神道(しんとう)の、いや、もっと前の「あの世」の話です。
例によって以前に書いた日記から、です。
「地獄」「極楽」という佛教の「方便(たとえ)」。
一般に「方便品(ほうべんぼん)」と言われる仏典(経品、お経です)に見られるたとえ話の世界では、地獄、極楽も、実は「あの世」ではない。
あれらは、あくまでも心の在り方を六道(重層する六つの世界)で説明しているだけです。
死後の世界、というのを「あちら側(彼岸)」と「こちら側(此岸)」という風に分け、普段は往来ができないもの、程度に観念(分別)して、そんなことより、「それを忌避するより、あるがままを認めなさい」というのが佛教で、でも、認めなさいと言われたって、はい、そうですか、とならないのが人の心。腑に落ちるまでに時間がかかるし、それなりの考え方の変革をしなければならない。
佛教だって、やっぱり「仏も押し退けつつ抱きしめる」のです。
一般に「方便品(ほうべんぼん)」と言われる仏典(経品、お経です)に見られるたとえ話の世界では、地獄、極楽も、実は「あの世」ではない。
あれらは、あくまでも心の在り方を六道(重層する六つの世界)で説明しているだけです。
死後の世界、というのを「あちら側(彼岸)」と「こちら側(此岸)」という風に分け、普段は往来ができないもの、程度に観念(分別)して、そんなことより、「それを忌避するより、あるがままを認めなさい」というのが佛教で、でも、認めなさいと言われたって、はい、そうですか、とならないのが人の心。腑に落ちるまでに時間がかかるし、それなりの考え方の変革をしなければならない。
佛教だって、やっぱり「仏も押し退けつつ抱きしめる」のです。
(物の考え方を身に着けることで、世界を新たに捉え直すことをする。聖書の「神は押し退けつつ抱きしめる」、「これまでのすべてを排除しながら貴方の全てを受け入れる」、というのと同じ論理)
ほら、また脱線した。
日本の「死後の世界」、です。
だから、地獄、極楽の対立が死後の世界、ではない。三途の川があって、向こうが彼岸(ひがん)、こっちが此岸(しがん)。六道銭を渡し賃として持って行かなきゃ、渡してさえくれない。あの世に行けない。「地獄の沙汰も金次第」は、この六道銭の話もあるんでしょう。
「六道」、から、「あ、これは佛教の方便(たとえ)だよ」、とわかります。
真田の旗印が六文銭なのは、六道銭なのでしょう、「死ぬ覚悟はできている」と。
ほら、また脱線した。
日本の「死後の世界」、です。
だから、地獄、極楽の対立が死後の世界、ではない。三途の川があって、向こうが彼岸(ひがん)、こっちが此岸(しがん)。六道銭を渡し賃として持って行かなきゃ、渡してさえくれない。あの世に行けない。「地獄の沙汰も金次第」は、この六道銭の話もあるんでしょう。
「六道」、から、「あ、これは佛教の方便(たとえ)だよ」、とわかります。
真田の旗印が六文銭なのは、六道銭なのでしょう、「死ぬ覚悟はできている」と。
三途の川も、だから、日本の「死後の世界」ではない。
では、ということで、お待ちかね(?)「黄泉(よみ)の国」、なんですが。
では、ということで、お待ちかね(?)「黄泉(よみ)の国」、なんですが。
これ、黄泉津比良坂(よもつひらさか)という坂が、この世とあの世をつないでいて、イザナギの命が、失ったイザナミの命を連れ戻しに黄泉の国へ行き、「待っているように」、という約束を破って、様子を見に戻ったため、黄泉津醜女(よもつしこめ)に追い掛けられ、必死で逃げ帰った坂である、と。
黄泉の国、黄泉津醜女、黄泉津比良坂、などから、「黄泉の国があった」となるわけですが、どうも、これ、もう一つピンときません。
ただ、何となく、イザナミの命が支配する死後の世界、というのは墳墓の中の話、みたいな感じがします。
玄室と羨道の間の話を、人気漫画の一つの戦いみたいに延々と描く。
実際、神道で「あの世」というのはこれだけで、どうも重苦しく、陰気な気分が拭えない。
それだけでなく、あまりに中身がおどろおどろしく、そのくせ、内容に乏しく貧相だ。どうも、神道では「死後の世界」は、現世と表裏といった風ではないみたいです。
古事記から(八百万の神々のことが書かれているのですから)死後の世界をさがすと、こうなってしまい、黄泉の国で行き止まりです。
対して、「死」に対する心だけ読むならば、こんなのがあります。
古事記の中に我が子を失った二柱の夫婦神が、その子の友達だった神が弔意をあらわしに来たのに、我が子が生き返ったと、抱きつかんばかりに狂喜したものだから、その神が大変に怒り狂い、祭壇も何もかもぶち壊して引き上げた、という話。
死。不浄なものを、怒り狂うことによって祓った、ということになります。勿論、これは「死生観」で、死を忌むべきもの、穢れたもの、と見ていたことは分かるものの、「死後の世界」そのもの、ではありません。
こうなるともうお手上げなんですが、実は古事記よりまだ古いかもしれない資料がある。
それが万葉集です。
天皇の命によって編まれた世界最古の歌集は、その時に詠まれた歌のみならず、過去の歌も入るわけですから、その歌の中に、物の見方、文化、も見える。
そうした中から、死後の世界を考えることができるもの。
それが枕詞の一つ、「あしひきの」という言葉です。「の」を取ってしまえば、「あしひき」。
「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を一人かも寝む」
「あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れし山のしづくに」
何故「山」という言葉の枕詞として、「あしひき」という言葉が用いられるのか。
「足引きの」、です。「足を引っ張る」。
つまり、こうです。山は足を引っ張られるところ。足を引っ張られて迷ってしまうところ。迷ってしまうと帰れない。
死んだ人は、みんな山の中に居て、現世に帰って来られずさまよっている。
だから、人を見ると、人恋しくて、足を引っ張って戻れないようにする。
一人で山に入ると、そういうことになるから、決して山には入らないように、ということになるのですが、初めの段階、というのは、そうやって、何となくうすぼんやりと、死後の世界を思う。
なんだか怖い、という気持ちはあるものの、随分と、淋しく、切ない思いがします。
これが、一番古い、日本人の心象です。何とも純朴で穢れのない思いではあります。
しかしここには、虐殺の恐怖に怯えて暮らした歴史は、存在しないのが、直感されます。
「山」は、そういった場所。神聖でもあるし、おそろしくもある場所。
でも、見方を変えれば、死者が住む場所を変えたわけだから、そこは尊重して踏み入らない。
日本の神は基本としては山にあって、神社も本来は山そのものが御神体であるから、と、本殿はなく、拝殿だけだった、というのも、この辺りの、「畏敬」の念を感じます。
初めは「恐れ」だったのでしょうが、「畏れ」に変わる。
この辺りから、「神」への思いも明らかになってきたのかもしれません。
「敬して見詰める」のと「畏れて頭を上げられない」のとでは、心の発達にも大きな違いが出て来ます。
黄泉の国、黄泉津醜女、黄泉津比良坂、などから、「黄泉の国があった」となるわけですが、どうも、これ、もう一つピンときません。
ただ、何となく、イザナミの命が支配する死後の世界、というのは墳墓の中の話、みたいな感じがします。
玄室と羨道の間の話を、人気漫画の一つの戦いみたいに延々と描く。
実際、神道で「あの世」というのはこれだけで、どうも重苦しく、陰気な気分が拭えない。
それだけでなく、あまりに中身がおどろおどろしく、そのくせ、内容に乏しく貧相だ。どうも、神道では「死後の世界」は、現世と表裏といった風ではないみたいです。
古事記から(八百万の神々のことが書かれているのですから)死後の世界をさがすと、こうなってしまい、黄泉の国で行き止まりです。
対して、「死」に対する心だけ読むならば、こんなのがあります。
古事記の中に我が子を失った二柱の夫婦神が、その子の友達だった神が弔意をあらわしに来たのに、我が子が生き返ったと、抱きつかんばかりに狂喜したものだから、その神が大変に怒り狂い、祭壇も何もかもぶち壊して引き上げた、という話。
死。不浄なものを、怒り狂うことによって祓った、ということになります。勿論、これは「死生観」で、死を忌むべきもの、穢れたもの、と見ていたことは分かるものの、「死後の世界」そのもの、ではありません。
こうなるともうお手上げなんですが、実は古事記よりまだ古いかもしれない資料がある。
それが万葉集です。
天皇の命によって編まれた世界最古の歌集は、その時に詠まれた歌のみならず、過去の歌も入るわけですから、その歌の中に、物の見方、文化、も見える。
そうした中から、死後の世界を考えることができるもの。
それが枕詞の一つ、「あしひきの」という言葉です。「の」を取ってしまえば、「あしひき」。
「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を一人かも寝む」
「あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れし山のしづくに」
何故「山」という言葉の枕詞として、「あしひき」という言葉が用いられるのか。
「足引きの」、です。「足を引っ張る」。
つまり、こうです。山は足を引っ張られるところ。足を引っ張られて迷ってしまうところ。迷ってしまうと帰れない。
死んだ人は、みんな山の中に居て、現世に帰って来られずさまよっている。
だから、人を見ると、人恋しくて、足を引っ張って戻れないようにする。
一人で山に入ると、そういうことになるから、決して山には入らないように、ということになるのですが、初めの段階、というのは、そうやって、何となくうすぼんやりと、死後の世界を思う。
なんだか怖い、という気持ちはあるものの、随分と、淋しく、切ない思いがします。
これが、一番古い、日本人の心象です。何とも純朴で穢れのない思いではあります。
しかしここには、虐殺の恐怖に怯えて暮らした歴史は、存在しないのが、直感されます。
「山」は、そういった場所。神聖でもあるし、おそろしくもある場所。
でも、見方を変えれば、死者が住む場所を変えたわけだから、そこは尊重して踏み入らない。
日本の神は基本としては山にあって、神社も本来は山そのものが御神体であるから、と、本殿はなく、拝殿だけだった、というのも、この辺りの、「畏敬」の念を感じます。
初めは「恐れ」だったのでしょうが、「畏れ」に変わる。
この辺りから、「神」への思いも明らかになってきたのかもしれません。
「敬して見詰める」のと「畏れて頭を上げられない」のとでは、心の発達にも大きな違いが出て来ます。
信仰も、「畏れる」と「畏敬の念を持つ」、とは違ってくるでしょうね。
「敬する」、だけなら「仰」はないから、信仰とは言わないのかも。