《御師の話は布教のための方便であって、私欲から話を作り出す、というわけではない。
初めに少々の誤解が生じたとしても、まずは「聞いてみよう」「見てみよう」という気持ちを起こさせることが何よりも大事、と御師は考えた。》
前回、こんな風なことを書きました。
「方便」で以て興味を持ってもらう。その時、参拝のための大まかな知識も伝える。
そのあたりから参拝者に、段々に「考え方」の基になる「感じ」(これまでになかった新しい「感じ」)が生れ、その「感じ」のせいで、参拝者自身を取り巻く環境が、これまでとは違った、とても新鮮なものに見え始める。
由緒のある神社に参拝し(参拝時にその由緒を改めて思い出し)、感動する。
予備知識なしに、いきなり、団体旅行の旗を持ったガイドさんに
「え~、この神社は何とかかんとか~」
とやられて、
「へえ~、そりゃ何とも有難い神様なんだな。拝まなけりゃ」
では、あまりに性急過ぎて感動する間がない。感動はおろか、有難みも半減するでしょう?
やはりここはそれなりの事前学習、或る程度の予備知識と、「参拝するんだから」というそれなりの思い入れがあってこそ、感動するものなんじゃないでしょうか。奇岩景勝の地で感動するのとはわけが違います。
感動する。崇敬の念が高まる。その感動で、今後の全てを見、感じ、行動するようになる。
すると生活が変わる。生活が変わると未来も変わる。
神社参拝は、そういった、参拝してみて「有難いな」「忝い」等の敬虔な気持ちになることを教えてくれます。
そう考えると、まずは意識(興味)を持つ。それから大まかなことを知る。参拝までに諸々の現実的な用意(時間、資金)をする。
用意をしているうちに「心構え(心積もり)」ができる。そして何日もかけて実行(参拝)する。
こんな風にそれなりの準備をして参拝しようとするから、極端な話、「忝い」と感じよう、という態勢(心積もり)もできようというものです。
やっぱりこれは「あやかりたい」、じゃないでしょうか。暇を持て余していて、「退屈しのぎに神社でも行ってみるか」ではこうはならない。
事前学習→実行動→目的達成。
方便を以てきっかけを作るのは御師の仕事だけれど、そこからは間違いなく当人の心がけ次第。謙虚に、真剣に取り組んでこそ「あやかる」ことができる。間違いなく新しい「感じ」を実体験し、新しい考え方で日々を過ごすようになる。
さて、やっと白兎神社のことです。
ワニをだまして笑っていた白兎は嫌な奴です。それが皮を剥がれて、しくしく泣いていた。
そうなると我々は可哀そうだと思います。まず、「卑劣なことをしたんだ。いい気味だ」、とは思わない。
でも、先に通った八十神はとんでもないことを教える。「潮水で体を洗え」、と。
さすがに末弟の大国主に荷物を全部持たせるだけのことはある。
そこで大国主が治療法を教えてやって兎は喜んで・・・、というのだけれど、この先にまだ話があるでしょう?
傷が治った!「お礼に・・・」と白兎は「八上比売と結婚するのは貴方です」と預言を伝える。
突然、立派な神様に変身してしまうわけです。助けてやったはずの大国主が逆に礼を言って立ち去ることになる。
何じゃ、これは。そんな立派な神様が、何でワニをだまして「皮を剥かれて赤裸」、なんてことになってたんだ???
白兎は、実はこの地の産土神で、尊い神様になる筈の大国主を待っていた。そして、敢えて弱々しい姿を見せて大国主の本性を見極めようとしていたと考えることもできます。
でも、隠岐に棲んでいた白兎が因幡の地の産土神?それで預言を?
前に書いたように、ここで「ほら!辻褄が合わないことばかりじゃないか」と言ってしまえばそれまでです。
反対に、このまま全てを受け入れようとすると話が無茶苦茶になり、ファンタジー、想像世界(仮想世界)さえ成立しない、ただの夢物語になってしまう。それではここから何も読み取れない。
「古事記(神話)は事実ではなく、真実が書かれているんです」というあの言葉を思い出す必要があります。
脱線するように見えますが、一つ。
「祓(はらえ)」の徹したものに「禊(みそぎ)」があります。「みそぎ」は「身削ぎ」だとも言われます。文字通り、身体を削るようにして穢れを祓うわけです。普通は海に浸かって、海水で行います。冷たい潮水で強く体をこする。
確か九州の宗像大社では、今でも下帯も取って頭の先まで全身、海に浸かり、禊をするんじゃなかったでしょうか。
通常でも大変な作法ですが、罪を犯した時の禊はもっと強烈です。今の政治家などが不始末の責任を取って役職を辞任することなどを「禊」と称していますが、本来はここから来たものです。スサノヲの命が高天原で乱暴狼藉を働いて天照大神が岩戸に隠れたという事件(?)。事後処理として、スサノヲの命は高天原から追放されるのですが、その際、禊として、手足の爪全てを剥がされたと言われています。白兎が皮を剥がれた話は、これと重なって見えます。
禊の結果、スサノヲの命は出雲に降りて八岐大蛇を退治し、地上を治める神となり、白兎は大国主に出雲を治める指針を提示する。それぞれ、禊の後に神格が飛躍的に向上している、ということもできます。
意識的に行う「何か」をきっかけに、物事が激変する。←「古事記(神話)は事実ではなく、真実が書かれている」
あと少しなんですが、また明日。
初めに少々の誤解が生じたとしても、まずは「聞いてみよう」「見てみよう」という気持ちを起こさせることが何よりも大事、と御師は考えた。》
前回、こんな風なことを書きました。
「方便」で以て興味を持ってもらう。その時、参拝のための大まかな知識も伝える。
そのあたりから参拝者に、段々に「考え方」の基になる「感じ」(これまでになかった新しい「感じ」)が生れ、その「感じ」のせいで、参拝者自身を取り巻く環境が、これまでとは違った、とても新鮮なものに見え始める。
由緒のある神社に参拝し(参拝時にその由緒を改めて思い出し)、感動する。
予備知識なしに、いきなり、団体旅行の旗を持ったガイドさんに
「え~、この神社は何とかかんとか~」
とやられて、
「へえ~、そりゃ何とも有難い神様なんだな。拝まなけりゃ」
では、あまりに性急過ぎて感動する間がない。感動はおろか、有難みも半減するでしょう?
やはりここはそれなりの事前学習、或る程度の予備知識と、「参拝するんだから」というそれなりの思い入れがあってこそ、感動するものなんじゃないでしょうか。奇岩景勝の地で感動するのとはわけが違います。
感動する。崇敬の念が高まる。その感動で、今後の全てを見、感じ、行動するようになる。
すると生活が変わる。生活が変わると未来も変わる。
神社参拝は、そういった、参拝してみて「有難いな」「忝い」等の敬虔な気持ちになることを教えてくれます。
そう考えると、まずは意識(興味)を持つ。それから大まかなことを知る。参拝までに諸々の現実的な用意(時間、資金)をする。
用意をしているうちに「心構え(心積もり)」ができる。そして何日もかけて実行(参拝)する。
こんな風にそれなりの準備をして参拝しようとするから、極端な話、「忝い」と感じよう、という態勢(心積もり)もできようというものです。
やっぱりこれは「あやかりたい」、じゃないでしょうか。暇を持て余していて、「退屈しのぎに神社でも行ってみるか」ではこうはならない。
事前学習→実行動→目的達成。
方便を以てきっかけを作るのは御師の仕事だけれど、そこからは間違いなく当人の心がけ次第。謙虚に、真剣に取り組んでこそ「あやかる」ことができる。間違いなく新しい「感じ」を実体験し、新しい考え方で日々を過ごすようになる。
さて、やっと白兎神社のことです。
ワニをだまして笑っていた白兎は嫌な奴です。それが皮を剥がれて、しくしく泣いていた。
そうなると我々は可哀そうだと思います。まず、「卑劣なことをしたんだ。いい気味だ」、とは思わない。
でも、先に通った八十神はとんでもないことを教える。「潮水で体を洗え」、と。
さすがに末弟の大国主に荷物を全部持たせるだけのことはある。
そこで大国主が治療法を教えてやって兎は喜んで・・・、というのだけれど、この先にまだ話があるでしょう?
傷が治った!「お礼に・・・」と白兎は「八上比売と結婚するのは貴方です」と預言を伝える。
突然、立派な神様に変身してしまうわけです。助けてやったはずの大国主が逆に礼を言って立ち去ることになる。
何じゃ、これは。そんな立派な神様が、何でワニをだまして「皮を剥かれて赤裸」、なんてことになってたんだ???
白兎は、実はこの地の産土神で、尊い神様になる筈の大国主を待っていた。そして、敢えて弱々しい姿を見せて大国主の本性を見極めようとしていたと考えることもできます。
でも、隠岐に棲んでいた白兎が因幡の地の産土神?それで預言を?
前に書いたように、ここで「ほら!辻褄が合わないことばかりじゃないか」と言ってしまえばそれまでです。
反対に、このまま全てを受け入れようとすると話が無茶苦茶になり、ファンタジー、想像世界(仮想世界)さえ成立しない、ただの夢物語になってしまう。それではここから何も読み取れない。
「古事記(神話)は事実ではなく、真実が書かれているんです」というあの言葉を思い出す必要があります。
脱線するように見えますが、一つ。
「祓(はらえ)」の徹したものに「禊(みそぎ)」があります。「みそぎ」は「身削ぎ」だとも言われます。文字通り、身体を削るようにして穢れを祓うわけです。普通は海に浸かって、海水で行います。冷たい潮水で強く体をこする。
確か九州の宗像大社では、今でも下帯も取って頭の先まで全身、海に浸かり、禊をするんじゃなかったでしょうか。
通常でも大変な作法ですが、罪を犯した時の禊はもっと強烈です。今の政治家などが不始末の責任を取って役職を辞任することなどを「禊」と称していますが、本来はここから来たものです。スサノヲの命が高天原で乱暴狼藉を働いて天照大神が岩戸に隠れたという事件(?)。事後処理として、スサノヲの命は高天原から追放されるのですが、その際、禊として、手足の爪全てを剥がされたと言われています。白兎が皮を剥がれた話は、これと重なって見えます。
禊の結果、スサノヲの命は出雲に降りて八岐大蛇を退治し、地上を治める神となり、白兎は大国主に出雲を治める指針を提示する。それぞれ、禊の後に神格が飛躍的に向上している、ということもできます。
意識的に行う「何か」をきっかけに、物事が激変する。←「古事記(神話)は事実ではなく、真実が書かれている」
あと少しなんですが、また明日。
2017.04/17