またもや「要は中身だ!」などと書いてしまった。
なのに今回は「まずは形だ!」??ヘーゲルの弁証法だ、「否定の否定」だ!???
とは言うものの「要は中身だ!」は、決して間違ってはいないと思う。
ただし、「中身こそが大事だ。外面、形式、作法なんかは、どうだっていいんだ」、ということじゃない。
そんな「外面を選ぶのか、それとも中身を選ぶのか」といった二面のどちらを選択するか、なんて見方では何も解決しない。
やっぱり物事には順番というものがある。「仏を作って魂を入れる」んであって、「魂を作って仏を後から」、なんてことをすれば、「仏を作ったつもりが実は餓鬼だった」、なんてことも起こるかもしれない。
「起こるかもしれない」、って・・・・現実、能く起こってました。「この政党に政権を委ねたら大丈夫、この人を総理にしたら・・・」って。
未だに辺野古への基地縮小移転(決して新基地建設じゃないし)ができないのは、桂知事だけのせいじゃない。
あら?脱線した。
「物事には順番というものがある」、でした。
「中身こそが大事だけれど、中身は見えないのだから、外面を厳しく見て、容れ物を精確に作り上げること。それと同時進行で常に中身を見ようと意識し続けることが、最終的に中身を作ることになる」ということ。
更に
「ないものを今から作ろうとするのだ、見えないものを把握しようとし、その実体を現実化しようとするのだから、『中身こそが大事』というのは、つまりは外面・形式・作法に真摯に取り組むことこそが大事ということなのだ」、と。
そして中身はすっかり完成しても見えないのだから、外面・形式・作法としてあらわすしかない。だから、ステテコに腹巻で参拝、なんてことはある筈がない。
神道には経典がない。真理を説くために「方便」を使う仏典や、戒律を守ることで神に敬虔な気持を向けようとするイスラム教のような「親切心(?)」が、神道にはない。
神道の教える境地は、そんなだから、自分で取り組むことで感じるしかない。
その取り組み法。それが「祓え」であるから、作法通りに、とにかく全てを「祓う」。「祓う」しか方法がない。中身(境地)は見えないんだし、誰も説いてはくれないのだから、とにかく手近なところから「祓い続ける」しかない。
「見えないものを見る」、「掴めないものを掴む」、ということをしなければならない、となると、普通、絶望的になる。けれど、神道では唯一、「祓え」という方法が呈示されているわけだ。
じゃあ、それならその「祓え」をもうちょっと何とか教えることはできないか。
「たとえ話で分かりやすく」とか、「やさしい言葉に置き換えて。で、かんで含めるように」などというやり方ならどうだろうか。
戦後の教育は、そのやり方で見えないものを理解させようとしてきた。
しかし、たとえ話はたとえ話でしかない。納得したって「たとえ話」の域を出ることはない。
易しい言葉で説かれたものは、「易しく理解されている」だけだから、見る目のできていない者に、そこらに転がっている凡庸なモノとの見分けはつかない。
戦前、教育は「やる気、初心(発心)を持ち続け、努力し続けることが大事」と言われてきた。
「為せば成る」、と。「成らぬは人の為さぬなりけり」、と。
戦後、教育は百八十度方向を変えて「興味を持たせ、やる気を『起こさせる』ことが大事」とした。
真摯な取り組みは「教える側の努力目標であるべき」、と。子供に努力は期待しない、ということになる。
「中身が大事」「何かを感じることが大事」だからこそ、外面・形式・作法から厳密に取り組まねばならない。
本来は仏教だって戒律を伝えるために戒壇を設け、「戒律を守ることこそが『仏に成る』ための王道」としていたのではなかったか。だから鑑真は失明してまでも日本に戒律を伝えたのではなかったか。
「要は中身だ」。
だからこそ、「外面・形式・作法」から入る。だからこそ「初めに奥義あり」。
真摯に祓い続けることは「日々三省」とも「念仏百万遍」とも、或いは「日に五回の祈り」とも大いに共通するのではないか。
参禅の最初に習う結跏趺坐の細かな形。神道での拝礼の正しい形。茶道の色々な作法。
それぞれの細かな形、作法から入るしかないことも、大いに共通するのではないか。
なのに今回は「まずは形だ!」??ヘーゲルの弁証法だ、「否定の否定」だ!???
とは言うものの「要は中身だ!」は、決して間違ってはいないと思う。
ただし、「中身こそが大事だ。外面、形式、作法なんかは、どうだっていいんだ」、ということじゃない。
そんな「外面を選ぶのか、それとも中身を選ぶのか」といった二面のどちらを選択するか、なんて見方では何も解決しない。
やっぱり物事には順番というものがある。「仏を作って魂を入れる」んであって、「魂を作って仏を後から」、なんてことをすれば、「仏を作ったつもりが実は餓鬼だった」、なんてことも起こるかもしれない。
「起こるかもしれない」、って・・・・現実、能く起こってました。「この政党に政権を委ねたら大丈夫、この人を総理にしたら・・・」って。
未だに辺野古への基地縮小移転(決して新基地建設じゃないし)ができないのは、桂知事だけのせいじゃない。
あら?脱線した。
「物事には順番というものがある」、でした。
「中身こそが大事だけれど、中身は見えないのだから、外面を厳しく見て、容れ物を精確に作り上げること。それと同時進行で常に中身を見ようと意識し続けることが、最終的に中身を作ることになる」ということ。
更に
「ないものを今から作ろうとするのだ、見えないものを把握しようとし、その実体を現実化しようとするのだから、『中身こそが大事』というのは、つまりは外面・形式・作法に真摯に取り組むことこそが大事ということなのだ」、と。
そして中身はすっかり完成しても見えないのだから、外面・形式・作法としてあらわすしかない。だから、ステテコに腹巻で参拝、なんてことはある筈がない。
神道には経典がない。真理を説くために「方便」を使う仏典や、戒律を守ることで神に敬虔な気持を向けようとするイスラム教のような「親切心(?)」が、神道にはない。
神道の教える境地は、そんなだから、自分で取り組むことで感じるしかない。
その取り組み法。それが「祓え」であるから、作法通りに、とにかく全てを「祓う」。「祓う」しか方法がない。中身(境地)は見えないんだし、誰も説いてはくれないのだから、とにかく手近なところから「祓い続ける」しかない。
「見えないものを見る」、「掴めないものを掴む」、ということをしなければならない、となると、普通、絶望的になる。けれど、神道では唯一、「祓え」という方法が呈示されているわけだ。
じゃあ、それならその「祓え」をもうちょっと何とか教えることはできないか。
「たとえ話で分かりやすく」とか、「やさしい言葉に置き換えて。で、かんで含めるように」などというやり方ならどうだろうか。
戦後の教育は、そのやり方で見えないものを理解させようとしてきた。
しかし、たとえ話はたとえ話でしかない。納得したって「たとえ話」の域を出ることはない。
易しい言葉で説かれたものは、「易しく理解されている」だけだから、見る目のできていない者に、そこらに転がっている凡庸なモノとの見分けはつかない。
戦前、教育は「やる気、初心(発心)を持ち続け、努力し続けることが大事」と言われてきた。
「為せば成る」、と。「成らぬは人の為さぬなりけり」、と。
戦後、教育は百八十度方向を変えて「興味を持たせ、やる気を『起こさせる』ことが大事」とした。
真摯な取り組みは「教える側の努力目標であるべき」、と。子供に努力は期待しない、ということになる。
「中身が大事」「何かを感じることが大事」だからこそ、外面・形式・作法から厳密に取り組まねばならない。
本来は仏教だって戒律を伝えるために戒壇を設け、「戒律を守ることこそが『仏に成る』ための王道」としていたのではなかったか。だから鑑真は失明してまでも日本に戒律を伝えたのではなかったか。
「要は中身だ」。
だからこそ、「外面・形式・作法」から入る。だからこそ「初めに奥義あり」。
真摯に祓い続けることは「日々三省」とも「念仏百万遍」とも、或いは「日に五回の祈り」とも大いに共通するのではないか。
参禅の最初に習う結跏趺坐の細かな形。神道での拝礼の正しい形。茶道の色々な作法。
それぞれの細かな形、作法から入るしかないことも、大いに共通するのではないか。
2015.12/11