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2020.01.27 靴で足を傷め、140ccの水を抜いてもらった。

(1/10)、靴を受け取りに行く。

私の足の症状(足裏の指が痛い)に対処して誂えた靴を取りに行った。

(1/11)、その靴を履いて、遅くなっている「初詣」に行った。

その日、相当歩いた。夕方になると、靴の縦部分が狭く感じた。

つまり、親指が寸詰まりになっていて、親指部分が痛い。

横巾が狭ければ、紐を緩めると済むが、縦では、そうはいかない。

(1/12)、地域の「いきいき体操」で、少し体操した。

その翌日、大阪へ出掛けた。その時、まだ行きたい所があるのに、足が辛い為、

途中で帰って来た。こんなことは、珍しい。

(1/13)、左膝が酷く腫れているのを知ってショックを受ける。

以前は、両膝とも大きく脹れていたので、なんだか懐かしいものを見た感じがした。

(1/27)、靴を作ってくれた診療所へ、靴を持って行く。

水を整形外科で向いてもらって下さいと言われた。

靴は、作り直してもらうことになった。

 

(1/28)、整形外科へ行く。むかし、足の悪かった時、散々水を抜いてもらった病院へ、

4〜5年ぶりに行く。

タクシーで行ってねと、Bチャンが言ったが、私はバスで行った。後悔した。

バスは、乗り降りが大変だった。痛くて降りられない程だった。

140ccの水を抜いてもらう。楽になった。

 

ここで、思ったことは、昔は、水抜きの注射は、とても痛かったが、今回は

ほとんど痛くなかった。この4~5年で、注射針の性能が上がったのであろうか?

もう1つ、昔は、私は210ccの水を抜かれて、「これで楽になったでしょう?」

と言われても、全く楽にならずに、激痛のまま帰路に着く状態だったので、今回の

ように、水を抜かれた途端に楽になったことに感激した。

今回は、一過性のものだった証拠だと思った。

帰りのバスは、JR甲子園口行きだったので、ついでに元町まで行って、肉まんを

食べて帰った。満足!!

 

(140ccの水が溜まった足)

こんな、えげつないものを載せたら駄目とBちゃんに言われたけれど、自分の記録

だから、画像のサイズを小さくして(200ピクセル)載せておこうかな。すみません。(汗;;)

4〜5年前の膝が悪かった時は、両足共、これどころではなく腫れていた。

210cc抜かれたこともあり、新任の医者が必ず見学に来られる程、珍しい脹れ方だった。

この日、久しぶりによく眠れた。治ったと、安堵した。

(1/29)、しかしながら、次の日は、夜中、痛みで何度も目が覚めた。期待が甘かったな。

しかし、あまり脹れてはいない。徐々に治って行くと思う。

これ以上悪くなることは想定していない。

 

シューフィッターの方は、大変恐縮して、「僕の責任です。」と言ってくれたけれど、普通、

靴が合わないぐらいで、こんなことにはならない。

私の場合、昔、膝が酷かったときのことを、私の膝の滑膜が、しっかり覚えていて、

「あ,大変、又もやご主人様の膝が大変なことになっている!しっかりお守りしなくては!」

と、あわてて、必死に頑張って関節液を大量に作ってくれたものだと思う。

早とちりした、私の膝の滑膜に、お礼を言わなければと思った。

 

 

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2020.01.29 豚バラの蒸ししゃぶ、<豚の脂身は、身体に良いらしい。>

 

先日、余りにも美味しくて、又食べたいと願っていた「豚の蒸ししゃぶ」だが、

2020.01.09 チタン鍋で蒸し料理

(https://blog.goo.ne.jp/miracle-titan/e/5b0f41b0688ea8de18071c7823a0502b)

連続の摂取は自制して、食べたいのを我慢していたが、いよいよ満を持して(?)

食べることにした。

この料理のポイントは、水を使わない蒸し物。

チタン鍋に、もやしを下に敷き詰めて、白菜、菊菜、えのきなどを上に載せて、

豚バラ肉を上へ拡げて、火をつける。

水は入れない。もやしと野菜の水気で、全体を蒸す。

 

(1/26夕食)

出来上がったものを、チタン鍋毎テーブルに持って来た。好きなだけ食べられる様に。

ポン酢を付けて、熱々をハフハフと美味しく頂いた。感動だった。

(1/27夕食)

2日目は、前日の残りに、少し取り除けておいた豚肉を乗せて。

湯豆腐と糠漬けと共に。

 

<豚の脂身は、身体に良いらしい。>

先日、テレビを見ていたら、沖縄のお元気な90代のご夫婦の幾組みかが、

毎日豚の三枚肉、二枚肉の脂身の分厚い煮物を食べていると言っていた。

そ〜か、豚の脂身は身体に良いのだ、長寿者が証明している。

甘くて美味しいもんね。でも、私は今まで我慢していた。

これからは、豚バラ肉を食べようと思った。

それで、それ以降、大好きな豚の角煮を何回か作って感動している。

そして、もやしと野菜の水分で豚肉を蒸して「蒸ししゃぶ」にしてみようと思った。

美味しいに決まってる。想像通り、最高だった。

その後、これが私の好物となった。

この手法、「蒸ししゃぶ」は最高だ。

この料理の名前は無いので,「豚バラの蒸ししゃぶ」と言おうと思った。

 

 

 

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2020.01.27 我が家の万年青の赤い実

 

いきいき体操は、毎週マンションの集会場で行われるが、清掃員のおばさんが、その辺りを

綺麗に掃除してくれている。

体操の世話役のMさんが、「お掃除の方が今、『万年青の実が見事に実っている家がある。』

と言っていましたよ。」と教えてくれた。

「え〜?我が家のことが評判になっているの?」と喜んだ私は、飛び出して行って、

「その万年青は、我が家の万年青なんですよ。」と言った。

するとおばさんは、「ええ、そうですよね。」と言った。なんだ知っていたのか?

私は出しゃばりで、自慢しいなので、わざわざ名乗り出た。ちょっと恥ずかしい。

我が家の万年青の実は、毎年近所中の評判になっていて、私の誇りである。

体操の世話役のMさんのお宅の万年青は、毎年20本以上も花穂が出来るが、今までに

実を付けたことは一度も無いそうだ。

Mさんは、肥料を豪勢にやり過ぎている。あれでは、自然とは逆行している。

我が家では、チタンに一晩入れておいた水を時々やるだけ。すばらしい水だと思う。

肥料はやらない。そうする様になってから、どう変わったか、結果が現していると思う。

私の友人達は、我が家の有様、つまり万年青などの庭木の育ち方と、私の髪の毛の変化を

目の当たりにしているので、今では全員、チタンの熱烈なファンになっている。

 

<我が家の万両も素晴しい>

万両の赤い実に、友人の摩耶さんがどんなに感動してくれたことか?

裸だった樹の下に、ひこばえが生えて来て、私を驚喜させてくれた。

(下の写真の通り)⇩

これは、半年前の万両の木。

半年前の五月、木の下には何も無かった。

その後、下にひこばえが生えて来て、私は驚喜した。

今はまさに様変りしている。

成長の素晴しさに、感動している私である。

先日、お邪魔した友人宅の万両は、植木鉢ではなく、

地植えであるにも関わらず、実はポツポツしか生って

いなかった。

 

 

 

 

 

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2020.01.25 ミツバチ会全員集合

40年程前,勤務先の一番年上の女性五人が仲良しで、今だに付き合っている。

40代1名、30代1名、20代3名の計5名は、毎日一緒に帰っていた。

今回、四国に住んでいる1人から、帰阪するから会いたいと連絡があって、

久しぶりに全員集合となった。

ランチをした。

私とBちゃん以外は、全員病気持ちで、たべられないものが多い。

私は、そんな人のグラタンの残りを食べた上げた。

ホテルのカフェで。コーヒーのお代わり自由。

私は、好物のモンブラン。

シフォンケーキを取ったけど、全部は食べられない人がいたので、

残った半分のケーキを、私が食べて上げた。


私達全員よく運動した。但し口の運動だけど!^^。

制限時間一杯、おしゃべりが尽きなかった。

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2020.01.23 遅い初詣

遅い遅い初詣に行った。

 

先日、お参りに行った時は、時間が遅すぎて、この扉が閉まっていて、

お賽銭も上げられず、おみくじも無理だった。

それで、今日は、行き直した。

 

千両の赤い実が可愛い。

         

南天の大きな木があった。赤い実が生っていた。

その横に、うすいピンクの可愛い小さな桃の花が、沢山咲いていた。

ここは、三宮神社。都会の中の小さな小さな神社。

今年のおみくじは、末吉だった。

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2020.01.22 年賀状抽選二等が当たった。

年賀状の抽選が15日だった。

我が家は、四等が3枚と、そして二等が1枚当たった。

二等は、1万枚に1枚の割合になる。

お目出たいな。嬉しいな。

商品は、30項目ぐらいの中から、選ぶらしい。

どれにしようかな。お米が良いかな。^^

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2020.01.17 阪神大震災から25年

1月17日は、阪神大震災の日から、25年目の記念日であった。

神戸は、大きな大きな犠牲があった。

25年経った今、お陰さまで、素晴しいお正月を迎えることが出来る

ことに、深く深く感謝したい。

 

語り継ぐことを大切にしたい。

 


<私はその地震の日、日本にはおらず、香港に居た。>

私は、旅行をしない人だったが、その日は、珍しく香港に旅行していた。

上海生まれの私は、一度香港に行ってみたかった。

香港には、昔の上海に似た何かが残っていないだろうか?

中国に返還される日が近付いていたのでその前の香港に行きたかった。

 

その為に、当時海外旅行三昧だった友人に、次に香港に行く時は

私を連れて行ってと頼んだ。

 

その人は、もう10回も香港にいったので、もう行かないと言ったが、

「それでも、もし行くときはお願いね。」とひつこいことは承知で頼んでいた。

万一再び香港に行きとき、必ず思い出して貰える様に。

案の定,10年目に彼女から電話があり、「あんたまだ香港に行きたいの?』と。

やっぱり覚えてくれていた。

私は行きたいと答えて、すぐサムソナイトを買って来て、そう連絡すると、まだ

本決まりではなかった香港旅行が、私のこの熱心さで本決まりとなった。

シメシメ、私の作戦勝ちだった。この旅行にだけは、私は熱心であった。

私は、もしかしたら、神戸で地震が起こることを知っていたのであろうか?

わたしが香港に出掛けた翌々日、神戸で大地震があり、香港の新聞では,大阪に

大地震があり、200人ぐらい被災したと載っていた。神戸は近いので

被害があったかも知れないと思った。結局、それどころの話では無かったが、

大使館に聞いても、よく分からなかった。

地震の翌々日、帰国した私を見て兄は、驚喜した。

「旅行嫌いのみずえちゃんが、地震の直前に荷物を持ってチャッチャッと海外に

出かけて、揺れ終わってから荷物を持って、チャッチャッと帰って来た。」へ〜?

「不思議なことがあるもんや。不思議なことがあるもんや。」と何度も何度も

兄は言い続けていた。

 

   

<不思議な不思議なお話>

不思議で不思議で溜まらない様なことが重なった結果、私は地震で命を

落とすこと無く、生かせて頂くことになった。

神戸の家は全壊。瓦が全て落下した。家に居たら、生きていなかった

だろう。余りにも不思議なことの連続だった。

私は、これをブログに書き出して8話迄来た時、小学校のクラスメートの

男性が小冊子に纏めてくれた。上の写真は、それである。

そして、「全部書いたら、纏めて1冊にして上げるから。」と言ってくれた。

私は、不思議すぎる出来事の数々を、懸命になって文章に纏めて行った。

ふと見ると26話当り迄来ていた。その時思った。でもまだ終わらない、

後10話ぐらい続くだろうと。

あと10話で纏め終えたとしても、まだ下書きなので、添削をしながら

書き上げるのは、途方も無い時間と、エネルギーが要る。

纏められるのか?完成出来るのか?辛すぎて死んじゃうよ〜と思った。

著作家達は、すごい才能だ。天才なのだ。私はそこまで行けない。

それがつくづく分かった。

下書きの26編は、保存しているが、私の保存データ類が、余りにも膨大で、

しかもパソコンを何台も乗り換えているので、今はすぐには見当たらない。

見付けることは出来ると思うが、見付けてももう触ることはしないのではないかと思う。

小冊子前半を作ってくれたクラスメートの男性に、どうして続きを書かないのかと聞かれた。

申し訳ないが、私の力では重すぎる。本当に失礼してしまった。

 

<多くの支援者の献身で、神戸の家に1年半後に戻ることが出来たこと。>

神戸の私の家は、全壊だった。

全壊とは言え我が家は梁が歪んでいない珍しい家だった。ドアが明き、窓がするすると

開く家は、この辺では我が家だけだと、親しい大工さんが驚いていた。

もし、壊して撤去して貰うのであれば公費で負担してくれて、1日で完了するが、私は

全壊の家を取り壊さず、瓦礫を撤去して修理した。それに1年半掛った。

修理して、父母と住んだ家に再び住めるものなら、絶対にそうしたかった。

苛酷な、時間が掛かる作業だったが、思いがけなく、支援者が大勢協力してくれた。

支援者の方々は、文句も言わず、むしろ私より熱心で、私が1年半の避難生活の後、

神戸に戻る迄、献身的に協力してくれた。

神戸に戻ったのは、震災の翌年の5月4日、震災から1年半後だった。

支援者の方々は、先に神戸の家の前で待っていてくれて、私は、その頃あった小さな

赤いトラックに避難中の荷物と共に乗って到着した。

暖かいパーティーだった。一生忘れない。お赤飯が3カ所から届いた。

その時、聞いた言葉に私はショックを受けた。

「大島さんを神戸に戻す迄頑張ろう!」と言うのが、合言葉だったのだよと。

「え〜?それを、早く言って欲しかった。」とつくづく思った。

皆さんとは、家族ではなく、私はいつ捨てられてもおかしくない関係だった。

なのに、私はわがままばかり言って、大変な仕事をさせて、本当にもう捨てられる

だろうと言う不安で心身をずたずたにしながら、生きていたから。

不整脈で眠れない日々、苦しさで突然起きて、たった今迄呼吸をしていなかったことに

気付く驚怖、避難所での孤独死が新聞を賑わしていて、次は自分だろうと思う日々。

朝、冷たくなった自分を捜しに来て貰う方の為に、ドアはいっそ鍵を懸けない方が親切

ではないかと思った程だった。

胃も腸も、全身ダメージを受けていて、胃カメラを飲むと胃に鮮血があると言われた。

胃が痛いので、養命酒が胃に優しいとのコマーシャルで見て、喜んで飲むと、荒れ果てた

胃のキズに沁みて沁みて脂汗がタラタラ出た時の激しい痛さと襲ってくる悲しさ。

平日は、大阪へ勤務していた。大阪の人に神戸の現状が分かる筈が無い。それどころか、

胃カメラを飲むと言うと、何であんたが胃カメラ何て飲む必要があるのと笑われるのが、

関の山。言ってわかることは絶対にない。苦労を見せずに元気に乗り切っているとしたら、

それは多くの支援者があるお陰であったと思う。不思議なご縁だった。家族以上だった。

その頃の日記が7〜8冊程あるが、もう絶対に読む勇気は無い。それほど辛い日々だった。

よくぞ避難生活を乗り越えて見事に復興を果たしたと、自分の驚異的な信念をただただ

褒めるしか無いと思う。

 

それらの、艱難辛苦の日々を振り返り、10年後にブログに書いた。

こちらを書いたのは恩返しの思いからだったが、一番の協力者の一人であったのばらさんが、

これをどんなに喜んでくれたことか?これがせめてもの救いだった。

彼女は、復興の1年半の間に50〜70回程来てくれた。男性で100回程の方もおられた。

この復興シリーズも7話まで書いて、実はまだ書きたいことがあったけれど、又しても

エネルギーはここでしぼんでしまった。疲れ果ててしまった。

 

本当に私は初志貫徹しない人だな〜と、この時も、自分につぐづく呆れた。

家族が居ない私が、自力で自宅を再建出来たなんて、本当に僥倖としか思えない。

そして、今はその復興した家を離れて、別の街へ移り住んでいる。

本当に多くの方々に支えられて、震災はすでに遠くなり、今の幸せに辿り着いた。

不思議な不思議なお話の締め括りが、こんなに有難い生活だったことに心から

感謝したい。

 

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2020.01.14 麻雀会

(1月14日)

今月の麻雀会は、舞子の友人宅「かささぎ荘」で。



お正月の縁起物の和菓子、はなびら餅。Nさんのお持たせ。

これは、本当に美味しいお菓子で感動した。

お抹茶を点ててもらった。お抹茶ととても会う。お替わりした。

 

(お弁当タイム)

かささぎさんが、とろろ汁を作ってくれた。

 

皆さんのお弁当。

 

私のお弁当。豚の角煮は。お弁当には映えない。

 

この日は、配牌がとても良く、今日もバリバリと頑張るぞと思っていると、

意外や意外!、「あ、ツモってしまったわ」「あ、上がってしまたわ。」

などと、あっさりと上がる人が続出、私は力を出すチャンスの全く無い

一日だった。

一度、リーチ、即、ツモが始まり、いつもの快進撃が始まるのかと自分でも

期待し、他の人も「あ、始まった。怖い。」と言っていたが、暗に相違して

全然上がらない日であった。

結果は、全員ほとんど団子状態、千点差ぐらいのどんぐりの背比べだった。

私は名誉のブービーだった。

 

    

かささぎさんから、万年青の赤い実が庭に成っていると聞いていたので、
わ〜、それは吉兆よ。写真撮らせてねと楽しみにしていたが、な〜んだ、
万年青では無くて、万両じゃないの。

    

万両の実は、珍しくはない。

万両なら、我が家の方が勝っている。^^

 

 

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2020.01.13 豚の角煮を弁当に。

豚の角煮が食べたいと思ったので、豚肉の固まり肉500gを買って来た。

最初にチタン鍋で、ねぎと生姜を入れた水で30分茹でた後、

その茹でた肉を角切りにして、チタン鍋に調味料で煮込んでいるところ。

我が家には淡口醬油しか置いていないので、汁の色が薄い。

 

この状態で2時間煮るーと言うことは、12時半頃迄ね。

豚の角煮の下に、ほうれん草の茹でた物を敷くのが私の決まりなので、

チタン鍋でほうれん草を茹でておく。

       

明日は、たまたま麻雀会なので、これを弁当にすることにした。

右が、チタン製の二段弁当箱。

左は、帰宅後に食べる夕食用。

      

赤い袋が、明日のお弁当の用意。

用意ができて、あ〜、気が楽になった〜!

 

残り物で、その日の夕食。

Iさんから貰った、美味しい地ビールを頂く。

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2020.01.10 靴を受け取りに行く。ガラス越しの青い衣装。

先日、友人に付いて行ってもらって、発注した靴が出来上がる日なので、受け取りに行く。

私の足指の症状は、モートン病というらしい。長く歩くと右足の薬指の裏が痛くなる。

友人が付いて行って上げようと言ってくれたが、大丈夫、1人で行けるからと言ったものの

電車に乗り間違ってしまい、大変な回り道をした。

電車に乗っていて、一向に着かないので、隣の人に聞くと、

「この線は、その駅へ行きませんよ。」と言われて、あわてて飛び降りて、改札で聞くと、

淡路迄戻って、京都線に乗って下さいと言われた。

おかしいな、先日、乗り替え案内アプリで、所要時間などを調べようとした時、「京都線に

◯◯駅はありません」と出て来たので、京都線ではないと思っていたが。京都線なんだって。

 

そう駅の人に言われたので、淡路迄戻ろうと電車に乗った。

また、横の人に聞いた。◯◯駅に行くのは、淡路で乗り換えですねと。

淡路で降りて、乗り換えようとエレベーターを待っていたら、女の人がやって来て、

「向かいのホームで、京都線の方に乗って下さいね。」と、言いに来てくれた。

私が人に聞いているのが遠くから耳に入って、わざわざ電車から降りて言いに来てくれたのだ。

その駅から、京都線ともうひとつあったので、心配して言いに来てくれたのだ。

そして、すぐ、元の電車に戻って、向こうを向いて立たれた。

その方の後ろ姿が、ガラス越しにぼんやりと見えていたのを、私はじっと見ていた。

もしも、こちらを振り向かれる様なことがあったら、深く深くお辞儀をしようと思って、ずっと

見つめていたが、その方は、振り返られることなく、車窓は走り去った。

その時、私が思ったことは、「何と、私の様な人が居るもんだということだった。」「まるで、

私が、もう1人居たとでも言おうか?」おかしな言い方だが、そう思った。かるい衝撃を受けた。

ガラス越しに滲んで見えた、その方の青い衣装が、まだ目に浮かぶ。

 

阪急 京都線 相川に行ったが、「乗り換え案内」では、
上の様なことを言ってくる。

「乗り換え案内」さ〜ん!
この駅あるよ〜。京都線に。タノンマッセ〜!
お陰で、迷ったで〜!^^

(失礼しました。)

 

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2020.01.09 さくらさんと又会う、チタン鍋で糠を炒る。

朝、9時頃さくらさんから電話有り。また、あのお寿司を食べたいと。

1週間前の土曜日に会ったばかり。いつもあっさりしている彼女にしては珍しい。

では行こうかと、梅田で会う。お寿司は美味しかったが、写真撮り忘れ。

その後コーヒーを飲みに行き、いろいろおしゃべり。

彼女は、近所に麻雀教室を見付けたので、そこへ行くつもりだと言う。

あと2年ぐらい働くつもりだが、その後のことを考えて、趣味と友人を持って

おきたいらしい。

いずれ廻りの友人達が少なくなってゆくと思うと、とても淋しいと言う。

 

私達50年も家族以上の付き合いをした3人組の中ののばらさんが、3年前に

亡くなった時、さくらさんは私に、「お願い。私を1人にしないでね。」と言った。

気の強い彼女が、こんなことを言うのか、珍しい言葉だった。それを思い出す。

彼女より1〜2才上ののばらさんが亡くなったので、これがショックで、二人より

9才程も上のわたしのことを心配したのだろう。

まだ当分大丈夫よ。と言っておきたい。

 

今回、会ってまだ一週間しか経っていないのに、又、会いたがる。

私とのばらさんは、毎日の様に会っていたが、彼女は仕事もあったからか、

以前は、全てがさっぱりしたしたものだった。

「あれは男やで。」と二人で悪口を言っていたものだった。

なのに,この彼女の”らしくない”微妙な変化に、私はいささか驚いている。


<10日は、お鏡開き>

彼女が「明日10日は、お鏡開きやから、忘れたらあかんよ。」と言ったが、

我が家にはお鏡がない。これは反省した。来年からはお鏡を飾ろうと思った。

日本人なのだから。

 

<チタン鍋で、糠を炒る>

帰宅後、ルクアのモクモクで貰って来た糠を炒った。チタン鍋は形が、上へ広がっている

ので、炒り物にも、その他全ての料理にとても使い易い。

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2020.01.09 ディナーご招待

(1月9日)

朝9時頃、友人の画家の Iさんから電話があった。
今日のお昼か、夕食か、どちらか食べに来ない?と。

いつも、その日のお誘いだが、私は暇なので、行こうと思えば行くことが出来る。
ま、実は、正直、それで誘ってくれやすいらしい。

先日、「1ヵ月に1回、貴女を食事にご招待したいと決めているのよ。」と言って
いた。

 

玄関を入った所に、我が家から、こちらへお輿入れの(つまり、差し上げた)
作家物の吹上ガラスの花瓶があり、松と柳が飾られていた。

 

黒豆など、手作りの料理が並ぶ。
バカラのグラスで、地ビール。
料理はもっとあったが、写真は撮り忘れた。


日本酒の瓶の中に、ガラスのねずみと2020の文字が入っている。
珍しい。限定の記念品らしい。

 

彼女のコーヒー好きは、半端ではない。さすがに美味しかった。

コレコレ! 以前、無造作に置かれているこのグラスの素晴しさに、
私はすっかり感動してしまって、すると1つを分けてくれたので、
それを我が家で大切にしている。

お土産に、又地ビールを頂いた。

帰る時、彼女は、「明日から、沖縄に行くのよ。」と言った。
いつも、「明朝五時起きで、山に出発するのよ。」などと聞いて
いるので、特別驚かないが。

腰の滑り症で、6センチも背が縮んだという、そして、今でも痛いと
言う彼女なのに、山には行きたいらしい。

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2020.01.09 チタン鍋で蒸し料理

さくらさんは、チタン鍋愛用者で、チタン鍋のみを使って料理している。

先日、さくらさんと話していて、驚いたことがあった。彼女が、
「チタン鍋があったら、電子レンジなんて要らないよね。」と言うので,
私は「うんそう思う。茹でるとき、少量の水を入れて蓋をしたら良いもんね。」
と言った。

すると「ちがうちがう、水なんて要らないよ。下にもやしを敷くんよ。」
と言った。そこで、私もピンと来た。その通りだ。もやしの水気で茹でる
と良いのだ。良いことを聞いた!

そこで、一番下に、もやし(太もやしの方が、シャキシャキして美味しい。)
を敷いて、その上に、白菜をのせて、その上に、豚バラ肉を拡げた。
そのまま、蓋をして蒸す。


出来上がり。
肉が少なすぎた。もっとあった方が良い。

ポン酢で食べるとおいしいこと。美味しいこと。感動した。

豚肉が少なかったことを、悔やむこと、悔やむこと。!!!

余りの美味しさに、感動しまくりだった。

太もやしのシャリシャリしたおいしさが又、素晴しい。

やみつきになりそうだ。

肉は、断然豚バラ肉が良いと思う。

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2020.01.07 七草粥

 

(昼食)大好きなお雑煮 餅3つ 好物のごまめと紅白膾と共に。
「そんな〜!、いくらなんでもお餅を3つも。今に肥えるよ。」と
友人に呆れられた。

(夕食)七草粥

最近の私は、わざわざ青菜を求めないでも、家にある青い野菜を適当に
使うことにしている。

今年は、みずな、三つ葉、菜の花、かいわれ、白菜(これは白いけど)、
の五草粥になった。美味しかった。

昔、本当に野に草を摘みに行っていた頃の野草は、アクが強くて苦かった
ことでしょうね。
今の野菜は、食べ易くなっている分、栄養価は落ちているでしょう。

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2020.01.06 正月六日、今日ものどかなお正月、駅前花壇の手入れ。

 

(昼食)

Iさん手作りワインを飲む。この日も、エスプレッソコーヒーに感動。

 

(夕食)

私は、お雑煮が大好きだが、昨日迄は、おせちを食べないといけないので
お雑煮は控えていた。今日からは、思う存分食べるぞと思っている。
出汁は、昆布と、椎茸と、かつお節で、何日も前から、煮返しているので
色は悪いが,美味しかった。

お餅は、小餅を3個食べた。お餅が大好き。幸せなお正月だ。
私は、糠漬けは大根が一番好きではないかと思う。色が美しい。 清々しい。
歯触りが爽やか。しみじみ感謝の一日だった。

 

駅前の花壇は、Mさんが手入れして下さっている。
年末には、葉牡丹の苗も、自分で買って来て植えていた。 

駅前の花壇は、担当部署が分からなくて、荒れ放題だったので、何処の管轄なのか
Mさんが聞き合わせたががわからないので、彼女が10年以上前から、自主的に手入れ
している。苗も肥料も自費で購入して、毎日水もまいている。

Mさんは、マンション仲間の体操のお世話もして下さっている。明るくおとなしく
静かな方で、こんな人は居ないと、皆さんの感謝と尊敬の的となっている。

わたしが脚が悪かった時も、買い物やゴミ出し迄やって下さった。
そして、そんなことはすっかり忘れておられる。

 

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