、そう思いました。
衝撃でした。
そして、その視線は、その後も数日間、私の左頬に張り付いたままだったのです。
(その8へ続く)
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2010.02.24 阪神大震災の日、香港に居た私(その6)
(その6)
夕食は、香港島のお店で済ませていましたので、ホテルに帰ったら、後はお風呂と寝るだけでした。
Tさんに先にお風呂に入って貰って、次に私がお風呂に入っている時のことです。
突然、Tさんが、バスルームのドアを激しくドンドンと叩いて、大きな声で叫びました。
「ちょっとちょっと、早よ出て来て!、早く早く、テレビ見て!」と言って、激しく叩き続けます。
私は、あわてて濡れたまま、バスルームから飛び出しました。
そして、目の前のテレビに映っている光景を見て、びっくりしました。
凄まじい火事です。
真っ赤な大きな炎がめらめらと、大きく燃え広がっている恐ろしい光景です。
何よりも驚いたのは、テレビの下に出ていた文字なのです。
そこには、「神戸市長田区」と言う文字があったのです。
もちろん、流れている言葉は、分かりません。
でも、それは関係ないのです。
日本人には漢字が分かるので、テレビの画面を見れば、何が起こっているのか、理解できました。
神戸市長田区で、凄まじい大火事が起こっているということが…。
そして、続いて、出て来た画面を見て、私は仰天しました。
何と、阪神高速道路が、ぽっきりと折れて地面に横倒しになっている写真が写っていました。
そして、その下によく知っている文字があったのです。
それは、信じられないことに、我が家のすぐ南の町の町名でした。
あの、歩いて10分掛からない、我が家の南にある見慣れた高速道路が折れて地面に落下している
信じられない惨状が、はっきりと写っていました。
その時、初めて、私は神戸に何が起こったかを知りました。
私は、凍り付いた様に、画面を見つめて立ちすくんでいました。
その瞬間です。
まさに思いがけないことが起こりました。
私の左の頬に、母の視線が、パンと張り付いたのです。
(その7へ続く)
夕食は、香港島のお店で済ませていましたので、ホテルに帰ったら、後はお風呂と寝るだけでした。
Tさんに先にお風呂に入って貰って、次に私がお風呂に入っている時のことです。
突然、Tさんが、バスルームのドアを激しくドンドンと叩いて、大きな声で叫びました。
「ちょっとちょっと、早よ出て来て!、早く早く、テレビ見て!」と言って、激しく叩き続けます。
私は、あわてて濡れたまま、バスルームから飛び出しました。
そして、目の前のテレビに映っている光景を見て、びっくりしました。
凄まじい火事です。
真っ赤な大きな炎がめらめらと、大きく燃え広がっている恐ろしい光景です。
何よりも驚いたのは、テレビの下に出ていた文字なのです。
そこには、「神戸市長田区」と言う文字があったのです。
もちろん、流れている言葉は、分かりません。
でも、それは関係ないのです。
日本人には漢字が分かるので、テレビの画面を見れば、何が起こっているのか、理解できました。
神戸市長田区で、凄まじい大火事が起こっているということが…。
そして、続いて、出て来た画面を見て、私は仰天しました。
何と、阪神高速道路が、ぽっきりと折れて地面に横倒しになっている写真が写っていました。
そして、その下によく知っている文字があったのです。
それは、信じられないことに、我が家のすぐ南の町の町名でした。
あの、歩いて10分掛からない、我が家の南にある見慣れた高速道路が折れて地面に落下している
信じられない惨状が、はっきりと写っていました。
その時、初めて、私は神戸に何が起こったかを知りました。
私は、凍り付いた様に、画面を見つめて立ちすくんでいました。
その瞬間です。
まさに思いがけないことが起こりました。
私の左の頬に、母の視線が、パンと張り付いたのです。
(その7へ続く)
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2010.02.22 阪神大震災の日、香港に居た私(その5)
(その5)
14日(土)15日(日)16日(月)と、楽しく過ぎて行きました。
毎日、有名な中華料理店や、ホテルで、素晴らしい料理を堪能しました。
そして、いよいよ、明日は日本に帰るという前の日の、17日(火)のことです。
皆で、九龍から、香港島へ行くフェリーに乗っていました。
その時、仲間の一人が、怪訝な様子で、「何か変なんよ。…でもそんなはず無いしね。」と言いました。
聞いてみると、「現地の人が読んでいた新聞に、不思議なことが書いてあった。」と言うのです。
もちろん、日本語の新聞ではなく、現地の新聞なので、漢字の字面だけを、とっさに見ただけなので、
まさかと思うけれどと口ごもりながら、「新聞に、<大阪>、<大地震>、<200人死亡>と言う文字が
あった様に思う。」と言いました。
あわてて、廻りの現地の人を見回すと,新聞を持っている人は、見当たりませんでした。
新聞売り場を探しましたが、それも、とうとう見つかりませんでした。
記事を見たという仲間も、勘違いかも知れないと自信が無く、皆も、「まさかね。それは無いでしょう。」
ということになりました。
「でも、もし大阪でそんな大地震があったのなら、神戸も少しは揺れたでしょうね。」
「200人も死亡したのなら、かなり大きいからね。」
「でも、それはうそやわ。関西には地震はこないはずやもん。」
その頃、関西には地震が来ないと信じられていたので、やっぱり間違いだとの意見に落ち着きました。
フェリーが香港島に着きましたので、降りて、一応「日本大使館」に電話することになりました。
私が電話したと思います。
おそるおそる「日本で地震が起こったと新聞に載っていたと言う人が居るのですが、まさかそんなこと
ありませんよね。」と聞きました。
私は、てっきり、「え?何のことですか?」と言われるものと思っていました。
しかし、全く意外な言葉が返って来たのです。
日本大使館員の答えは、「はっきりしたことは分かりませんが、神戸でかなりの地震が発生したのは確かな
様です。でも、こちらも、何の情報も入って来ておりませんので、把握しかねております。後は、ホテル
のテレビを見て確認して下さい。」とのことでした。
(日本国内でも、情報は把握できず、事態が判明し出したのは相当遅かったことを、後で聞きました。)
それを、Tさんに伝えましたら、「今日は、普通にみんなと同じ様に行動してな。気イ使わせたらいかん
から。」というので、それからは、何も無かった様に、香港島の美味しい店へ食べに行って、いろいろな
買物に延々と付き合って、夜遅くになってホテルに戻って来ました。
もう、明日は帰るという最後の日でしたので、遊び納めと言う感じの一日でした。
最初は気になっていた地震のことも、焦りはだんだん薄れて行き、と言うより、心配してもしょうがない、
帰ってみないと何も分からないんだから、と言う気持ちになり、ホテルに戻った時は、不思議なことに、
もうほとんど頭に無かった様に思います。
(その6へ続く)
14日(土)15日(日)16日(月)と、楽しく過ぎて行きました。
毎日、有名な中華料理店や、ホテルで、素晴らしい料理を堪能しました。
そして、いよいよ、明日は日本に帰るという前の日の、17日(火)のことです。
皆で、九龍から、香港島へ行くフェリーに乗っていました。
その時、仲間の一人が、怪訝な様子で、「何か変なんよ。…でもそんなはず無いしね。」と言いました。
聞いてみると、「現地の人が読んでいた新聞に、不思議なことが書いてあった。」と言うのです。
もちろん、日本語の新聞ではなく、現地の新聞なので、漢字の字面だけを、とっさに見ただけなので、
まさかと思うけれどと口ごもりながら、「新聞に、<大阪>、<大地震>、<200人死亡>と言う文字が
あった様に思う。」と言いました。
あわてて、廻りの現地の人を見回すと,新聞を持っている人は、見当たりませんでした。
新聞売り場を探しましたが、それも、とうとう見つかりませんでした。
記事を見たという仲間も、勘違いかも知れないと自信が無く、皆も、「まさかね。それは無いでしょう。」
ということになりました。
「でも、もし大阪でそんな大地震があったのなら、神戸も少しは揺れたでしょうね。」
「200人も死亡したのなら、かなり大きいからね。」
「でも、それはうそやわ。関西には地震はこないはずやもん。」
その頃、関西には地震が来ないと信じられていたので、やっぱり間違いだとの意見に落ち着きました。
フェリーが香港島に着きましたので、降りて、一応「日本大使館」に電話することになりました。
私が電話したと思います。
おそるおそる「日本で地震が起こったと新聞に載っていたと言う人が居るのですが、まさかそんなこと
ありませんよね。」と聞きました。
私は、てっきり、「え?何のことですか?」と言われるものと思っていました。
しかし、全く意外な言葉が返って来たのです。
日本大使館員の答えは、「はっきりしたことは分かりませんが、神戸でかなりの地震が発生したのは確かな
様です。でも、こちらも、何の情報も入って来ておりませんので、把握しかねております。後は、ホテル
のテレビを見て確認して下さい。」とのことでした。
(日本国内でも、情報は把握できず、事態が判明し出したのは相当遅かったことを、後で聞きました。)
それを、Tさんに伝えましたら、「今日は、普通にみんなと同じ様に行動してな。気イ使わせたらいかん
から。」というので、それからは、何も無かった様に、香港島の美味しい店へ食べに行って、いろいろな
買物に延々と付き合って、夜遅くになってホテルに戻って来ました。
もう、明日は帰るという最後の日でしたので、遊び納めと言う感じの一日でした。
最初は気になっていた地震のことも、焦りはだんだん薄れて行き、と言うより、心配してもしょうがない、
帰ってみないと何も分からないんだから、と言う気持ちになり、ホテルに戻った時は、不思議なことに、
もうほとんど頭に無かった様に思います。
(その6へ続く)
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2010.02.20 阪神大震災の日、香港に居た私(その4)
(その4)
香港旅行は、1月13日(金)から18日(水)と決まりました。バーゲン時期に合わせて行くとのこと。
(1月13日は、祝日だった様に記憶しますが、何の祝日だったか、本当はどうだったか分かりません。
逆にネットで調べたら、16日(月)は振替休日だったとありますが、それは、その頃「成人の日」は
15日だったので、その振替だったのだなと思います。15年前の記憶は、薄れていくものですね。)
Tさんから電話があり、「ごめんな。普通はバーゲンに行くときは、金土日の3日で帰るもんやけど、
今回は、なんでか変則的な日程になってしまってん。その次の「月火水」も含めて合計6日やねん。
変わってるでしょ?大丈夫?休み取れる?」とのこと。
私は、休暇はたっぷりあるし、連続休暇も取っていなかったので、それを充てるので、大丈夫でした。
(それが、偶然というか、幸いというか、震災後のその週は、まるで復興作業を予測でもしていたかの様
に、全部有給休暇を取っていたのです。もちろん、復興そのものはその後延々1年以上掛かりましたが…。)
しかも、それどころではありません。
その変則的な日程が組まれていたお陰で私は命拾いをしたのです。
香港にバーゲンに行く時に通常組まれると言う「3連休旅行」であったならば、私は、旅行から帰った
ところへ、地震の直撃を受けた訳ですから。
今回だけ、何故か変則的な旅行日程を組んでくれた、Hana さんに感謝しても感謝しきれません。
そして、いよいよ、長年の念願叶って、私は香港へ行ったのです。
香港に到着早々、香港通のHanaさんの案内で、楽しいショッピングや、食べ歩きが始まりました。
到着してすぐ、私以外の全員(6人で行きましたので、5人が)、ひどい風邪を引き、ダウンしてホテル
で寝込んでしまいました。
何度も香港に来たことのある5人が風邪を引いてしまい、香港初めての私だけが元気なので、皆が気の
毒がりましたが、私は大丈夫よと言うしか無く、一人で香港の街を見物しました。
難しい路地に入って行く訳ではなく、大通りだけならば何とかなると思いました。
教えて貰ったペニンシュラホテルでは、有名なアフタヌーンティーを、一人で頂いたのも思い出です。
風邪の5人も、すぐ回復し、続いて、観光が始まりました。
さすが、Hanaさんの教えてくれるお店は、すごいなと思いました。
高級なお店と、地元の人で賑わう場末のお店と、両方連れて行って貰いました。
食べ物だけでなく、おしゃれの店にも、沢山行きました。
その中の1軒の店で、私は、あのスワロスキーの小物と出会ったのです。
他の仲間は、服やバッグを買っていて、私の買う小物などには、何の興味もなさそうでした。
スワロスキーの小物の種類は沢山ありましたが、随分悩んで買って来たのが、あの9点でした。
もっと欲しかったのですが、我慢しました。
今、見ていると、もっと買っておけば良かったなと思います。
(『2010.02.12 スワロスキー達を、ご紹介します。」)
(『2010.02.10 やっと日の目を見たスワロスキー達」)
(その5へ続く)
香港旅行は、1月13日(金)から18日(水)と決まりました。バーゲン時期に合わせて行くとのこと。
(1月13日は、祝日だった様に記憶しますが、何の祝日だったか、本当はどうだったか分かりません。
逆にネットで調べたら、16日(月)は振替休日だったとありますが、それは、その頃「成人の日」は
15日だったので、その振替だったのだなと思います。15年前の記憶は、薄れていくものですね。)
Tさんから電話があり、「ごめんな。普通はバーゲンに行くときは、金土日の3日で帰るもんやけど、
今回は、なんでか変則的な日程になってしまってん。その次の「月火水」も含めて合計6日やねん。
変わってるでしょ?大丈夫?休み取れる?」とのこと。
私は、休暇はたっぷりあるし、連続休暇も取っていなかったので、それを充てるので、大丈夫でした。
(それが、偶然というか、幸いというか、震災後のその週は、まるで復興作業を予測でもしていたかの様
に、全部有給休暇を取っていたのです。もちろん、復興そのものはその後延々1年以上掛かりましたが…。)
しかも、それどころではありません。
その変則的な日程が組まれていたお陰で私は命拾いをしたのです。
香港にバーゲンに行く時に通常組まれると言う「3連休旅行」であったならば、私は、旅行から帰った
ところへ、地震の直撃を受けた訳ですから。
今回だけ、何故か変則的な旅行日程を組んでくれた、Hana さんに感謝しても感謝しきれません。
そして、いよいよ、長年の念願叶って、私は香港へ行ったのです。
香港に到着早々、香港通のHanaさんの案内で、楽しいショッピングや、食べ歩きが始まりました。
到着してすぐ、私以外の全員(6人で行きましたので、5人が)、ひどい風邪を引き、ダウンしてホテル
で寝込んでしまいました。
何度も香港に来たことのある5人が風邪を引いてしまい、香港初めての私だけが元気なので、皆が気の
毒がりましたが、私は大丈夫よと言うしか無く、一人で香港の街を見物しました。
難しい路地に入って行く訳ではなく、大通りだけならば何とかなると思いました。
教えて貰ったペニンシュラホテルでは、有名なアフタヌーンティーを、一人で頂いたのも思い出です。
風邪の5人も、すぐ回復し、続いて、観光が始まりました。
さすが、Hanaさんの教えてくれるお店は、すごいなと思いました。
高級なお店と、地元の人で賑わう場末のお店と、両方連れて行って貰いました。
食べ物だけでなく、おしゃれの店にも、沢山行きました。
その中の1軒の店で、私は、あのスワロスキーの小物と出会ったのです。
他の仲間は、服やバッグを買っていて、私の買う小物などには、何の興味もなさそうでした。
スワロスキーの小物の種類は沢山ありましたが、随分悩んで買って来たのが、あの9点でした。
もっと欲しかったのですが、我慢しました。
今、見ていると、もっと買っておけば良かったなと思います。
(『2010.02.12 スワロスキー達を、ご紹介します。」)
(『2010.02.10 やっと日の目を見たスワロスキー達」)
(その5へ続く)
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2010.02.18 阪神大震災の日、香港に居た私(その3)
(その3)
それから、4年経った1994年11月のことです。(震災の前年の秋、震災2カ月前のことです。)
突然、Tさんから、電話が架かって来ました。
「あんた、まだ香港へ行く気イある?」
多分、私がいつもコロコロ変わる人なので、「え?何のこと?」などと言うかと思ったはずです。
でも、私は言いました。「うん。行く気あるよ。絶対行きたいよ。」と。
彼女は言いました。
「そう?…いや実はね、又香港に行こうかという案があるんよ。それであんたを思い出したんよ。」
私は、しめた!と思いました。
忘れられない程、以前に充分言っておいた結果が出たのです。
私は、必ずこの日が来ると思っていました。
喜んだ私は、すぐさま、その頃、自宅の近くにあったサティーに走りました。
サムソナイトを買う為にです。
サティー甲南山手店(今は閉店)は、その時丁度「開店3周年記念セール」をしていて、全店商品
3割引きだったのです。
しかも、サティーは、その当時、「誕生月1割引きサービス」をしていて、私は11月生まれなので、
その案内の葉書が来ていて、それを持って行けば更に1割引きとなるのです。
私は、4割引で、綺麗な紫色のサムソナイトを購入して帰って来ました。
さっそく、Tさんに電話しました。
「サムソナイト買って来たよ。」と。
彼女は、びっくりして、「あんた~、早過ぎるわ~。まだ、行こうかという案があると言うただけよ。
5月にシンガポールに行く話もあって、まだどっちにするか、全然決まってへんのに。」と言いました。
それは、百も承知なのです。充分、聞いていました。
ですから、こうしてあわてて既成事実を作ろうとした訳です。
私も大した知能犯ですね。
それから、数日してTさんから電話が架かって来ました。
「あんたが、サムソナイトまで買うてしもて、もう行く気になってるんで、香港行き本決まりにせな
しゃ~ないな~言うことになって、『香港行き』決まったよ。」
私は、やった~!と、思いました。
「しかし、サムソナイトなんて、香港で買うもんよ。向こうは安いのにー。行くときはカンブクロに
入れて行って、皆、向こうで買うて帰って来るんよ。」
「そうだとしても、私は先に買ってしまう必要があったのである」とは、私も言いませんでした。
(その4へ続く)
それから、4年経った1994年11月のことです。(震災の前年の秋、震災2カ月前のことです。)
突然、Tさんから、電話が架かって来ました。
「あんた、まだ香港へ行く気イある?」
多分、私がいつもコロコロ変わる人なので、「え?何のこと?」などと言うかと思ったはずです。
でも、私は言いました。「うん。行く気あるよ。絶対行きたいよ。」と。
彼女は言いました。
「そう?…いや実はね、又香港に行こうかという案があるんよ。それであんたを思い出したんよ。」
私は、しめた!と思いました。
忘れられない程、以前に充分言っておいた結果が出たのです。
私は、必ずこの日が来ると思っていました。
喜んだ私は、すぐさま、その頃、自宅の近くにあったサティーに走りました。
サムソナイトを買う為にです。
サティー甲南山手店(今は閉店)は、その時丁度「開店3周年記念セール」をしていて、全店商品
3割引きだったのです。
しかも、サティーは、その当時、「誕生月1割引きサービス」をしていて、私は11月生まれなので、
その案内の葉書が来ていて、それを持って行けば更に1割引きとなるのです。
私は、4割引で、綺麗な紫色のサムソナイトを購入して帰って来ました。
さっそく、Tさんに電話しました。
「サムソナイト買って来たよ。」と。
彼女は、びっくりして、「あんた~、早過ぎるわ~。まだ、行こうかという案があると言うただけよ。
5月にシンガポールに行く話もあって、まだどっちにするか、全然決まってへんのに。」と言いました。
それは、百も承知なのです。充分、聞いていました。
ですから、こうしてあわてて既成事実を作ろうとした訳です。
私も大した知能犯ですね。
それから、数日してTさんから電話が架かって来ました。
「あんたが、サムソナイトまで買うてしもて、もう行く気になってるんで、香港行き本決まりにせな
しゃ~ないな~言うことになって、『香港行き』決まったよ。」
私は、やった~!と、思いました。
「しかし、サムソナイトなんて、香港で買うもんよ。向こうは安いのにー。行くときはカンブクロに
入れて行って、皆、向こうで買うて帰って来るんよ。」
「そうだとしても、私は先に買ってしまう必要があったのである」とは、私も言いませんでした。
(その4へ続く)
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2010.02.16 阪神大震災の日、香港に居た私(その2)
(その2)
旅行嫌いの私ですが、どうしても香港にだけは、行きたかったのです。
それも、中国に返還される前の香港に、行きたかったのです。
香港は中国に返還されることが決まっていて、その頃もう返還の6年程前になっていました。
私は、終戦前に中国の上海で生まれました。
敗戦で、幼い頃、日本に引き上げて来ましたので、記憶はおぼろげですが、そのおぼろげな
記憶に繋がる物が、何か見つかるかもしれないと思い、その昔の何か(主に味覚の方面)を
求めて香港に行って見たかったのです。
私は、共産圏に入る前の香港を見たかったのです。
何故なら、その頃、中国を旅した人達から、「もう二度と中国には行かない。」「お金を貰った
としても、中国にだけはもう行きたくない。」とか「物を買う時も売る方がけんか腰よ。なんで、
こんな嫌な思いをしないといけないのと思った。」等、中国旅行の悪評を散々聞いていました。
そんなことから、中国に返還されたら、香港の街の雰囲気や風物が別物になるのではないかと
危惧を感じていました。
とにかく、もし昔の中国の面影が残っているとしたら、今の香港しかないのではと思いました。
昔の中国と言っても、私が幼い頃過ごしたところは、日本人だけが住む、いわゆる日本疎開で、
沢山の住宅が大きな壁で囲われた場所で、中国人社会から隔離されていましたし、その入り口
には、雇われて、中国人の門番がいました。
ある日、子供達で遊んで居た時、奥の方のぴったり閉じられていた、大きな裏門の向こうから、
賑やかなピーヒャラという笛の音や、大きなドラや太鼓の音が聞こえて来たので、おそるおそる
裏門の方へ近づき、下の隙間から覗くと、晴れやかな衣装を纏った一団が行進していました。
多分結婚式かお祭りだったと思います。中国人社会を垣間見た、数少ない経験の1つです。
小学校は、日本人小学校で、疎開の門の眞向かいにあり、その小学校の門には、いつも数人の
背の高いインド人の門兵が立っていました。
中国の街に出るのは、家族みんなで、父に中華料理を食べに連れて行ってもらう時や、母の買い
物に付いて行って、甘い物屋(それも日本人経営)に入る時ぐらいで(でも、何度か大きな中国
の市場で、沢山の鶏や野菜類を見た記憶はあります。)、淡い記憶しかありませんし、ましてや、
香港の様な喧噪の街とは無縁の生活でした。
でも、何故か中国は懐かしい。
特に、その時の極上の中華料理の味や、ほかほかの豚饅頭(1度だけ、道ばたでおじいさんが
蒸かしていた、あつあつのものを買って貰いました。最高でした。)の美味しさは、私の味覚の
思い出の原点になっていて、ぜひ、今のうちに香港を訪ねて、はるか昔の中国の面影を求めたい
と願っていたのです。
上海から遠く離れているけど、行ったこともない香港だけど、行って見たいと私は熱望しました。
(その3に続きます。)
旅行嫌いの私ですが、どうしても香港にだけは、行きたかったのです。
それも、中国に返還される前の香港に、行きたかったのです。
香港は中国に返還されることが決まっていて、その頃もう返還の6年程前になっていました。
私は、終戦前に中国の上海で生まれました。
敗戦で、幼い頃、日本に引き上げて来ましたので、記憶はおぼろげですが、そのおぼろげな
記憶に繋がる物が、何か見つかるかもしれないと思い、その昔の何か(主に味覚の方面)を
求めて香港に行って見たかったのです。
私は、共産圏に入る前の香港を見たかったのです。
何故なら、その頃、中国を旅した人達から、「もう二度と中国には行かない。」「お金を貰った
としても、中国にだけはもう行きたくない。」とか「物を買う時も売る方がけんか腰よ。なんで、
こんな嫌な思いをしないといけないのと思った。」等、中国旅行の悪評を散々聞いていました。
そんなことから、中国に返還されたら、香港の街の雰囲気や風物が別物になるのではないかと
危惧を感じていました。
とにかく、もし昔の中国の面影が残っているとしたら、今の香港しかないのではと思いました。
昔の中国と言っても、私が幼い頃過ごしたところは、日本人だけが住む、いわゆる日本疎開で、
沢山の住宅が大きな壁で囲われた場所で、中国人社会から隔離されていましたし、その入り口
には、雇われて、中国人の門番がいました。
ある日、子供達で遊んで居た時、奥の方のぴったり閉じられていた、大きな裏門の向こうから、
賑やかなピーヒャラという笛の音や、大きなドラや太鼓の音が聞こえて来たので、おそるおそる
裏門の方へ近づき、下の隙間から覗くと、晴れやかな衣装を纏った一団が行進していました。
多分結婚式かお祭りだったと思います。中国人社会を垣間見た、数少ない経験の1つです。
小学校は、日本人小学校で、疎開の門の眞向かいにあり、その小学校の門には、いつも数人の
背の高いインド人の門兵が立っていました。
中国の街に出るのは、家族みんなで、父に中華料理を食べに連れて行ってもらう時や、母の買い
物に付いて行って、甘い物屋(それも日本人経営)に入る時ぐらいで(でも、何度か大きな中国
の市場で、沢山の鶏や野菜類を見た記憶はあります。)、淡い記憶しかありませんし、ましてや、
香港の様な喧噪の街とは無縁の生活でした。
でも、何故か中国は懐かしい。
特に、その時の極上の中華料理の味や、ほかほかの豚饅頭(1度だけ、道ばたでおじいさんが
蒸かしていた、あつあつのものを買って貰いました。最高でした。)の美味しさは、私の味覚の
思い出の原点になっていて、ぜひ、今のうちに香港を訪ねて、はるか昔の中国の面影を求めたい
と願っていたのです。
上海から遠く離れているけど、行ったこともない香港だけど、行って見たいと私は熱望しました。
(その3に続きます。)
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2010.02.14 阪神大震災の日、香港に居た私(その1)
(その1)
私は、あの阪神大震災の日に、日本にはおらず、香港に居たのです。
それは、不思議な不思議なお話です。
もともとのきっかけは、阪神大震災の4年前、私の兄夫婦が、香港に旅行することになり、
「何処へ行ったら良いか、確か詳しい人が居るって言ってたけど、その人に教えて貰って
呉れない?」と頼まれたことから始まりました。
私の親友Tさんは、彼女の職場の仲間達と、ハワイや、東南アジアなどへの旅行三昧で、
いつも、Tさんからそんな話を聞いていて、私は、兄達にも、その話を伝えていたのです。
Tさんの仲間の一人に大変な旅行通の女性が居て、その人を中心に旅行していました。
香港には、もう10回も行ったとのことでした。(バーゲンと、食べ歩きです。)
Tさんに、「その彼女に香港の素敵なお店を教えて貰って欲しい」と頼みました。
そして、その旅行通の女性、Hanaさんが手描きで作ってくれた小冊子の「香港案内」が、
何とも素晴らしいものだったのです。彼女は、希代の(?)食通でもあるのです。
私は驚嘆して、この小冊子そのものは兄に渡すことはせず、コピーをとって、コピーの方を
兄に渡し、原本は私が大切に保管しました。
同時に、自分が香港へ行くときは、絶対にこのHanaさんと一緒に行きたいと思いました。
私はTさんへ頼みました。
「次に、香港に行く時は、絶対に私も連れて行ってね。」と…。
すると、彼女は「もう,行かへんわ。香港には10回も行ったんよ。それ以上行かへんわ。」
「でも、もし、又行くことがあったら、連れて行ってね。Hanaさんに頼んでおいてね。」
「もう行くことないって。10回も行ったんよ。それ以上行くわけ無いやん。」
私は、ここでひるんだらいけないと思いました。
「うん。分かった。でも、もし行くことがあったら…よ。その時はお願いね。」
「もう、行かへんって!、10回以上も,何しに行くの?」
「うん、分かった。分かったけど、でも、もしもよ。もしも行くことがあったらお願いね。」
そんな、押し問答がまだ続きました。
私は、彼女にひつこく擦り込みをしようとしたのでした。汗;;
(このぐらい言っておけば、大丈夫だろうと思えるところ迄。)
私には、絶対に覚えて置いて欲しいと言う、強固な思いがありました。
(その2に続きます。)
私は、あの阪神大震災の日に、日本にはおらず、香港に居たのです。
それは、不思議な不思議なお話です。
もともとのきっかけは、阪神大震災の4年前、私の兄夫婦が、香港に旅行することになり、
「何処へ行ったら良いか、確か詳しい人が居るって言ってたけど、その人に教えて貰って
呉れない?」と頼まれたことから始まりました。
私の親友Tさんは、彼女の職場の仲間達と、ハワイや、東南アジアなどへの旅行三昧で、
いつも、Tさんからそんな話を聞いていて、私は、兄達にも、その話を伝えていたのです。
Tさんの仲間の一人に大変な旅行通の女性が居て、その人を中心に旅行していました。
香港には、もう10回も行ったとのことでした。(バーゲンと、食べ歩きです。)
Tさんに、「その彼女に香港の素敵なお店を教えて貰って欲しい」と頼みました。
そして、その旅行通の女性、Hanaさんが手描きで作ってくれた小冊子の「香港案内」が、
何とも素晴らしいものだったのです。彼女は、希代の(?)食通でもあるのです。
私は驚嘆して、この小冊子そのものは兄に渡すことはせず、コピーをとって、コピーの方を
兄に渡し、原本は私が大切に保管しました。
同時に、自分が香港へ行くときは、絶対にこのHanaさんと一緒に行きたいと思いました。
私はTさんへ頼みました。
「次に、香港に行く時は、絶対に私も連れて行ってね。」と…。
すると、彼女は「もう,行かへんわ。香港には10回も行ったんよ。それ以上行かへんわ。」
「でも、もし、又行くことがあったら、連れて行ってね。Hanaさんに頼んでおいてね。」
「もう行くことないって。10回も行ったんよ。それ以上行くわけ無いやん。」
私は、ここでひるんだらいけないと思いました。
「うん。分かった。でも、もし行くことがあったら…よ。その時はお願いね。」
「もう、行かへんって!、10回以上も,何しに行くの?」
「うん、分かった。分かったけど、でも、もしもよ。もしも行くことがあったらお願いね。」
そんな、押し問答がまだ続きました。
私は、彼女にひつこく擦り込みをしようとしたのでした。汗;;
(このぐらい言っておけば、大丈夫だろうと思えるところ迄。)
私には、絶対に覚えて置いて欲しいと言う、強固な思いがありました。
(その2に続きます。)
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