チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2012.08.28 六月後半の食卓風景
今回は、六月の後半の写真です。
又々、代わり映えもしない食卓風景です。延々と載せてごめんなさい。
(6/16)
好物の川津海老をチタン鍋で茹でて、マヨネーズで食べます。
サラダは、カリフラワー(頂きもの)、きゅうり、トマトです。
中国野菜の空芯采の油炒め。
空芯采は茎が空洞になっているので、大変食べ易く、又油に合います。
私は空芯采の油炒めの味と香りが大好きです。
山芋のとろろ汁。チタンのおろし金で、山芋をすりおろすととても簡単に
おろせて、味は抜群です。鰹の出汁で延ばします。
他に、もずくの酢の物もあります。
カリフラワーは、紫陽花好きの友人宅へおよばれした時に貰ってきました。
写真はその時貰った紫陽花です。昨年の冬が寒すぎたので紫陽花の出来が
悪かったとのことですが、それでもさすがに豪華でした。
(6/19)
ハムとプチトマト。茹でかぼちゃ。もずく酢の物。
サラダは、カリフラワー、きゅうり、トマトなど。
空芯采の油炒めは、昨日の残り物です。
(6/24)
ハムエッグ。
カプレーゼ(ハム+モッツラレラ+バジル+オリーブオイル)
ゆでかぼちゃ。もずく酢の物。
(6/25)
この日は、どうしても美味しいお豆腐が食べたくて、住吉の山口豆腐店
まで出かけました。ゆばどうふが、私の好物です。
川津海老を茹でる。川津海老は、春から夏が旬です。
トマトとブロッコリーのサラダ。
茹でかぼちゃ。もずく酢の物。
(6/26)
川津海老。ゆばどうふ。ゆでかぼちゃ。もずく。(え?又…? 汗;;)
同じ物ばかりで、さすがの私もUPするのが気が引けましたが、1つだけ、
ハイライトがありました。大好きなトマトとモッツアレラチーズのカプ
レーゼでした。やっぱりこれにはバジルの葉は不可欠ですね。^^
(6/27)
ソーセージとコロッケ(友人たちと芦屋の竹園肉屋に行った時買いました。)
ゆばどうふ。トマトとモッツアレラのサラダ、バジル添え。
茹でかぼちゃ。もずく。(わざわざ載せる迄もない食卓でしたか?赤面;;)
2012.08.26 六月前半の食卓風景
6月前半の食卓風景をUPします。
すべてチタン鍋料理です。(私は、洗うのも、茹でるのも、和えるのも、
焼くのも、煮るのも、炊くのも、揚げるのも、保存するのも、チタン鍋
以外は使いません。もちろん、お茶などを煎じるのも、すべてです。)
(6/2)
好物のゆばどうふと湯葉の刺身、(何と!大豆だらけですね。)
なくてはならない茹でかぼちゃ岩塩添え、もずく酢の物、トマトです。
世間ではこれを質素と言うようですね。
でも、それは私に言わせれば思い上がりです。
私にとっては感謝の食卓です。私の食卓はいつも感謝で一杯です。
(6/3)
かにの身を一盛り買って来て、「かに玉」を作りました。美味し~い。
あとはゆばどうふと、定番おかずです。
(6/5)
大好物の「鱧の卵のたまごとじ」です。三つ葉を散らしております。
ゆばどうふ、トマト、アボガド、スナップエンドウとハムのサラダです。
(6/7)
昨日の残りの「鱧の卵のたまごとじ」です。
ウインナ トマト添え。そして定番おかず(茹でかぼちゃと、もずくの
酢の物)
(6/10)
ミニステーキ トマトブロッコリー添え。
シラスと山椒の実(明石の友人から送ってもらった新鮮なしらすに
山椒の実の佃煮を散らして)、オクラごま和え。
定番の茹でかぼちゃと、もずくの酢の物。
(6/13)
揚げ茄子そうめん。煮麺ではなく冷たいそうめんです。揚げ茄子は
美味しいですね。そうめんと揚げ茄子とは出合い物です。
茹で川津海老マヨネーズ添え、トマトとブロッコリーのサラダ、
もずくの酢の物。
(6/14 お昼ご飯)
揚げ茄子の残りで、昼食にそうめんを食べました。美味ですね。
他は、もずくの酢の物、バナナ。
美味しい物を最後に食べる私は、いつももずくの酢の物を最後に食べます。
ウ~ンこの滋味!美味し~いったら無いよ!と毎日ご機嫌です。
(昨日やって来た友人は、いつも私のもずくの酢の物を欲しいと言うので
昨日も容器に入れて持ち帰って貰いました。
安い物ですし、いつでもどうぞと思っています。
この味付けには自信があります。欲しがる人の気持ちが分かります。^^)
2012.08.23 遅ればせながら、初夏の食卓風景です。
このところ、ブログの内容がショップ関係から遠ざかっていました。
それが、まだまだ終わりそうもないので、一旦仕事に戻ります。
その後、改めて続きを書きたいと思います。
チタン鍋料理の写真が大量に溜まってしまいましたので、それを整理して
古いものから少しずつUPして行きたいと思います。
私の食卓風景を参考にされる方もおられるので、頑張ってUPします。
まずは、遅ればせながら、初夏の食卓風景から…。
(4/23)
これだけ、4月の分です。
妹から、竹の子と若布を貰ったので若竹煮を作りました。
同じく妹から貰った、イカナゴの釘煮もあります。
他は、ゆばどうふ、サラダなどです。
(5/6)川津海老が旬なので、スーパーで見かける度に買います。
1パック2~300円台なので、粗食研究家としては嬉しい限りです。
この日は、小さかったので揚げましたが、私はやっぱり茹でた方
が好きです。
サラダはトマト、貝割れ菜、スナップエンドウです。
スナップエンドウは、割って実を見せて飾ると美しいですね。
かぼちゃのゆでたものと、もずくの酢の物は無くてはなりません。^^
(5/8)ステーキです。その油で椎茸を炒めました。
後は、定番ですね。^^
(5/18)牛肉薄切りを炒めて、玉葱炒めを添えています。
(5/28)鯵のたたきです。私は添えてあるポン酢は使いません。
空豆を塩茹でにしました。人参とゴーヤを塩糀漬にしました。
(5/29)この日は、発色剤を使っていないハムがありました。
時々しかありませんので、ラッキーと思って買いました。
このハムは薫製になっていて、以前これを買ったときは、美味しくて
良いものに出会ったと喜びましたが、今日はがっかり!薬品の臭いが
しました。
私は、子供の頃上海で、ドイツ人の美味しい肉屋のハムやソーセージを
食べていたからか、ハムとソーセージには格別の郷愁があります。
あんなに美味しいハムやソーセージには二度と出会っていません。
(5/30)ハムの残りです。人参とゴーヤの塩糀漬を添えました。
ズッキーニの炒め物も見えています。
2012.08.21 残暑お見舞い、そしてツイッター、フェイスブックのこと。
皆様、残暑お見舞い申し上げます。
暑い夏でしたね。でも、あと一息と思いますので、乗り切って下さいね。
私もこの夏は超多忙でしたので、フラフラです。肩こりから又背中に来ました。
今日は、午後から整体サロンに行き、ほぐしてもらいました。
☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆☀☆
さて、”スマホ難民”と言う言葉を聞きます。
スマートホンに切り替えたものの、使いこなせないことを自嘲的に言う言葉です。
私は、そのスマートホンさえまだ持っていないので、スマホ難民ではありません。
しかし、ああ!"ツイッター難民"なのでした。
自分のショップ上にツイッターを表示させていたのに、ああ、それなのに!
それが消えてしまっていたことさえ最近まで気付きませんでした。
毎月のカレンダーを更新する際に、誤って消してしまっていたのです。
ツイッターの暗証も忘れていて照会して教えて貰い、表示方法をプロバイダーに
教えて貰って、ようやく再度ショップに表示しました。イヤハヤ!
携帯には最初から設定していません。;;(これが使いこなしていない証拠?!)
こうして、一応、ツイッターは”難民認定解除”しました。
大体、ブログに延々と書く時間があったら、ツイッターは楽なはずでしょうにね;;
今後は反省して、ツイッターは数日に一度はツブヤク予定です。
ところで、私はフェイスブックも登録だけはしていますが、使い方が分かりません。
もし私に発信して頂いても、イマイチ分かっていないので失礼していると思います。
お許し下さい。イマイチ分からないと言うのは、やっぱり歳のせいだと思います。
忙しすぎて、そんなことやってる時間はないわと言う言い訳も見苦しいし…。;;
登録している以上、近い内にフェイスブックも”難民解除”したいと思っています。
2012.08.17 67年目の終戦記念日に思うこと。(宝塚予科練少年兵の墓にお参りして)
8月15日は、67年目の終戦記念日でした。
その終戦の前年、私の次兄は上海中学2年生で14歳でしたが、クラスから数名志願して
海軍予科練習生(予科練)として、上海から日本に渡りました。
終戦直前、兵員不足の為、上海、満州などの海外に住んでいた就学中の日本人少年達が
かき集められたと言うことです。
訓練中に四国から淡路へ船で移動中に米艦載機2機の機銃掃射を受け船は撃沈されました。
乗っていた111名の内82名が壮烈な戦死を遂げました。殆どが14~15才の少年兵でした。
阿那賀の村民は、戦死者のあまりにもあどけない幼い顔を見て絶句したと言います。
淡路島と四国の地元民の献身的な救助活動により、17名程が救助されました。
兄は、頭に銃弾を受け重傷を負いましたが、奇跡的に生き残ることができた一人です。
今から67年前、終戦直前の8月2日のことです。
(兄達が書いた記録を読みますと、何度も胸が塞がり読み続けることが出来なくなります。
私はこれを多くの方々に知って頂きたいと思いました。)
その後、昭和40年に、鳴門海峡を一望する土地を、淡路島出身の三洋電機故井植社長が
寄付され、82の墓碑ができました。
42年には、住友銀行堀田頭取がこの悲話を聞かれ、日本経済新聞紙上に下記の記事が
掲載されました。以下はその抜粋です。
「祖国への至情に燃え散華せし、空の勇者と言えども未だ、いたいけな十四、五歳の少年
であれば、母を恋う気持ちはひとしおであったと思う。聞けば母の名を絶叫しながら息を
引き取った少年も少なくなかったと言う。もしこの鎧崎墓地の片隅に少年たちをやさしく
見守る慈母観音の像があれば、英霊の眠りにいっそうの安らぎを与えてくれるであろう。」
と呼びかけられて、賛同された多くの知名人や財界人などが結束し、墓地のある岡の上に
「慈母観音像」が建立されました。
除幕式には、高松宮殿下、妃殿下にもご臨席頂きました。
同時に、有志で「慈母観音会」を結成運営し今日に至りました。
しかし、世話役をする人々が皆さん高齢になられ他界されたり出席もままならなくなられ、
若年だった兄たちが今迄頑張っておりましたが、その兄も今では80才を越え車で淡路迄
人様を乗せて通うのは心配になってきたので、残念ながら閉会を考えていると言いました。
そこで、今迄心ならずもお参りが出来ていなかった私は、今回こそお参りさせて頂こうと
思い、妹夫婦を誘って去る8月2日淡路島阿那賀の春日寺へお参りに行ってまいりました。
その後、兄から、やはり遺族の方々が今後も墓参されるので会を閉じることはできない、
組織立った活動はできなくとも会は残す必要があると聞きました。
しかし、これらの少年兵の場合は子孫がいないので、親兄弟が亡くなれば、弔う人も無く
なります。それを思うと本当に辛くなります。
これを読まれた若い方々が、こころの隅に入れて頂き、いつか、こちらを通られるときは、
思い出して墓参をして頂けるならば有難いと思いこれを書きました。
又、私の長兄(次兄より2つ年上)も同時期上海中学4年の時、陸軍に志願して日本に
向かいましたが、日本に着いたときには栄養失調となっていて(魚雷を避けるため大きく
迂回して航行)、丙種不合格となり、又すぐ終戦となり戦地には赴かず命を長らえました。
なお、第二次世界大戦による死者数は計310万人、内訳は軍人240万、民間人70万で、
軍人として闘った戦死者の6割の140万人の死因は何と、餓死だったということです。
自国を離れて他国で闘うのに充分な食料など、調達するのはいかに困難なことか。
ましてやジャングルや孤島では…。戦争はあまりにも過酷です。
未だに、113万人の遺骨が元戦地に残存しており、日本に戻って来ていないそうです。
その様な時代に生まれ、過酷な戦いに命を落とした人々にどうか思いを致して下さい。
飽食と平和に首まで浸かっている現代人には想像を絶する時代ですが、国の為に命を
落として行った多くの方々のことを忘れ去るとしたら、忘恩のきわみだと思います。
終戦から67年目の日を迎えて、もう一度記憶を新たにし、これからの若い人々に
鎮魂の思いを引き継いで行って頂きたいと切に願います。
淡路島と四国の間の海峡で、悲劇は起きました。(写真の橋の左は淡路島、右は四国です)
82の遺体を荼毘に付すことは火の手を見た敵機の襲撃を受ける危険がある為出来ず、
そのままこの丘の斜面に仮に埋葬されたそうです。
この丘の道は、雨が降れば油が沁み出して流れ、人々の涙を誘ったと、当時救助に
当った住民が語った言葉を、以前テレビで聞き衝撃を受けたことを思い出します。
その後、お骨になった時点で掘り出されて埋葬されたのです。
こいねがわくはこの淡路の地に予科練という童顔の防人ありて
壮烈なる戦死を遂げられたることをいつの世までも伝えられんことを 合掌
82基の墓碑があります。
元宝塚海軍航空隊予科練習生 鎧崎桜ヶ丘英霊墓地の由来
優しく見守って下さる慈母観音像に思いを託して。
____________________________________________________
<参考サイト>
母の「悔恨の海」
⬆️この記事は、URLを替え新たなページとなっておりましたので、リンクを張り替えました。
体験者の素晴しい得難い記録ですので,ぜひお読み下さい。
(鳴門市にお住まいだった母親の体験を通して、その娘さんが、予科練少年兵の事件を書いておられます。
なお、「NHKはこの事件を取り上げて「悔恨の海」と題したドキュメンタリー番組を制作。徳島局で
放送された後、反響の高さに全国放送された。」とのことです。)
(*2019.05.20 追記)
<我が家の上海時代の写真。>
我が家の上海時代の写真。
先日兄妹で会った時、兄が持って来た。(戦時中のこととて、母はもんぺで全員戦時下の服装。)
姉の顔の一部が、白く剥がれていたので、 この部分直そうか?と言うと、兄弟はびっくりして
そんなことできるの?と聞くので、え〜?と私の方がびっくり。そんな簡単なこと。
「私はプロよ。」そして「Photoshopで修正出来るのよ。」と言っても、反応がなかった。
廻りに、誰一人私の仕事を分かってくれている人はいないのだと、ちょっと落胆した。
でも、自分が好きでやっている仕事、感謝以外に無いと思うので、愚痴言ったらいけない。
この写真を撮った時の経緯を、6才だった私は覚えている。
兄が上海中学校2年(14才)の時、予科練に志願すると言い出した。学級から2名 志願すると。(*注)
我が家は父が船乗りで常時家には居ないので、頼れる男性は居ない為、同郷で旅館を経営する
男性Hさんに、兄に思い留まる様に言って欲しいと母が頼み込み、家に来て貰って説得したが、
兄は、「僕が死なないと、日本は勝たない。」と言って、どうしても意志を曲げなかった。
説得に失敗した母が、泣く泣く撮った最後となるかも知れなかった家族記念写真がこれだった。
(姉が何故ここに居るのか?姉は東京へ留学中だった筈。最後と思った母に呼び寄せられたと思う。)
私が、この時のことを言うと、兄は驚いて「◯◯ちゃん(私のこと)は良く覚えているね。」と
感心していた。兄は覚えていないそうで、色々よく覚えているねといつも言われている。
上海の生家の間取りも三階迄全部覚えていて、生家訪問前に兄が「覚えてる?」と聞くので見取り図
を書いたら全く同じで驚かれた。女性の方が、細かいことを覚えているものなのかも知れない。
兄が「僕が死なないと日本は勝たない。」と言った時の、兄の傍にあった彫りのある座敷机の
ことも妙に覚えていて、2011年に兄妹3人で上海に行った時も、生家でその机を探した程だった。
もちろん、後に住んだ中国人はそんな背の低い座敷机など使う筈も無く、見つかる訳も無かった。
(*注)
兄の学級から志願したもう一人の同級生Oさんは戦死し、 こちらに埋葬されています。↓
「2012.08.17 67年目の終戦記念日に思うこと。(宝塚予科練少年兵の墓にお参りして)」
Oさんの九十数才のお姉様が、毎年命日である8月2日に遠くから墓参されていました。
(以上は「2019.05.20 突然思い出した「当座煮」のこと、上海時代の家族の写真。」より転載。)
2012.08.12 NHK「世界ふれあい街歩き 上海四川北路編」スクリーンショットと今昔の思い(その4)
《 ここから、家の中へ案内されます。 》
(4-1)
<この階段は昔のままなんですよ いい感じでしょう>
この階段は、我が家にとって大切な思い出の場所です。
そして、どうしてこの方がこの階段を、こんなに大切に思ってくれているかは、後半に
明らかになります。
ところで、戸板康二著「ヘレンテレスの家」という探偵小説をご存知ですか?
私は上海から帰国後、上海在住のluwanqu さんの情報で知りすぐ本を買って読みました。
この小説は秀逸だと思います。その中に、この階段が出て来るのです。
戸板康二さんは、このマグノリヤテレスに住んでいたことがあるそうで、この小説は
そこが舞台になっております。
しかし、小説の題名は同じ敷地内にある別の棟のヘレンテレスの名を取って「ヘレンテ
レスの家」となっています。
ともあれ、この小説を抜きにしても、マグノリヤテレスとヘレンテレスについてはまだ
まだ謎があり今調査中ですので、いずれこれらについても私見を纏めたいと思っています。
ともあれ、我が家はマグノリヤテレスの方です。
なお、「ヘレンテレスの家」は「せらび書房」の「外地探偵小説集 上海扁」に収録され
ておりますが、この小説集との出会いに私は感動しております。
この編者の博識なこと!上海の歴史と時代背景を簡潔に且つ分かり易く解説されています。
巻頭の「上海案内」と、巻尾の「解説」で多くのことを教わることが出来ます。
(4-2)
<天井のライトは昔のまま>
奥に見えているのが、広い板張りのベランダです。広さは9畳ほどあります。
今は、ここはOさんの息子さんの部屋として使われています。
(4-3)
<押し入れも窓も床も 全部昔のままなんですよ>
この部屋と隣の部屋は、畳敷きになっていました。
英国人が作った建物を、日本人が自分たちに住みやすい様に中をリフォームして住んでいた
のです。
(4-4)
<この床は質がいいって みんな言います>
ちなみに、我が家が住んでいた時は、その質の良い床の上に畳を敷き、2階の3室を和室に
(10畳2間と4畳半1間)改装して住んでいました。
他のお宅でも、幾部屋かを和室にされていたと思います。
これらの素晴しいこだわりの床材を使った床を無視して、日本人は畳を敷いたり、せっかく
の壁を日本風に塗り直したりするので、誇り高いイギリス人の差配(所有主にかわって貸家
などを管理する人)が居る借家では、差配がとても日本人を嫌がって、勝手な事をされない
様にいつも目を光らせていた様子を、芥川賞作家の林京子著「ミッシェルの口紅」(講談社
文芸文庫)で読み、驚きもしましたが、そうだったのかと英国人差配に同情もしました。
(でも、このマグノリは日本人の所有だったらしく、それは自由だったと思います。)
この「ミッシェルの口紅」も、素晴しい小説で、読み進むにつれ私の知らなかった上海の姿
を彷彿とさせてくれて、感動させられました。
これも上海在住の日本人luwanqu さんのサイトで知りました。luwanqu さんはこの本を
もう、5回以上読んだそうです。
(2012.07.29 「上海の生き字引」の方との出会い)
(4-5)
<昔ここは外でしたが 改築して部屋にしたんです>
これは違います。ここは、昔と全く同じです。板張りの大きなベランダで窓もこのままでした。
私ははっきり覚えていますし、兄もここは何も変わっていない外観もそのままだと言っています。
(裏にあるヘレンテレスのが、ここは吹き抜けのバルコニーになっているので、こちらもそうだ
とOさん達は思っているのでしょう。)
私は更にこの窓に、鎧戸が付いていた様に思っていましたが、それはごく幼かった頃のある朝、
私が寝ぼけてしまって、このベランダに面白い思い出を持っていますが、その時このベランダが
真っ暗だったことからそう思ったものかも知れません。
多分大きな分厚いカーテンが掛けられていたのでしょう。
2012.08.07 ホリエチタンのオリンピックモニュメントが放映されました。
皆様、毎日ロンドンオリンピックをワクワクドキドキとご覧になっていることと思います。
オリンピックのメーンスタジアム近郊、開会式が行われたスタジアムの最寄り駅前に日本
の燕市のホリエ制作になるチタン板によるリーフ(葉)のモニュメントが輝いております。
その様子が、8/3にNHK「お元気ですか日本列島」にて放映されました。
そのスクリーンショットを幾つかお目に掛けたいと思います。
(1)
<ロンドンに輝く 新潟の職人芸>
それは、スタジアム近郊の中央バスターミナルに設置されました。ホリエの高度なチタン
加工技術で発色させた板を使ったオリンピックモニュメントです。
(2)
ホリエでの大量の発色チタン板の加工現場です。
(3)
「この色を見ていると、気持ちが明るくなる」と通行人の喜びの声です。
(4)
「日本の技術が一番だった。本当に素晴しい技術だった。」と専門家が絶賛していました。
(5)
「精密で期限通り そして何より自分の仕事に誇りを持っている。」と最高の評価でした。
(6)
その評価の意味が分かります。
(7)
「それが素晴しい成果を生み出している。」との最高の賛辞でした。
このモニュメントは、オリンピックが終わってもこのままここへ設置されますので、明るい
雰囲気を地域の皆さんにいつまでも楽しんで頂けることと思います。
_________________________________________
ホリエのチタンの発色は塗装ではなく、光の屈折により色が見えるのです。
ですから、見る角度によって様々に色が変化し幻想的な美しさを醸し出します。
チタンの世界的なトップメーカーの実力を請われて、歴史的なモニュメントをホリエでと
白羽の矢が立ったことは、ホリエ製品を販売している私としても大きな誇りです。
<関連サイトを、いくつかリンクします。>
燕市長 鈴木 力 の日記
新潟日報
Yahoo ニュース
2012.08.04 NHK「世界ふれあい街歩き 上海四川北路編」スクリーンショットと今昔の思い(その3)
(3-1)いよいよ、私達のすんでいたマグノリへ向かいます。
<街歩き このあとは「66年ぶりの来客劇」>と字幕が出ています。
光栄です。
(3-2)
入り口を入って横町を先へ進みます。
(3-3)
女性が、布団を干しています。
この方が、我が家が日本へ引き揚げた後の住人である王さんの息子さんの奥さんです。
終戦と同時に王さんのお父さんがこの家を買われました。王さんのお父さんは大学教授でした。
最初は、家族だけで住んでおられましたが、現在では、住宅事情か、この一軒の家に8家族が
住まっているとのことでした。
王さんの父母は亡くなり、今はこの息子さん夫婦と一人息子さんがここへ住んでおられます。
(3-4)
王さんの奥さんです。とても上品な方です。
(※カメラがこの方にたどり着いた「偶然+必然」を、簡単にお知らせしますと、日本のNHKと
地元の中国のテレビ局が共同で取材していると、「それなら適任の人が居る。最近、昔の住人の
日本人が訪ねて来た家がある」と言って、近所の人から王さんを教えられたとのことです。
又、上海では上海語は使えても、標準語である北京語は使えない人が多いが、王さんの奥さんは
元教師なので、両方が使える希有な人であったので、大変適任であり、偶然でありながら必然で
あったと、上海旅行時に案内してくれた上海在住の日本人ガイドが、今回教えてくれました。)
(3-5)
字幕=<ここはイギリス人が建てて日本人が住んでいた住宅です。>
私がものごころ付いた頃は、このマグノリに、日本人以外は住んでいませんでした。
(兄の友人の回想録を見ると、昔はわずかですが、中国人の富豪の息子やフィリッピン人の
ボクサーが住んでいたこともある様です。)
それで私は、私達の住んでいたこの場所を「日本租界」と言うのだとずっと思っていました。
子供の私の感覚では、マグノリはもっともっと沢山の建物があって、とても大きな街だったと
思っていましたが、実は、現在市街地開発の為一部が取り壊されたとはいえ、それを含めても
100軒に満たない一画であったことを、今回改めて知り驚きました。
日本租界には、この様な日本人住宅が沢山あったことを知りました。
又、日本租界は正式名では無く、かって日本人が10万人住んでいた虹口(ホンキュウ)地区一帯
を俗称として、日本租界と呼んでいたのだということも、ごく最近知りました。
私は上海のことは、子供の頃とは言え、全く無知でした。良い勉強になりました。
(3-6)
ここには、昭和初期から、日本人が住んでいたところです。
(3-7)
終戦と同時に、日本人は全員引き揚げました。
(※この塀に付いては、後述します。昔は、青銅製の唐草模様の塀と門扉がありました。)
(3-8)
我が家が引き揚げた後、この方の夫の両親がここを購入され、それ以来ずっと住んでおられ
ます。
_______________________________________
※ この塀に付いては、すごい発見がありましたが、後日まとめます。
疑問が湧いて来る度に、それを調べたりしていると、際限が無くなり、全然前へ進めなくなる
ことに気付きました。
それで、取りあえずスクリーンショットのUPを進めて、その後で、疑問やその解明などを
改めて纏めることにしたいと思います。