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ただの日記

日蓮のやせ我慢

2019年12月17日 | 神社
 「やせ我慢」ってのは「痩せ」の「我慢」だ。
 その心は「痩せ」は「体力がない」。

 「体力がない」者が我慢したって「大したことない」。
 でも、大したことなくても、「我慢」してやってるうちに、体力はついてくる。
 それに体力がないんだから、「我慢」(無理)したって、大事には至らない。

 そうやって、段々に力がついてくる。
 体力だって精神力だって同じことなんだから、とにかく取り組む、やるしかないんだ、何度も何度も挫折しながら。

 そんなつもりで、何回か書きました。「生兵法」だって同じで、初めはみんな生兵法なんだ。
  要は生兵法と自覚して、こつこつ、やせ我慢すること。
 「資源もない島国のくせに、前後の見境もなくアメリカと戦争なんかして負けて( ^ω^)・・・馬鹿な国、と世界中が思ってるんだ」
 と、教育されて育って来たとしても
 「日本って本当は良い国なんだよ」
 って話を、優しく繰り返されると、日本人、根が素直だから
 「そう言われればそうかもしれないよなぁ。」
 となる場合が多い。

 自己暗示かも知れませんよ?
 「オレはできる。オレは選ばれた人間だ。オレの代わりはいないんだ!」
 「日本、サイコー!」
 そんな気になってくる。

 繰り返し繰り返し言い聞かせていると、気持ちが揺れなくなる。それどころか確固としたものになってくる。
 実体験がなくって、手触りなんかないもんだから、思い込みが徹すると良いことばかりになってくる。
 だから念仏行者がいるんだし、同じく「良い言葉の繰り返し」、ということで「南無妙法蓮華経!」と声高に唱えること、十万遍、百万遍、なんてことしてると、精神が統一されて気持ちの中から雑念が無くなっていく。

 でもね、「資本論」読まないで、一日中
 「なぁ~むぅ~しぃ~ほんろぉ~ん~」
 って繰り返してたらマルクス思想が分かるのか。
 冗談じゃあないよ、そんなバカなことあるわけない。
 それと同じでしょ?題目(題名。蓮華経という経品(きょうぼん))に、「お」をつけて「お題目を唱えなさい」、って。
 「南無妙法蓮華経(私は素晴らしいお経の蓮華経と一体である)」と百万遍唱えたら、「蓮華経」の教えが分かるのか?
 「南無阿弥陀仏」と唱えるのとは、全く質が違うのに??? 
 「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏」を思い浮かべて唱える。けど「南無妙法蓮華経」は「素晴らしい蓮華経」というのはどんな姿?
 読んで考えなきゃダメでしょ?
 以前は能く使われた「お題目ばかり唱えてないで、やってみろ!」という言い回しは、ここからきている。     

 これ、「創価学会の専売」、みたいに思っている人がいるけど、日蓮宗ですからね。創価学会は日蓮宗の中の、大石寺(たいせきじ)派の中の、「講」の一つなんだから。
 言ってみれば在家の信者団体でしかない立場なんだけど、参加者が一時期は一千万人と言われるほどにもなり、本山なんか比べられないほどの財力を持ち、政党までつくって、新興宗教として国に申請、認可され、独自の活動を始めたもんだから、どっちが上だか何だか分からなくなってしまった。NTTとNTTドコモの関係より凄い。桁違いに。

 で、本山の大石寺にああだこうだと口出しする。本山は本山で、献金は受け取りながら、
 「たかが『講』の分際で!やかましいわい!」
 、と湯気立てて怒る。

 お互い、日蓮上人の
 「日本の国を護る!」
 という誓願はどうなっちゃったんでしょうね。

 日蓮は自分の考える蓮華経の解釈を、国教として認めさせ、自身が国の精神的な柱になる、という彼なりの「やせ我慢」を貫いたんです。
 けど大石寺も、創価学会もホントにまあ・・・・。
 宗祖の心は、どこ行った。

  あ、又、脱線シタヨ、シャチョさん。


コメント
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