チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2012.10.31 しばらく仕事専一と致します。そして、ハロウインのかぼちゃ。
(ハロウインのかぼちゃ)
先日友人が訪ねて来た時、「10/31はハロウインなので、これ食べら
れないけど、かぼちゃを持って来たわ。顔を描いてね。」とのこと。
顔ってどんなだったかな?よく分からないので、適当に描きました。
描いてみると、オバケに似合わずカワイイ~!ちょっと泣き虫みたい?
でも、そこがいじらしいな。楽しいハロウインとなりました。
(でも、ハロウインって、よく知らない私です。汗;;)
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ブログをご無沙汰致しました。
今後しばらくの間、本来のショップ運営の方に注力したいと思っております。
実は、私は昨年の6月に、今迄の「チタンオンラインショップ」以外に、もう1カ店
「ミラクルチタンショップ」を開店しました。
しかし、開店早々、私達兄妹の上海の生家を訪問すると言う話が持ち上がりました。
ようやく開店に漕ぎ着けたばかりで、殆ど商品をアップしていなかった私は、大変
慌てましたが、しかし帰国後すぐやれば良いのだと自分に言い聞かせて出発しました。
しかし、帰国後は、まず上海の生家に住むご一家へのお礼にとアルバム作りに奮闘し、
初めてのアルバム作りの成功に気を良くして、いろいろなアルバム作りをして差し上げ
たり、仕事そっちのけのてんやわんやが続きました。
その上ショックなことには、旧ショップの商品ページについて、プロの方からのアド
バイスがあり、ショップの全商品1400個の詳細ベージの全面改訂を実施しました。
何しろ品数が膨大なので新ショップどころではなくなり、旧ショップの改訂に長期間
を要してしまいました。
私は、ショップ2ヶ店とも、プロに頼まず自力で立ち上げたばかりでなく、ショップ
の常識である広告費投入も全くせず、「ブログ」のみを宣伝媒体として来ました。
しかし、ブログの更新は時間を取るため、そちらにも注力しつつ水面下でショップの
更新を続けると言う状態となりました。
せっかく頼りのブログが、ショップ以外の話題に追われ、本末転倒した為か売上げは
激減し、店は閑古鳥が鳴いている状態となり、精神的に落ち込んでしまいました。
何かに追われている様な心理になり、湿疹が出来始めました。
(昨年もこの時期、多忙のストレスからかとてもひどい湿疹で半年間苦しみました。)
昨年開店した新ショップは、とうとうその後手が付けられないまま(20商品程UP
したまま)、1年3カ月の間、空家賃(プロバイダー料金)を払い続けていました。
(旧ショップは格安のプロバイダーですが、新ショップは少し高いので痛いです。)
この状況を何とかしないと私は駄目になる。落ち込みと体調不良の原因はこれだ。
ネットショップは、想像以上に厳しいものです。
ここで頑張らないと、私の仕事の今後は無いと思いました。
そういうことから、今月半ばから、新ショップの充実へ向かって邁進を開始しました。
今後は、ショップオーナーとしての仕事に注力したいと思っています。
ブログは、ショップのことチタンのことのみを中心に発信して行きたいと思います。
もし、精神的、時間的な余力が出来ました時は、ブログに書きたかったことが昨年来
たまっておりますし(実は数年分)、それに、いろいろと続き物で終了していないもの
がありますので、それらを一気に書かせて頂けたら良いなと思っております。
「チタンオンラインショップ」と「ミラクルチタンショップ」を、今後とも、どうぞ、
よろしくお願い申し上げます。
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なお、今朝、このブログのプロバイダーのGooからメールが来て、「あなたの1年前
の記事をお知らせします。」とありました。
「2011.10.30 痒みと格闘、そして最後の頼み」
何とまあ、昨年も七転八倒の私です。いつも?^^;;
「1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか?」とありましたが、偶然関連した
文章となりました。^^
2012.10.15 90代の元職場の上司(第4話・完)、そして私の足の回復のこと。
この本は、先日Hさんが届けて下さったもので、「高槻市原爆被害者の会 結成五十周年記念誌」です。
平成23年4月の発行ですので、昨年発行されたものです。
この中で、Hさんは、<是非ともこれだけは、子ども達に知って欲しい>という題で文章を書かれています。
<それを短く纏めます。>
戦後復職して、銀行に勤務し、その間に体験記録原稿用紙241枚を作成し保存していたが、その時は一切
口外しなかった。
ところが、退職後の平成5年、被爆者健康手帳の交付を受けた後、高槻市の人権擁護委員会や市教育セン
ター等から、「戦争と平和」の語り部になって欲しいと、再三の要請が来た。
平成7年の終戦50年を機に、保存していた記録全部を、戦没者慰霊祭の時に廣島に持参消却して、自分
なりの終戦宣言をした矢先のことだったこともあり、語り部については最初固辞し続けていたが、その後、
体験を語ることはむしろ原爆犠牲者への供養になるのではと悟り、初めて応諾した。
以降16年間、多くの子ども達の反響があった。
子ども達からの感想文は8000通近くとなった。(注:その中から10通余りがここに紹介されております。)
今年92才を迎えたが、神がお前はまだ何か社会に役立つことがあると思し召せば、これからも命ある限り
平和の尊さと有難さを、引き続き若い世代に語り継がねばと思っている。
なお、語り部としての話は1時間半で、終わりには必ず、国の宝である子ども達へのはなむけとして、
「常に、正しい姿勢を維持すること」
「人は生を受ければ、すべて歩くことが原則で、乗り物は控えること」
の二点を強調して、閉幕している。
…以上が、Hさんの文章の要点です。
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姿勢については、本当にそのとおりだと思います。
私が、何と言っても感心することは、このHさんの「姿勢が素晴しい」ことなのです。
又、近所の別の90代の年齢の男性も、同じくとても姿勢が良いのです。
どちらも、士官学校を出られた方で、元軍人だからか背筋がピンと伸びておられます。
お二人とも、農作業、庭仕事がお得意で、頑健で、今でも世界中、又は日本中を旅行されています。
姿勢と言うものがどんなに大切か、最近気が付いた私は、このところ熱心にストレッチをしています。
私の場合、まだ足に負担をかけられないのでベッドの上で行うストレッチを朝と晩15分ずつ位行います。
同じことをしても、いい加減にやるのと、しっかりと時間をかけて伸ばすのとでは、全く効果が違う
ことが分かりました。朝晩ストレッチで、背をしっかり伸ばします。
すると姿勢がよくなり、背中の肉が取れて友人達に驚かれています。猫背も少しずつ改善してきました。
まじめにやる様になってから、めきめきと足に筋肉が付き、身体も締まってきました。
(元々は、足の体操として整形外科で教えて貰った幾つかの体操を、私なりに少しずつ増やしていった
ため、結果的に身体中のストレッチとなったものです。この身体中を鍛えることが良かったと思います。)
それと同時に、少しずつ歩ける様になり、今では、ショッピングカート無しで、両手に重い買い物を
下げて持ち帰ることも出来る様になりました。
ゴミ出しも人にやってもらい、宅配業者に食材を届けてもらっていた頃が嘘の様です。
その頃は、外出は1週間に1度タクシーで足の水を抜きに行くのがようやくでしたのに、最近は回復
したので、身体の為に毎日外出しております。
この回復は奇跡と言われるかもしれませんが、回復してみて、身体を鍛えることがどんなに大切か、
つくづく分かりました。
(ただ、私は長年の座り仕事で足の筋肉を落としてしまい、その間無理をした為、膝の滑膜が異常
増殖しているので、それを抱えたままです。まだ無理はできません。)
正しい姿勢を保つこと、そしてなるべく足を使って歩くこと。
それを、Hさんのお話から、ますます肝に銘じました。
※ なお、今迄は、原爆の話は恐くて聞くのも見るのも避けていた私でしたが、今からは違います。
この記念誌の約60名の方々の体験記録を全部を読みたいと思いますし、もっと知りたいと思います。
その意味で、このHさんがきっかけになって下さり、本当に良かったと思っております。
< 完 >
「2012.09.29 90代の元職場の上司のこと(第1話)」
「2012.10.04 90代の元職場の上司のこと(第2話)」
「2012.10.06 90代の元職場の上司のこと(第3話=衝撃的な話)」
2012.10.06 90代の元職場の上司のこと(第3話=衝撃的な話)
この90代のHさんは、原爆投下から3時間後に広島市へ到着し、この世とも思え
ない惨状の中、部下と共に全力で救援活動をしていたことは、前に述べました。
1週間程経ってから、兵隊を交代させる為、一旦廣島から岩国へ戻りました。
それは、8月13日のことでした。
すると、岩国の空は米機が飛び交っており不穏なものを感じました。これは危ない。
岩国には飛行場もあるし、次はやられるのではないか?岩国が危ない。
そう思ったHさんは、すでに夜中になっていたのもかまわず、小学校の校庭に
部下を集めました。
120名の部下のうち、あちこちに小隊を差し向けていたので、残っている人数は
40~50名ぐらいでした。
荷車に、あるだけの食料を積み込みました。
その時、部下の隊員達がブーブー文句を言っているのが聞こえました。
「何も、こんな真夜中に招集をかけなくても!」「明日で良いではないか?」と
あちこちから聞こえました。夜中はよく聞こえるものだそうです。
上官と言えども、Hさんは若い青年将校です。
一方、部下は道路敷設と駅舎建設の専門家達で、年の頃なら40代以上です。
爆撃では主要な設備を集中的に攻撃されますので、まず交通の要所がやられます。
しかし、駅舎と鉄道路線をたちどころに復旧しないと、緊急に医薬品を運んだり、
病人を搬送しなければならないので、鉄道は生命線なのです。
Hさんの部下は、その任務を負った専門家達でした。
若造が一体何を考えているのか?と思ったのでしょう。疲れて眠いのに…。
しかし、手分けして近所の家々を廻り、「岩国が危ない。山へ避難しませんか?
一緒に行きませんか?食料はあります。」と誘って廻りました。
そして、参加した子供や母親、お年寄りなど、総勢200名余りで移動して山の方
へ向かいました。
田舎の山の中に着き、夜食(かんぱん)を配って、お寺などに分宿させました。
まさにその日が明けた14日に岩国は大空襲を受けたのです。
Hさん達が、山奥から岩国の街へ駆けつけた時の惨状はすさまじいものでした。
岩国駅の警備に当らせていた1個小隊12名の内の、1名の上体のみが飛ばされて、
焼け爛れた瓦礫の上に立っていたが、その他の11名はこっぱみじんになっていて、
遺体さえなかった。
駅はもちろん、宿舎であった小学校、そして街全体が壊滅した。
それを見たあの年輩の兵士達は、打って変わってHさんを神か仏の様に崇めた。
一日違いの決断で、200名の命が助かりました。明日では遅かったのです。
そして、その翌日の8月15日、日本は敗戦したのです。
信じられない話でした。
Hさんはこのことを、今迄一度も口にしたことがなかったそうです。
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(追記)
私のネット友人のヒラノさん(実際にもお会いしています)から、コメントがありました。
彼女は岩国生まれで、岩国で育ち、今はアメリカ人と結婚して、ロスアンゼルスに住んで
おられます。
コメント欄は隠れていて分かり難いですので、下に転記させて頂きました。
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岩国におられたので山口弁なのでしょうか。
広島の原爆では、私の母は16歳で爆心地から2,3キロのところで被爆しました。
私は母に当時のことを聞いてみたことがありますが(「語り部」のかたがたの仕事をテレビ
で紹介していたからだと思います)母は「父親が岩国から(岩国に実家がありました)
来れるところまで電車で来て、それからは歩いて迎えに来てくれた」「いろんなものを見たよ」
と言ったきり、話してくれませんでした。
母が認知症になってしまった最近になって母の妹から聞いたのですが、母は看護学校の学生
だったせいか、父親が迎えに行ったとき、原爆で亡くなった人々の遺体を焼いていたそうです。
おそらく、きちんとした葬儀用の焼却場ではなく、野焼きのような光景だったのではないで
しょうか・・・
私には話してくれない、話せない悲惨なものものを母は見たのでしょうね。
90代のこのかたは、わが身を病みながら語り部として尽くされて、ほんとうに勇気のある
立派なかたですね。
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ヒラノさんの疑問は、廣島の原爆のことでしたが、今回のお話は、ヒラノさんの故郷の岩国
の大空襲のことでした。
戦争の終末期には、日本中が壊滅的な爆撃を受け、東京大空襲では一面の焼け野原だった
そうで、大阪大空襲でも同様、他の日本の各地が地獄となりました。
私は今年8月に、淡路島へ予科練少年兵の墓参に行きましたが、当時の淡路島及び四国の人々が
連日の襲撃に怯えていたと聞き(人が亡くなっても荼毘に付すことは出来なかった。煙を見付けて
敵機が爆撃に来るからとのことでした)都会だけでなく島々まで恐怖に陥っていたことを知りました。
私は、敗戦迄上海にいましたが、子供だったのであまり覚えておりません。
(1回衝撃的な大爆撃があり、ドイツ人の肉屋さんのビルが爆撃され、後で見に行くと階段だけが
残っていました。それは記憶しております。夜中だったからか、隣家が爆撃を受けたと思いました。)
内地の方々の方が、連日恐怖と食料不足に苦労されていたのだということを、今更ながら思い知る
日々です。
「2012.09.29 90代の元職場の上司のこと(第1話)」
「2012.10.04 90代の元職場の上司のこと(第2話)」
2012.10.04 90代の元職場の上司のこと(第2話)
この方は、日本に帰って士官学校で勉学し、卒業後、将校として岩国で120名の兵を
束ねて鉄道警備隊の任務に付いていました。
岩国小学校の一部が仮宿舎として提供されていたそうです。
大きな任務は鉄道や駅舎などが爆撃を受けると、皆を率いて修復に当ることでした。
線路や駅舎が爆撃を受けて破壊されると、いち早く復旧する必要があるのです。
怪我人への薬の補給、及び早急に医者や看護婦を運んで来る必要があるので、鉄道は
命綱だからです。
その頃、飛行場で使うアルコールを砂糖から生成していました。
ある日、海岸べりで砂糖の荷揚げなどの仕事に従事していました。
荷揚げ作業を監督していた時、大きな稲光がしたので始めかみなりかと思った。
でも、こんなに天気が良くて一面の青空なのに、何故かみなりが鳴るのかと不思議に
思っていると、2分半経ってからものすごい爆音が聞こえた。
あわてて屋上に上がってみると、廣島の方面に大きなキノコ雲がぐんぐん上昇していた。
何があったのかと、廣島、呉などあちこちに電話をしても架からない。
何かが起こったのだ、とにかく、機関車の石炭を積むところに12名の兵を乗せて
(12名と言うのが1個小隊の単位だった由)廣島へ向かった。
廿日市市迄来ると、どの家も廣島側のガラスが全部割れていた。
機関車の車にかじり付いてくる女性がいたので、乗せてあげて走っていると、突然女性が
飛び降りた。どうしたのかと思っていると、駅の切符売り場でドミノの様に重なって倒れ
て死んでいる人々の中に自分の夫を見付けて、目玉が飛び出し割れた頭の夫を両腕で抱き
大声でわめきながら、飛び出た脳みそを、手でわしづかみにし、頭に戻そうとしていた。
さらに進むと、線路はあめの様に曲がり、枕木は吹っ飛んでいて汽車は進めなくなった。
2派に分かれて廣島へ歩いて行き、重なる死者と燃える家々の凄まじい地獄の中を進んだ。
途中「兵隊さん、水、水、水くれ」と苦悶の顔と絞る様な声々。
水筒を口に寄せるや、飲む力はもはや無く、安心してか殆どの人が「お母さん」と一声を
残して成仏された。
ようやく市内に入った時は、投下後3時間経っていた。
すべてが壊れ吹っ飛び、焼けただれている。一面おびただしい死者である。
被爆3時間以内で、動いている人は一人もない。うめき声が聞こえるのみであった。
みんな黒こげで、男か女か分からない。馬が電信柱に引っ掛かっている。
想像を絶するすさまじい光景だった。
川という川は、水を求めた人の死体で埋まり、それが満ち潮や引き潮で、重なったまま
動いている。地獄を見ている様であった。
そのまま、黒い雨に濡れながら、全力で救援を続けた。
その後の人生で、放射能の影響が、身体のいたるところへ出て来た。
脚に出て来たこともあった。小児科と婦人科以外、すべての病院に通った。
いまでも、海藻類は摂取出来ない。
終戦後は元の職場に戻り勤務し、その後多くの部下を育て、定年後も求められて要職に
ついておられました。職を辞してからは、広く社会貢献をしておられた人生でした。
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以上は、ご本人にお聞きして、書き取ったことを纏めたものです。
日頃の忙しさで、あれほどパニックだパニックだと騒いでいた私でしたのに、又この方
のことを伝えねばならなくなり、この第2話を書きました。
その上、「原爆のことを書いたものを、あんたに渡していなかったかな?だったら渡し
たい。」ということで、ご自分の書かれた文章の載った文集を届けて下さいました。
そして、その時、なんと!衝撃的なお話を聞いたのです。
これは、誰にも話したことはないそうで、今回は駅の待合室でお会いして、ざっと
お聞きしただけなので、メモもなく私の頭にあるだけですので、忘れないうちに纏めて
おかないと、そのまま消えてしまうお話です。しかし捨て置けないお話なのです。
本当に私は、いつまで仕事そっちのけでキリキリ舞いをしているのかしらと、自分に
あきれつつ、次回は第3話として、その衝撃的なしかし素晴しいお話を纏める予定です。
又しても、忙しくなりました。向こう岸がどんどん遠のきます。
私が「せっかく悩みを聞いて頂いて楽になると思ったのに、また新たな課題ができて
逆になりました。」と冗談で苦情を言いますと、その方はアハハと笑っておられました。
でも、その方に責任はありません。私が勝手に、これは記録に残しておかねばならない
と決心しただけですから。
急がないと! ぐずぐずしているとお聞きしたことを忘れてしまいます。
済みません。よかったら次回もお付き合い下さいませ。
「2012.09.29 90代のボーイフレンド(第1話)」