教えられるままに自分でタイヤの空気圧調整をやってみて、何とかできて、それが自慢・・・・。
十年余り前、父に認知力の低下がみられるようになった。
もう一人では生活ができないだろうということで仕事をやめて父の住む田舎に帰り、五十半ばと八十過ぎの、男二人暮らしを始めた。老々介護、というやつだ。
幸いにも父の四肢に不自由はなく深夜徘徊もなかったから、ただ一緒に生活して炊事洗濯の心配だけしていれば良かった。
どうってことのない生活だけど、場合によっては自分でやってもらわなければならないこともある。(それをすることが認知力の低下を少しでも抑えられることになる。時には回復につながることもある。)
そのための説明(手順)をしようとする。何度も繰り返すことになる。同じことを繰り返すより、もっとわかりやすい言い方を、と考える。そうして説明すると、ますます伝わらなくなる。
日記をつけてみて驚く。何かをやろうとするときの手順というものは、実際書き出してみると随分色々なことを要求しているのだと気が付く。「電気ポットから急須に湯を注ぐだけ」だって、やらなければならない事がいくつもある。
急須の蓋を取る。急須のツルを持ってポットの注ぎ口まで持ち上げる。ポットのロックを解除する。給油ボタンを押す。
これだけで手順は四つ。普段何気なしにやっているからこそ、いざ認知力が低下し始めると、「四つもやらなきゃならない」なんてのは大変に困難なこと、となる。
それに加えてそばでうるさく干渉する者(ペットや、時にはテレビ等の音声)があればどうなるか。
程度の差こそあれ、初めて何かをするという時は、意識せずともこれと同じ精神状態(または認知力の低下)に陥る。一般に言う「あがってしまう」というやつだ。
子供は親がそばについていると安心して行動できるが、大人はそばに人(主に他人)がいると認知力が低下する。空気圧調整に集中しなければならないのに、見られているからうまくやらねば、という全く関係のない目的に支配されやすくなる。
これが何気なしにやっていた手順を狂わせる。
コンプレッサーの先に空気圧ゲージがついているか否か、コンプレッサーが持ち運びのできるタイプのものか否か、説明が大きく書かれているか否か等々、「メカ音痴」の障壁は途方もなく高く、厚い!
・・・・・・な~んてね。