以前に書いた日記です。
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「友人」と言って思い出すのが、鳩山前首相の「雨中の花見会」、でのスピーチです。
既に、支持率も、どうにもならないところまで落ち込んでいる、そんな時に、予定してあったのだから、と、例年通り、花見の会をやった。
例年に比べれば人数は少なかったけれど、それでも義理を立てて来てくれる人も多く、鳩山氏、
「こんな時にでも来てくれる人こそ、大事な友と言われますが、私も、今、そう思います」みたいなことを言われてました。
メディアはその言を、直接ほめることはなく、かといって、貶す様子もなかった。
「苦しい時の友が真の友」
この言に異を唱える人は、あまり居ないのではないか、と思いますが、どうも、茫洋とした捉え方のような気がする。
「常識ですよ」と言って、何でもかんでも一括りにして、そこから先、考えるのをやめる。
思考停止、というやつですね、そんなふうに思える。
これ、花見の会、でしょう?花見に雨も晴れもない。
晴れの日は晴れの日の、雨の日は雨の日の、それぞれの趣があるんです。
だから、この花見で主役は、鳩山総理でも客でもない。「花」。咲き誇っている花です。
雨のせいで億劫になる中、わざわざ出てきた。
別に花を見たいわけじゃない。義理、或いは私利がからんでいるからこそ、の出席なわけです。花に失礼だ。
ん?花見の会は名目?花見は口実?そうでした。花なんてどうでもよい、わけでした。
「苦しい時の友が真の友」、でした。
だから、この場合は雨が降ろうが槍が降ろうが、何としてでも鳩山氏の下へ「花見」に行く。それが真の友。そういうことですね。
となると、私は思うんです。
「えらく安いもんだな、真の友って」と。
「花見は口実」でした。要は、万難を排して鳩山氏の下に馳せ参ずる。それを、忠誠を誓っている証しとする。そういうことですね。
行けば話が済むんだ。そして、これ、忠誠を誓うんだ。「友」イコール「家来」なんだ。
何のことはない、安っぽい「踏み絵」じゃないか。
(鴻池氏なら、行かないね、きっと。「僕は神戸高校です」って。)
「友」は対等、でしょう?
見返りを求めるのでなく、ただ、「友」だから、表に出ず、全面協力をする。「真の友」って、そういうことだ、と思ってたんですが。
これで、鳩山総理のスピーチは、(あの時は)嘘っぱちだ、と分かったんですが、「苦しい時の友が真の友」、の問題が、まだ残っています。
芥川龍之介の作品に、「杜子春」というのがあります。シナの古典を基にした話です。
その中で、財産をすっかり使い果たして、一文無しになってしまった子春が、途方に暮れて立ち尽くしていたところに、老人が現れ、
「お前の影法師の膝に当たるところを掘ってみよ」と言い、では、と掘ってみると、財宝が出て来た、という形が数回ありますね。子春はその都度、大金持ちになる。
すると、今まで、知らん顔をしていた友人が、みんな笑顔で戻って来て、また金がなくなると、一人去り、二人去り、して居なくなる。
すっかり嫌気がさして、仙人になりたい、と言い出すわけですが、私は或る時、ふと思いました。
「じゃ、この子春の友だち、というのは、本当の友だちじゃなかったわけだ。最後には一人も居なくなった、ということは、子春には一人も、真の友だちは居なかったわけか。それにしても、同じことを何度も繰り返して、その度に、同じ友達が寄って来たり離れたりというのは、杜子春ってのは相当変な奴だな。」
仙人になる試し、には失敗します。でも、仙人は
「それで良いのだ。親を大切に思う心を忘れてはならん」
といったようなことを言って、自給自足の生活ができる程度の土地と家を子春にくれるのですが、私は、この話の結末よりも、あの友だち、金があるときは寄って来て、なくなれば離れていった、という友だちのことが、引っ掛かっていました。
「だから、本当の友だちではない」。そうでしょうか。
杜子春は変な奴です。同じ失敗を何度も繰り返している。阿呆なのでしょうか。
いや、阿呆なら、仙人になりたいと言い出して、あれだけの試練に耐え抜くことなど、できないでしょう。
阿呆でなく、変な奴なんです。
では、杜子春のような奴は、身の周りにいませんか?いますよね、小粒なの、なら、いくらでもいる。「自分だってそうだ!」と思いませんか?
「宝くじがあたったり、思わぬ金が入ったら、全て貯金して、あとは普段どおりの生活をする。」
そんな人間の方が珍しい。必ず、手に入った金の一部、たとえ僅かでも、理由をつけて遣おうとします。
さて、そこに集まってくる友達は、全て「おごってくれ」だけの、ハイエナみたいな人でしょうか。
中には「お前、そんなことやめて、貯金でもしとけよ」と言う者、「折角の金なんだから、増やしてみろ」と私欲なし、本気で投資を勧める者もいるかもしれません。そりゃあ、全部巻き上げてやろう、という奴もいる可能性、大。
つまり、杜子春にも色々な友だちがいた。けれど、杜子春は全てに「耳を貸さなかった。」
「金がなくなったから」一人去り二人去り、でなく「耳を貸さなかったから」一人去り二人去り、ではなかったでしょうか。
みんな一人の人間です。十人十色です。自身の中身も一色ではない。
「真の友人、そうでない友人」、どこで線が引けますか?
「私」の中に、真っ当な私も居れば、変な私もいる。二者対立ではない。
まっとうな私、変な私、常識的な私、怪しい私。
友人だってそうではありませんか。
「今は、何をめざしているのか」、それを互いに理解し合って、それぞれの思いを同じ方向に向け、集中、協力する。
その瞬間、「真の友」を感じるのではないでしょうか。
既に、支持率も、どうにもならないところまで落ち込んでいる、そんな時に、予定してあったのだから、と、例年通り、花見の会をやった。
例年に比べれば人数は少なかったけれど、それでも義理を立てて来てくれる人も多く、鳩山氏、
「こんな時にでも来てくれる人こそ、大事な友と言われますが、私も、今、そう思います」みたいなことを言われてました。
メディアはその言を、直接ほめることはなく、かといって、貶す様子もなかった。
「苦しい時の友が真の友」
この言に異を唱える人は、あまり居ないのではないか、と思いますが、どうも、茫洋とした捉え方のような気がする。
「常識ですよ」と言って、何でもかんでも一括りにして、そこから先、考えるのをやめる。
思考停止、というやつですね、そんなふうに思える。
これ、花見の会、でしょう?花見に雨も晴れもない。
晴れの日は晴れの日の、雨の日は雨の日の、それぞれの趣があるんです。
だから、この花見で主役は、鳩山総理でも客でもない。「花」。咲き誇っている花です。
雨のせいで億劫になる中、わざわざ出てきた。
別に花を見たいわけじゃない。義理、或いは私利がからんでいるからこそ、の出席なわけです。花に失礼だ。
ん?花見の会は名目?花見は口実?そうでした。花なんてどうでもよい、わけでした。
「苦しい時の友が真の友」、でした。
だから、この場合は雨が降ろうが槍が降ろうが、何としてでも鳩山氏の下へ「花見」に行く。それが真の友。そういうことですね。
となると、私は思うんです。
「えらく安いもんだな、真の友って」と。
「花見は口実」でした。要は、万難を排して鳩山氏の下に馳せ参ずる。それを、忠誠を誓っている証しとする。そういうことですね。
行けば話が済むんだ。そして、これ、忠誠を誓うんだ。「友」イコール「家来」なんだ。
何のことはない、安っぽい「踏み絵」じゃないか。
(鴻池氏なら、行かないね、きっと。「僕は神戸高校です」って。)
「友」は対等、でしょう?
見返りを求めるのでなく、ただ、「友」だから、表に出ず、全面協力をする。「真の友」って、そういうことだ、と思ってたんですが。
これで、鳩山総理のスピーチは、(あの時は)嘘っぱちだ、と分かったんですが、「苦しい時の友が真の友」、の問題が、まだ残っています。
芥川龍之介の作品に、「杜子春」というのがあります。シナの古典を基にした話です。
その中で、財産をすっかり使い果たして、一文無しになってしまった子春が、途方に暮れて立ち尽くしていたところに、老人が現れ、
「お前の影法師の膝に当たるところを掘ってみよ」と言い、では、と掘ってみると、財宝が出て来た、という形が数回ありますね。子春はその都度、大金持ちになる。
すると、今まで、知らん顔をしていた友人が、みんな笑顔で戻って来て、また金がなくなると、一人去り、二人去り、して居なくなる。
すっかり嫌気がさして、仙人になりたい、と言い出すわけですが、私は或る時、ふと思いました。
「じゃ、この子春の友だち、というのは、本当の友だちじゃなかったわけだ。最後には一人も居なくなった、ということは、子春には一人も、真の友だちは居なかったわけか。それにしても、同じことを何度も繰り返して、その度に、同じ友達が寄って来たり離れたりというのは、杜子春ってのは相当変な奴だな。」
仙人になる試し、には失敗します。でも、仙人は
「それで良いのだ。親を大切に思う心を忘れてはならん」
といったようなことを言って、自給自足の生活ができる程度の土地と家を子春にくれるのですが、私は、この話の結末よりも、あの友だち、金があるときは寄って来て、なくなれば離れていった、という友だちのことが、引っ掛かっていました。
「だから、本当の友だちではない」。そうでしょうか。
杜子春は変な奴です。同じ失敗を何度も繰り返している。阿呆なのでしょうか。
いや、阿呆なら、仙人になりたいと言い出して、あれだけの試練に耐え抜くことなど、できないでしょう。
阿呆でなく、変な奴なんです。
では、杜子春のような奴は、身の周りにいませんか?いますよね、小粒なの、なら、いくらでもいる。「自分だってそうだ!」と思いませんか?
「宝くじがあたったり、思わぬ金が入ったら、全て貯金して、あとは普段どおりの生活をする。」
そんな人間の方が珍しい。必ず、手に入った金の一部、たとえ僅かでも、理由をつけて遣おうとします。
さて、そこに集まってくる友達は、全て「おごってくれ」だけの、ハイエナみたいな人でしょうか。
中には「お前、そんなことやめて、貯金でもしとけよ」と言う者、「折角の金なんだから、増やしてみろ」と私欲なし、本気で投資を勧める者もいるかもしれません。そりゃあ、全部巻き上げてやろう、という奴もいる可能性、大。
つまり、杜子春にも色々な友だちがいた。けれど、杜子春は全てに「耳を貸さなかった。」
「金がなくなったから」一人去り二人去り、でなく「耳を貸さなかったから」一人去り二人去り、ではなかったでしょうか。
みんな一人の人間です。十人十色です。自身の中身も一色ではない。
「真の友人、そうでない友人」、どこで線が引けますか?
「私」の中に、真っ当な私も居れば、変な私もいる。二者対立ではない。
まっとうな私、変な私、常識的な私、怪しい私。
友人だってそうではありませんか。
「今は、何をめざしているのか」、それを互いに理解し合って、それぞれの思いを同じ方向に向け、集中、協力する。
その瞬間、「真の友」を感じるのではないでしょうか。
2010.06/24
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これ、同じ「桜を見る会」です。
正確には
「人生で晴れた日には人が集まるが、雨が降ると1人去り2人去り、消えてしまう。雨のときに集まってくれる友こそが真の友だ」
と言ったとか。併せて
「新政権も厳しい状況を迎えている。新しい時代にふさわしい桜の花を咲かせたい」とも。
この時、野党であった自民党は、何を言ったんでしょうね。
落ち込んでいた時だから、言葉がなかった?