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2019.12.01 感動したこと。(高野聖のこと)

私の元職場の上役で、90才になられた方がいる。

最近まで、この方を囲む会が続いていたが、90才を機に、今までの会などすべて終らせて、
自ら、ご自宅で、庭の手入れと読書の悠々自適の生活に切り替えられた。 

そして、数年前から、ブログを始められて既に約450話に及ぶ。
それらの内容は、正に博覧強記の方だけあって、日本古代から現代への多岐にわたる知識が
網羅されていて、深く感動している。
(私などは内容が無い人なので、日記しか書けず、いつも羨ましく思っている。)


そして、今回、特に次のお話に感動した。

 

 「行きたいが、もう私の体では行けない所ー高野山の谷」 
 (https://ameblo.jp/morikawa1113/entry-12542729643.html)

(ブログ「閑話休題」)
(https://ameblo.jp/morikawa1113/) 

「高野聖」と言われた人々、谷間に住み、物乞いの生活をしながらも、布教する修業者達。

要は僧尼令の官許を得られない、僧体の俗人を聖と呼んでいたと思う。彼らは勧進を主な目的としていた。

  おどまかんじんかんじんあん人ひとたちヤはよか衆 よか衆よか帯よか着いもん  五木の子守歌

 とあるように、勧進とは、物乞い、即ち宿無し乞食をも意味する言葉であった。」

 

「高野聖」とは、谷間に住み、勧進(本来の意味は、仏教の教えを説いて善の道に導くこと)を行う、
しかし、実際は(物乞い、乞食の生活)をしながら、真摯に布教に邁進する修行者達とのこと。

状況からすれば、山賊、匪賊になってもおかしくない状況なのに、人々をその様にさせた仏教のあり方、
そして空海の偉大さに頭が下がりました。

昔の西洋人の旅行記に、「日本人は貧しい、しかし気高い。そして貧しいことを少しも恥ずかしいこと
とは思っていない。」という言葉も、この聖の生き方に関係あるのではないでしょうか? 

日本人の精神性は、この辺りから証明されるのではないかと思いました。
本当に、昔の人々は偉かったな〜とつくづく思いました。 頭が下がります。

ぜひ、このブログをご一読頂きたいと思いご紹介しました。

 

 

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